The War of the Princess on the Pea-後半戦-

「ぅ、………っふ、ん………っ、…………っぷはっ」

きゅうっと羽織を噛み締めてから離し、カイトは片手を上げた。げっそりと疲れ切った顔で、眺める。

「やっちゃった………」

カイトは表情に相応しいうんざりした声音で吐き出すと、瞼を落とした。

「『旦那さま』がいるのに………こんな…………………むなしー……………」

そのまま眠りこみそうな風情だったが、すぐに瞼を開いたカイトはティッシュを取った。欲求不満の証で濡れた手を拭い、大元もきれいにして、乱れた服を整える。

不機嫌な顔で大量のティッシュをゴミ箱に放りこむと、いわば親の仇のように睨みつけた。

「………がくぽが悪い」

結論づけてから、カイトはさらに眉をひそめた。膝に乗せたままの人形と、ティッシュで拭っただけの手とを見比べる。

「……………やっぱり、洗ってこよ」

人形は、カイトの宝物だ。本物には代え難いが、とても大事なものだ。八つ当たりはしても、基本的には丁寧に気遣って扱う。

本当に『使用済み』となった羽織が人形に触れることがないよう、神経質な動きで抜き取ると、カイトはそっと立ち上がった。手も使わないまま器用な動きで、人形をベッドに落とす。

汚れた部分を内側に、羽織をくるんと丸めて持つと、部屋から出た。

「貴様が誤解しているようなので、言っておくが」

「っっひゃぅっ?!」

――出た途端に低い声が吐きこぼされ、カイトは素直に飛び上がった。

よく聞く比喩表現だが、この場合は本当に飛び上がるのだと、身を持って知ったカイトだ。とはいえ、あまり知りたくはない実践だった。

「が、がくっ、ぁっ」

扉横の壁に凭れ、腕組みして立つがくぽは、いつも通りに持てる美貌を盛大に無駄にしていた。

単なる不機嫌顔ではなく、威嚇か脅迫を企むちんぴらだ。凶悪さがある。なぜここまでの美貌をそうまで無為に落とせるのか、どちらかといえばそちらのほうが問題だ。

慌てるカイトへ顔を向けることはなく、がくぽは廊下の、天井なのかどこなのか、あらぬ方を睨み据えて吐き出す。

「俺はこれでいて、堪え性もあれば理もわかる。猿でもあるまいに、サカったからといって即突っ込むだけが、能でもない。ましてや貴様は、ヤるために貰った嫁ではない。愛おしむために、迎えた嫁だ。体調を慮ればこそ、俺の欲望ままだけで連日していられんと、堪えている」

「っそれは、がくぽ、っ」

反論しようとしたカイトを、がくぽはぎろりと睨み下ろした。反射で口を噤み、腰を引いたカイトに鼻を鳴らす。

「今宵からは、俺の部屋で寝るぞ」

「がくぽの、………部屋?」

会話の行き先が不明だ。

ついて行けずにきょとんと瞳を瞬かせたカイトに対し、がくぽは自分の部屋へと顎をしゃくった。

「布団を買って来た。――我ながら愚かも極まりないと思うが、なにもベッドで寝なければならんという法もない。ましてや一人寝用など。俺の部屋なら二人分の布団程度、易々敷ける」

説明を聞くうちに、珍しくもカイトの瞳が尖っていった。引いていた腰が戻り、むしろがくぽへ掴みかかりそうな勢いになる。

実際には掴みかからないものの、カイトは伸び上がり、きっとしてがくぽを睨んだ。

「おんなじ部屋でも、別々の布団に寝るなんて聞かないからねっ床に並んでても布団が別々ならっ」

「うすらぼんやりが、ひとの話を聞け。二人分だと言っているだろうが。ダブルサイズだ」

「っっ」

カイトの主張を皆まで聞くことなく、がくぽは呆れたように言った。

珍しくも尖らせた瞳を一瞬で解いたカイトに、がくぽはようやく凭れていた壁から身を起こし、正対する。

「ひとつ布団に変わりはないが、シングル布団より多少の余裕が出来る。もう少し互いに、身幅にゆとりを持って寝られるゆえな。俺の体が多少まずかったところで、今までほどに貴様に面倒な思いはさせん」

「………がくぽ」

「ダブルベッドとなれば値段も場所も厳しいが、敷布団ならばまだ、どうにかなる。貴様まさか、ベッドでなくば眠れないなどとは、言うまい?」

言葉は訊いているようだが、表情は凶悪だ。目は口ほどにと言う通り、言うまいではなく、言わせないと脅迫しているも同じだった。

ごり押しもいいところだが、カイトにとっては願ったり叶ったりだ。

強張っていた表情がほどけて、睨み下ろすがくぽをいつものように蕩ける瞳で見つめた。

「そんなの、言わない。がくぽとだったらベッドでも布団でも、野宿でもなんでもへーき」

「うすらぼんやりが」

ほわんと笑ったカイトにくちびるを歪めて吐き出し、がくぽは一歩踏み出した。

カイトの表情はほどけたが、がくぽの表情は未だに険しい。

「――まあ、実際のところ、うすらぼんやりは俺だがな」

「がくぽ?」

無邪気にきょとんとしたカイトに、がくぽは堅気としてやっていいのかという方向性の笑みを浮かべた。

非常に危険なのだが、残念な感じにちんぴらモードのがくぽに馴れがあるカイトだ。

警戒心もないまま、無防備に首を傾げるだけのカイトに、がくぽは殊更にゆっくりと告げた。

「俺としたことが、貴様の余力を見誤っていた。不調にならぬよう、ぎりぎりのところで絞り取っていたつもりだったが――」

「よりょ…………しぼ………………っっ!!」

がくぽの言葉をくり返し、カイトはさっと朱に染まり上がると反射で足を引いた。そもそも、腕には『犯行』の証拠である羽織を持っている。

いかにもな感じで、くしゃりと丸めて。

カイトは体を翻したが一瞬遅く、伸びたがくぽの腕に腰を抱かれ、逃がさないと引き寄せられた。

「がががががくぽっやっぱり、見てっいつっ、どこからっ!」

羞恥のあまりに涙目で喚いたカイトに、負けじとがくぽも吼える。

「まさか浮気が出来るほど、体力を余らせていたとはなそうまで欲求不満を募らせた貴様に気がつかんなど、俺もまだまだ甘い!」

「ぅわき、よ、がくっっ!!」

衝撃が次々に積み重なり、カイトはまともに言葉にならない。

全身を真っ赤に染めて腕の中でじたばたともがくカイトを、がくぽは強引に部屋の中へと戻した。

「が、がくぽっ確かに、勝手に羽織を持ってったのは俺が悪いけど、浮気なんかっ!」

「ぁあ゛?!」

――ついでに持って行っただけでなく、『使用済』だ。

しかしなにをしたと言って、いわゆる『一人遊び』だ。浮気の言葉で示される『相手』など、いない。

力ずくで引きずられ押しこまれながらも懸命に主張したカイトに、がくぽはベッドに転がっていた人形の頭を鷲掴みにして、突きつけた。

「ならば、これはなんだ?!」

「な、………て………………」

なんだと言って、――がくぽ人形、もしくはおにぃちゃん人形だ。

リリィが、無聊を慰めようとカイトのために作ってくれた、がくぽの形代。

まさかの予感に絶句したカイトに構うことなく、がくぽは憤然として人形を枕元に置いた。

一見、怒って乱雑な動きだが、きちんと座る形に置いてくれている。なにより、床に放り出したわけではない。

カイトがこの人形に懸けている愛情や思いを知ったうえで丁寧に扱いつつ、しかし。

「夜もそうだ俺に抱かれて寝ながら、片方でこれを抱いて寝るだろう、貴様二股か?!新婚早々に夫の目の前で浮気など、やってくれるものだな、うすらぼんやりが!!」

「が、…………………えー………………………」

人形だ。

もはや言葉にならない以上にする気が失せたカイトの微妙過ぎる視線にも、がくぽがめげることはなかった。

むしろ威風堂々、いい感じに力が抜けたカイトをこれ幸いとベッドに転がす。

「俺の見誤りも原因だ。新婚早々に浮気されるほど、貴様を欲求不満にしていたことに気がつかなかったのだからなゆえに今回は赦してやるが、二度はない」

「えー…………あー、はぁい。ごめんねー?」

誠意の欠片もない声で謝ったカイトへ、がくぽは着物を解きながら伸し掛かった。

「がくぽ?」

「貴様はうすらぼんやりだからな。二度も三度も同じ過ちをくり返さんよう、俺が努めてやる。まったくもって、手の掛かる嫁だ!とりあえずは、もう少し絞ってやろう。浮気する余力など、今度こそ残さん」

「ぁ…………」

言葉の意味を即座に理解して、カイトはふわりと目元を染めた。表情は恥じらいに歪み、横を向く。

カーテンを閉めたとしても、すべてをつぶさに見ることが出来る、昼間だ。陽はようやく中天というところ。

構うことなく着物を解き、カイトの服へと手をかけながら、がくぽは物騒に笑った。

「仕置きも兼ねているからな貴様の好きな『ご奉仕』を、たっぷりとさせてやる。存分に尽くせよ」

「ふぁ………っ」

まだ服が剥かれているだけで、あからさまに触れられているわけではない。

それでもカイトは甘い声を漏らし、うっとりと蕩ける笑みでがくぽを見つめた。

「がんばる………………」

陶然と吐きこぼされた言葉に、がくぽは束の間ナナメを向いた。

「皮肉にも嫌味にもならんうえに、仕置きが仕置きにならん。畜生、悩ましい嫁め…………」

そして夜。

「ちょっと、がくぽ………?!どういうこと?!昼間、あれっっっだけしたのに、なんでもうがちがちなの?!」

「貴様、本気で悩ましいぞ俺がわざわざダブルサイズの布団を買いに行った理由を、なんだと思っている?!どうしてそうまでぴったりと、張りつくんだ!!」

暗闇の中。

未だ疎通ならぬ、悩ましい新婚夫婦のがなりあう声が、しばらく響いていた。