唾液の糸を引きながら、くちびるが離れる。
美麗な顔をもったいなく歪めたがくぽは、小さく吐き出した。
「貴様は甘いな」
おかしなくにのおかしのいえ
蒸し上がったばかりで熱々のプディングは、あまり甘さを感じない。
そもそもが砂糖少なめの甘さ控えめで作っているプディングだが、それでも冷蔵庫で冷やすと、やはり甘くなる。
少なくとも甘いもの嫌いが口を噤んで、開かなくなる程度には。
けれどオーブンから出したての、蒸したて熱々ならば、まだ――
「ん、と。これで、よし」
カイトは電子レンジから取り出した、蒸し上がったばかりで熱々のプディングを、カップに入れたまま耐熱皿に置いた。傍らにデザートスプーンを添えて、出来上がりだ。
クリームをトッピングするでもなし、見た目は寂しいほどにシンプルだ。しかし手作りの素朴なぬくもりがあって、ほんわり和む。
ミトンを外してカウンタに置き、カイトはしばし『今日のおやつ』に見入った。
熱々ぷるぷるのプディングだ。
甘さは控えめでも、バニラが高く香る。蕩けるように甘くあまい――
「ん。カンペキ!」
「貴様というやつは、よくよく俺の好みを聞く気がないな!」
「ふぁ?!」
満足の笑みとともに頷いたカイトだったが、背後から唐突に上がった不機嫌な声にびくりと跳ねた。
ぱっと振り向けば、声に相応しく、より以上に不機嫌に顔を歪めたがくぽが立っている。
美形揃いの芸能特化型ロイド――ボーカロイドの中でも、突出した美貌の持ち主であるのが、がくぽのシリーズだ。
もれなく『がくぽ』の美貌も突出しているが、今日も今日とて躊躇いなく無駄にしている。そこまでする必要はないだろうというほどの、壮絶な歪み具合だ。
「がくぽ」
「それは今日のおやつだな。俺の」
「…………うん」
キッチンの中に入って来ないまま、扉口で腕組みして立つがくぽに訊かれ、カイトは素直に頷いた。
カイトの日課はさまざまあれ、がくぽへのおやつ作りはその中でも、もっとも力を入れているものだ。
夫婦となる前、きょうだいの時代からずっと、変わらない。
カイトは時間があるときは必ずキッチンに立ち、がくぽのためにおやつを作る。
クッキーやマドレーヌ、ゼリーにケーキ、プディング――
「俺は甘いものが嫌いだと、幾度言えば覚えるんだ、貴様?!」
「えー………………」
そう。
カイトが作るがくぽのためのおやつは、常に甘いものだ。砂糖や蜂蜜といった甘味料を少なめに、甘さ控えめにはしてあるが、必ず甘いもの。
がくぽとしては、そうそうおやつにこだわりもない。なければないで構わないのだが、カイトはこまめに作る。
甘いものを。
――だから、甘いものは苦手だと、はっきり言えば、嫌いだと。
作るたびに言っているのに、カイトは聞く耳持たずに作り続ける。
「貴様な………ちょっとじっくり話を聞いてやるから、言え。俺になんの鬱憤を溜めて、そうも毎日まいにち無言で腕を磨いて」
「はいがくぽ、あーん」
「………」
――話を聞いてくれないにも、程がある。
眉間に皺を寄せながら、なんのイヤガラセなのかと訊くがくぽの目の前に、差し出されるスプーン。
もちろん、単にスプーンが差し出されているだけではない。もれなく、出来立て熱々、とろとろ食感のプディングが。
眉間に寄った皺でなにかをつまめそうなレベルになったがくぽだが、カイトはめげることなくスプーンを差し出し続ける。
「ね、がくぽ。あーん」
おまけに愛らしいことこのうえなく、小首を傾げての『あーん』。
がくぽは一度、瞼を下ろした。
がくぽがつい最近、恋に恋焦がれてようやく迎えた新妻は、とにかく愛らしい。突き抜けてかわいらしい。
しかしひとつだけ難点を言うなら、まったく夫の話を聞かなかった。
――わりと致命的な難点だが、それも含めて愛おしく、いくら構い倒しても飽き足らないほどにかわいらしい。
かわいらしいがしかしかかし。
「がぁくぽ」
「………」
結局、今日も負けたがくぽは、がぱっと口を開いた。
カイトは満面の笑みとなり、その口の中へ即座にスプーンを差し込む。
「あっつい?もう少し、冷ましたほうがいい?」
「………構わん」
問題は、熱いの冷たいのではない――甘いということだ。
渋面のまま、がくぽはプディングとともに言葉を飲み込む。
カイトは再びプディングを掬うと、がくぽへ差し出した。
「あーん」
「………………」
蕩ける笑顔のカイトに、がくぽは口の中で言葉を転がした。
立ったままだ。キッチンで。
なし崩しにおやつへと突入させられてしまったが、一度口をつけた以上はいくら嫌いでも苦手でも、食べきる。
だから、座れるところに移動して――
「がぁくぽ。ね?」
「………」
――聞きそうにないと結論し、がくぽは大人しく口を開けた。
ここで下手になにかを話すと、カップの中身が減らない。おやつの時間が引き延ばされる。
カイトが差し出したものを拒絶するという選択肢が存在しない以上、がくぽがするべきはひたすら素直に口を開け、さっさと食べ切ってしまうこと。
「♪」
「………っっ」
がくぽの渋面は、マスターが見たら男泣きするレベルだ。どうしてそこまで、かわいい顔を台無しにするのだと。
かわいいかどうかはともかくとして、美貌を無駄にしていることは間違いない。
しかしカイトはご機嫌で、がくぽの口にプディングを運ぶ。
がくぽにとってはバケツ製のように果てなく思えたプディングだが、実際は小さなカップ製だ。程なくして、中身は空になった。
「はい、がくぽ。ごちそう………んんっ!」
終始ご機嫌のまま、シンクにカップを放り込んだカイトの腰を捕らえると、がくぽは笑みを浮かべるくちびるに貪りついた。
「ん、ん………っ、んんんっ」
「…………っ」
まさしく正しく、『貪る』だ。
軽く触れ合うだけで終わるキスが滅多にない二人だが、それにしても激しかった。カイトのくちびるはやわく吸われるだけでなく、何度もがくぽの牙に晒され、咬みつかれた。
舌も痛いほどに絡みつかれ、吸い上げられて、しゃぶられる。
「ん、ぁ…………っ」
「…………ちっ」
当然の結果として、大して持つこともなく、カイトの膝はかくりと落ちた。力なく崩れる体を支えるがくぽは、引いた唾液を啜りつつも行儀悪く舌を鳴らす。
カイトの表情は快楽に蕩けきっているが、がくぽは相変わらずの渋面だ。
壮絶に眉をひそめながら、唾液でとろりと濡れるカイトの口周りを舐めて、きれいにしてやる。
表情は厳しいが、舌遣いはやわらかでやさしい。伴侶の毛づくろいをする獣にも似て、愛情と労わりに満ちている。
「どうしてそうも貴様は、俺に甘いものを食わせたいんだか………」
「ん………」
腐されて、カイトはくちびるを笑ませた。未だ力の入らない手でがくぽにしがみつくと、肩に顔を埋める。
すりりと、甘えるねこのしぐさで擦りついた。
「がくぽに、あまいもの、すきになって、ほしいなって」
「ぁあ゛?」
「………」
堅気ではない問い返しにも、カイトは笑って擦りつくだけだ。
甘えるカイトの髪を漫然と梳きながら、がくぽは埋まって見えない表情を透かそうとするように、目を細めた。
「貴様まさか、俺とスイーツデートに行きたいなどと言うつもりではあるまいな」
「…………すいーつ、でーと?」
なんだそれはと、きょとんとした顔を上げたカイトに構うことなく、がくぽは渋面のまま短い髪を梳き続ける。
「だとしたら要らん苦労だぞ。俺の好き嫌いに因らず、貴様が行きたいというならどこにでも連れて行ってやるし、どこだろうと付き合ってやるんだ。おかしな根回しを考えるな、うすらぼんやりが」
「………」
カイトはきょときょとと瞳を瞬かせ、渋面のがくぽの言葉に首を傾げる。
――そうでは、ない。のだけど。
まだ、『弟』だったがくぽとした、何度目かのキスのとき。
唾液の糸を引きながら離れたくちびるから、苦々しく吐き出された言葉。
――貴様は甘いな。
黙って瞳を瞬かせるだけのカイトに顔を寄せ、がくぽは薄く開いたくちびるをやわらかくついばむ。出てこない言葉を促すようでもあるし、単に慰撫しただけのようでもある。
そうやって軽くついばんでから、がくぽはいつもに比べると多少情けなく、諦めたように笑った。
「そうだな。……どうしても俺に甘いものを食わせたいと言うなら、どうせだ。明日から、おやつは貴様にしろ」
「………俺?………が、おやつ?」
訝しげにくり返したカイトに、がくぽの笑みは諦めから、いつもの性悪さを取り戻した。
どう考えてもちんぴらか三下か三一という、凶悪にして性質の悪い色を刷くと、無邪気で無垢な新妻の頬を、意味を含んでとろりと撫でる。
「そうだ。貴様だ。貴様が甘い分にはいくらでも食ってやるし、文句ひとつ言わん。俺はこの世で唯一、貴様の甘さだけは好物だからな」
「…………がくぽ」
笑みは凶悪で性質が悪くとも、がくぽの言葉に嘘も偽りもない。
くすぐるように頬を撫でながらこぼされた睦言に、カイトはほんわりと頬を染めた。瞳が熱を持って潤み、夫が好物だという甘さを存分に宿して見つめる。
愛情と恥じらいとに満ちた表情で蕩けるように微笑んだカイトは、がくぽにしがみつく手にきゅっと力を込めた。
「あのね、がくぽ………それなんか、親父臭い…………」
「あ゛?!」
「親父ギャグ?管理職系セクハラ?なんか、そういう感じ………」
「ぁあ゛?!」
堅気ではあり得ない凄み方をするがくぽだが、微妙に致し方ない。
馴れているカイトはさっぱり怯えることなく、喜色満面でがくぽに擦りついた。
「ぇへへ………っ」
「………貴様、このうすらぼんやりが………どうしてそう、悩ましいんだ………っ」
ねこのように擦りついて甘えるカイトを抱きしめ、がくぽはほとんど項垂れて吐き捨てる。
旦那さまの懊悩になどさっぱり構ってくれない新妻は、焼きたてのプディングよりよほど熱く、蕩けて甘くつぶやいた。
「どんなに甘くっても、全部ぜんぶ………俺のこと、ずーっと食べてね、がくぽ」