「あ」
「ちっ!」
たまたま洗面所へと入って来たカイトと鉢合わせしたがくぽは、思わず舌打ちをこぼした。
色は匂ひて咲きぬるを
念のために言っておくが、がくぽはつい最近迎えたばかりの新妻――カイトのことを、それはそれは愛している。溺愛だ。
望んで願って、ようやく手に入れた愛おしい相手だ。
が、そのカイトと偶然鉢合わせて、がくぽがこぼしたのは舌打ちだった。
常から、どうしてそうも美貌を無駄にするのかと嘆かれる、凶悪な表情を晒していることの多いがくぽだが、今は格別だ。不機嫌そのもの、近寄りたい気がまったくしない。
――が、カイトだ。そしてこれは、がくぽの常態だ。
そんなふうにされても、カイトが臆することはなかった。
ついでに補記すると、カイトもまた、旦那さまであるがくぽのことを非常に愛していたが、わずかばかり欠点があった。
がくぽの言うことを、ほとんどまったく聞かないのだ。
『言いつけを破る』という意味ではない。『なにを言っているのか、聞いていない』のだ。言いつけを破る以前の問題で、なにを言いつけられたのかを、そもそも聞いていない。
わりと致命的な欠点だったが、そこも含めてがくぽはカイトを愛していた。頻繁に、『たまにはひとの話を聞け!』と、がっくり項垂れていたとしてもだ。
そして今回は、その致命的な欠点が功を奏した。
がくぽが渋面なのは常態なので、カイトは初めから気にしない。こぼされた舌打ちに関しても、いつも通り、きれいに聞き流した。
聞き流したうえで、さっとがくぽの様子を観察する。視覚で捉えた客観的な事実だけを判断し、カイトは軽く目を見張った。
「がくぽ、お風呂入るの?今から?俺も入る!」
「ち………っ」
――二人とも、すでに夕食を終えている。あとは寝る時間まで、マスターの新曲作りに協力したり、姉妹たちとゲームに興じたり、もしくはがくぽがそうしようとしていたように、入浴したりとして、三々五々、適当に過ごす。
妹のリリィ曰く、『超迷惑どきゅん☆おばかっぷる』が、がくぽとカイトだ。
人目を憚ることなく、どこでもそこでもいつでもいちゃいちゃべたべたと過ごしているが、家族の入る余地がまったくないわけではない。
今日に関して言えば、夕食が終わると、カイトはもう一人の妹、グミとカードゲームに興じていた。トランプではない。トレーディングカードゲームのひとつだ。
トランプや花札といった古来からのカードゲームとは違い、こういったものは概ね、一対一で行われる。
リビングで対戦に興じるカイトとグミを、がくぽも途中まで観戦していて――
「対戦は」
「終わった。俺が三戦全勝」
苦々しく訊いたがくぽに、すでに自分の服に手を掛けていたカイトはあっさり答えた。がくぽの眉が、さらにきゅっとひそめられる。
カイトの戦果に、疑いがあるわけではない。むしろ、予想通り過ぎて意外性の欠片がまったくない。
旧型としてのスペックの低さに由来する思考の鈍さや、設定された性格が非常におっとりしていることもあって、常から『うすらぼんやり』と評されるカイトだ。
しかしこと、カードの引きの良さとなると、神憑りもいいところだった。グミなどは毎回、悪魔的だと涙目になっている――持ち札自体は大したことがないのに、ここぞというところで効果絶大な札を、きっちり毎回引くのだ。
トレーディングカードゲームだけではない。トランプだろうが花札だろうが、なんであっても同じだ。
さりげなく、カイトは家庭内におけるゲームの最強王者だった。それも、プログラムに由来する計算力の高さに因らず、あくまでも引きの良さという、偶発性によって。
ロイドにあるまじきこと、甚だしい。
「グミちゃんはこのまんまじゃ悔しいから、リリィちゃんと対戦するって。だから俺はお役御免」
「………ふん」
さくさくと躊躇いなく服を脱いでいくカイトに、がくぽは鼻を鳴らした。溺愛して止まない新妻が無防備な姿になっていくのだが、その目に喜色や欲望が溢れることはない。
眇められた瞳は、どちらかというと困惑に満ちて見えた。
シャツを脱ぎ捨て、スラックスに手を掛けたカイトは、動きの止まっているがくぽへわずかに不思議そうな視線を向けた。
「がくぽ、なんで黙って、ひとりでお風呂に行ったの?ゲームの終わる時間なんか、大体わかってるでしょ。俺、がくぽのお嫁さんなんだし………オセナカナガスのに」
「うすらぼんやりが」
意味がわかっているのかどうか怪しいカタコトで言ったカイトに、がくぽは鼻を鳴らした。
どこか歪みながらも、その顔に笑みが戻る。
「要らん気を回すな。貴様がやたら奉仕好きなのは知っているがな、下手に付き合う気はない。貴様はうすらぼんやりらしく、俺に頼って任せていればいい」
「だから………」
頼るにしろ、任せるにしろ、がくぽがひとりで行ってしまってはやりようもない。
指摘しようとして口ごもり、カイトは軽く上目になった。スラックスに手を掛けたまま考えこみ、動きが止まる。
逆にがくぽは動きを取り戻し、着物を脱いでいった。よく見れば、いつものようなキレのない、微妙に躊躇いがちな動きだ。しかしカイトは考えに沈んでいて、気がつきようもなかった。
――見ていたとしても、カイトは細かい機微を気にするような性質ではない。気がついたかどうかは、大穴狙いもいいところの賭けだったが。
「おい。さっさとしろ」
それでも言葉だけは偉そうに促したがくぽを、カイトは微妙に不満そうに見た。背を屈めると殊更に上目遣いになって、警戒して体を硬くしたがくぽを覗き込む。
「俺、ちゃんとがくぽのこと、洗ってあげられるよ?」
言い張ったカイトは不満そうな表情ながら、ふんわりと頬を染めた。
「んと、カラダにせっけん、つけて……それで、がくぽにカラダこすりつけて」
「家の風呂でソープごっこをやろうとするな!!」
最終的には不満から羞恥へと変わったカイトに、がくぽは叫んだ。ある意味当然の叫びだが、日常が概ねそうなっているということは、この場合記憶の彼方に封印されている。
ちなみに『そう』なっていると言っても、カイトが→がくぽに奉仕するのではない。がくぽが→カイトの体を洗うと称していいように弄び、結果的に逆ソープと成り果ててしまっているだけだ。
しかし非常に都合のいい記憶回路を持つがくぽは、己の普段の行状をきれいに棚上げしてみせた。
そしてカイトといえば、叫ばれて目を丸くはした。が、目を丸くした理由が、少しばかりずれていた。
「『そーぷ』、?」
「悩ましいわ、貴様……………っ!!」
困惑してカイトがくり返した単語は、先の『オセナカナガス』と同じく、意味がわかっていないあやふやなものだった。がくぽは思わず、頭を抱えて呻く。
常々、カイトが披露する『新妻の心得』の歪み加減に頭を悩ませるがくぽだ。つまり偏っているのだが、どう偏っているかといえば、成人向け――あまりにアダルト寄りなのだ。
清純無垢そのものの顔で、カイトは現実から乖離した、成人向けエロスな『新妻の心得』を信奉している。
そう、もはや信奉していると言っていい。
疑問もなく躊躇いもなく、むしろとても生き生きとしてやり甲斐に満ち、カイトは『えっち奥さん』になるための努力を日々、重ねている。
問題はどこでどうやって、この手の偏った知識を仕入れたのかが不明ということだが――
「えと、確か、えーご?で、せっけん………うん。だから、せっけんで………」
「悩まし過ぎるんだ、貴様というやつは………!」
一所懸命に旦那さまの言葉を理解しようとしてくれるのは、この新妻の姿勢としては珍しい。なにしろ、がくぽを愛していることは確実でも、頻繁に言われることを聞き流すカイトだ。
がくぽってヘンだから理解できないと、あっさり放り出す傾向にもある。くり返すが、愛はある。がくぽと結婚したいと、お嫁さんにしてくれないと嫌だと、駄々を捏ねまくったのは記憶に新しい。
そういうカイトも含めて溺愛しているがくぽだが、いくらなんでも悩まし過ぎた。
知識の歪み具合が、予想以上にして、複雑怪奇だ。
『お風呂でご奉仕』の内容を知っているくせに、どうして『ソープ』という単語が通じないのか。
「がくぽ?」
「いいから脱げ!そして大人しく俺に洗われろ!」
「えー………………?」
自棄を極めて喚いたがくぽに、カイトは軽く眉をひそめた。カイトには、がくぽが自棄を起こした理由がまったく不明だ。
不明だが、残念なことにこれは常態だった。珍しいことでもないので、カイトが深く考えることもない。
ただ、いっしょにお風呂に入るご許可は出たと、そこだけ理解して良しとした。
「んっ。ぬぐ………」
「煽るな。大人しくだ。単に風呂に入るだけだ」
「んっ」
ほわわんと肌を染めて頷いたカイトから、がくぽは微妙に目を逸らした。あちらこちらを彷徨わせてから、すでに脱ぎ終わって剥き出しにした自分のご子息を確かめる。
「堪え性のない。っっ!」
「ぇへっ!」
叱咤したところで、がくぽの体は固まった。すべて服を脱いだカイトが、無邪気な笑みとともに腕に組みついて来たのだ。
カイトも裸だが、がくぽも裸だ。触れ合うのは、素肌同士。しかもカイトは、すでにこりっと硬くなりつつある胸の突起を、殊更にがくぽの腕に擦りつける――
しかしカイトに、深い意図はない。いつものように、がくぽに甘えているだけだ。互いに衣服という遮蔽物がないために、いつもなら誤魔化される感覚が誤魔化されていない、それだけのことだ。
「ん、と……でも、もう俺、がくぽのお嫁さんなんだから、ね?してもらうだけじゃ、なくて………ちゃんと、旦那さまにご奉仕、するから……」
「く………っ」
甘く熱っぽい声で強請られ、がくぽは落涙しかけた。見なくてもわかる。自分と一心同体のご子息の堪え性のなさぶりたるや、ちょっと滝行にでも追いやりたいレベルだ。
剥き出しにされている以上、旦那さまのご子息に堪え性がないことは、新妻にも筒抜けだ。
がくぽの腕に擦りついていたカイトは動きを止め、さらにきゅうっときつく、抱きついた。
「いっぱい、ご奉仕する、ね……」
「家でソープごっこは禁止だ」
「え?」
――自分の普段の行状はきれいに棚上げし、がくぽは頑強にくり返した。
瞳を瞬かせ、きょとんと見つめるカイトを睨むように見返したがくぽは、しがみつかれた腕を振りほどく。カイトが抗議の声を上げるより先に、腰をきつく掴んで抱き寄せた。
「貴様は大人しく、俺に洗われていろ。なにもするな。俺に尽くされて、蕩けていればいいんだ」
「がくぽ……」
言い聞かせられて、カイトはしぱしぱと瞳を瞬かせる。
揺らぐ瞳は無邪気で無垢だ。いわゆる『ご奉仕』など、ほんとうにはなにも知らないだろうと思うほどに。
溺愛する新妻を抱くがくぽの腕は滑り、抵抗も知らずにされるがままのカイトの腰からその下、きゅっと締まった双丘へと落ちた。
カイトはぴくんと跳ね、がくぽへと身を寄せる。揺らぐ瞳には熱が篭もり、甘くがくぽを映した。
募る欲望を抑えようとくちびるを舐めながら、がくぽはそんなカイトを抱く腕に力を込める。
「ぁ………」
「大人しくだ。俺が洗うに任せろ。隅々まで、洗ってやる。隅々まで、な?」
「んん………っ」
耳朶に吹き込まれ、カイトはぶるりと震える。白い肌を朱に染め上げると、期待と欲を含んでがくぽを見つめた。
ふんわりと、微笑む。
「がくぽ、なんか………セクハラおやぢっぽい………」
「ぁあ゛?!」
堅気ではない問い返しをしたがくぽにも、カイトが臆することはなかった。うれしそうに笑って、下半身をもぞつかせる。
「えとね、がくぽがご奉仕よりせくはらのほうが、好きなら………いっぱい、せくはら、していーよ?」
「洗うだけだ!」
うっとりと吐かれた言葉に、がくぽは震撼して叫び返した。腰を通り越した場所を撫で回していた手に、力が入る。
「洗うだけなんだから、大人しく洗われていろ!」
「ん。おなかの奥の奥まで、がくぽので、ぜんぶ洗って………」
――動揺極まった挙句、がくぽの言動の矛盾は甚だしい。
そんな旦那さまに『せくはら』されている、愛らしくも悩ましい新妻は、甘い言葉とともに堪え切れない嬌声も吐きこぼした。