しろくろやぎの往復書簡
小さな夜をゆくための奇貨寓話集
リビングに入ったマスターが首を傾げた理由は、大きく二つある。
一つ、カイトががくぽの膝に乗っていない。あるいは、がくぽがカイトを膝に乗せていない。
一つ、で、ふたりはなにをしているのかという。
首を傾げつつ、ふたりが向き合って座るリビングテーブルに近づいたマスターは、初めの疑問が解決しないうちに新たな疑問を二つ、抱えることとなった。しかも今度は首を傾げるだけでなく、眉もひそめるようなものだ。
一つ、がくぽは字を、カイトは絵を、ともにクレヨンで書き散らしているようだ。
一つ、それはいいが、どうしてカイトは大きな『×』の書かれたマスクを、口もとに嵌めているのか。
「……がくぽ?」
「筆談ごっこ中だ」
眉をひそめたマスターが、詳細に問い詰めるまでもない。がくぽは間髪入れずに答えた。
聞く耳を貸してくれさえすれば、がくぽも『がくぽ』――シリーズ『神威がくぽ』なのだ、根本的には敏い。
がくぽはそのまま立て板に水、断崖絶壁から滝とばかりの勢いで、説明を続けた。
「『筆談』ゆえな。口を使うことなく、互いに書いたものだけで意思疎通を図るのがルールだが」
「だとしてもっていうか、だったら余計、カイトにマスクは…」
むしろ必要なのは、がくぽではないのか。
困惑しつつ口を挟んだマスターに、がくぽは妙に異国情緒を感じさせるしぐさで首を振った。横だ。
「カイトはとにかく、表情が豊かよな。いっそ表情のみですべて読み通せる。紙を渡される前にもはや、なにを書いたか概ねつまびらかだ。しかしてそれではルールに沿わんだろう。だからと表情を固めろと言えば、動きも止まる………これでも本人に選ばせたぞ。『ω』と『×』、どちらがいいかと」
「がくぽ……」
選ばせたのはそこかと、マスターは肩を落とした。
もうひとつ落とす肩の理由は、カイトが選んだという、マスクの表面に描いた模様だ。せめて『ω』のほうだったら、もう少しかわいかったのに――という。
顔の半面を覆い隠すマスクに仰々しい赤字で『×』などと引いてあると、罰ゲームにしか見えないではないか。
そう、『見えない』と言えば、だ。
「『筆談』って言った、がくぽ?」
聞きながら膨れ上がったもうひとつの疑問をマスターは口にした。リビングテーブルに乱雑に広がるスケッチ帳の切り端へ、目をやる。
『そらがあおいとおわんがなく』、『きゅうかんちょうきゅうかんちゅう』……――
さすが『がくぽ』、クレヨンであっても形の整った、きれいな字である。
が、問題はそこではない。
筆談だ。筆『談』。読んで字の如し、会話の一形態である。で、これはいったい、どういう流れの『会話』なのかという。なにより――
「まあ、そうだな、疑問はもっともだ」
マスターが皆まで問うまでもなく、がくぽは答えた。珍しくもその声音に若干のばつの悪さが含まれていて、マスターは改めてといった調子で、がくぽを見直す。
がくぽといえばマスターを見てはおらず、切り端の一枚をつまんで眺めていた。
『かっぱらっぱかっくらった』。
「ことの初めは確かに『筆談』であったのだがな……どうも単に字を書くのみというのは、カイトの――KAITOの美学に反するらしくてな。言い換えれば、飽きたな、そうそうに。結果、こうだ。カイトが描いて、俺が読み解くという」
「ぅーん………?」
納得半分、追加の疑問半分――マスターは微妙に情けない顔で、リビングテーブルに散らばる紙片を眺めた。
だから、カイトだ。カイトが書いて――描いているもの。
少なくとも決して字ではないし、紙面がこうも全面、入念に塗りたくられている以上、絵よりの字だとか、字よりの絵だとかいうものでもなく、絵よりの絵であろうという。
しかしいったいこれを、どう読み解くのか。
一般に判じ絵と言われるものとも違い、いわば、KAITOシリーズが本領を発揮した、つまり、そう、非常に芸術性の高い、――
完全に塗りたくられ、塗りつぶされた色彩鮮やかなこの一枚から、いったい情感以外のなにをどう、読み取れると。
「それは『ろじうらろじすてぃっくろんぎぬす』だな」
「………」
途方に暮れた心地でマスターがつまみ上げた一枚を軽く見て、がくぽはいとも簡単に読んだ。だけでなく、胡乱な眼差しとなったマスターの、そのつまむ一枚に手を伸ばす。数箇所を指で突いた。
「よく見ろ。『ろ』『じ』『う』『ら』『ろ』………カリグラフィーとかなんとか、あったろう。文字を絵画的に装飾する技術が。それだ」
「えぇ………っ」
マスターとてカリグラフィーに詳しいわけではない。が、違う。違うと言える。気がする。
判じ絵も違うが、だからといってこれがカリグラフィーとは――しかしがくぽが指差したところをよくよくよくよくよくよく見れば、決してカリグラフィーではないが、確かに文字っぽい雰囲気が。
そのつもりで眺めた大量のスケッチ帳の切り端、ふと目に止まった一枚を、マスターはなんの気なしにつまんだ。
「あ、これはなんだか、読めた気がする。『すみれはあおい』……?」
マスターは読み上げるだけでなく、がくぽにも見せた。答え合わせだ。
軽く視線をやって、がくぽが頷く。
「ああ、そう…」
「っ!!」
がくぽが頷くのと、カイトが手を伸ばすのは、ほとんど同時だった。
ちょうど新たな一枚を書き終えたところだったらしいカイトは顔を上げ、マスターが手にする一枚を見るや、ひと瞬きの間に肌を赤く染め上げ――
「え……ぇえーーーと………?あの、カイト………?ごめ………?」
ずいぶんな勢いで奪い取られた紙片と、その紙片を自らの下敷きに、テーブルに突っ伏してしまったカイトと。
戸惑いつつ見比べるマスターに、初めは同じような困惑を浮かべていたがくぽが、ある瞬間、莞爾と笑んだ。
「ああ………ああ。そうだった。それはいかんな。マスターにデリカシーがない」
「えええっ?!」
そのまま、せっかくの美貌を台無しににやつくがくぽと、テーブルに突っ伏したままながら、気まずそうに視線を投げてくるカイトと――
「いや、えっと……すみれ………んほんっ!ぇええっと、~はあおい、あらせいとうはあま…………あっ……………………………」
懸命に記憶を漁りながらつぶやいていたマスターは、そこで止まった。思い出したのだ。
――ばらはあかく、すみれはあおい。あらせいとうはあまく、きみもまた――
一節のみの抜き書きではあるが、これはあれだ、それだ。
恋歌だ――
マスターは盛大に目をしけらせると、美貌も無惨にやに崩れているがくぽを憤然と見た。
「デリカシーがないのは君だよ、がくぽ……せっかくカイトがくれたラブレターなのに、そんな乱雑な扱いして。ちゃんと額装しておくべきなのに!」