たとえるなら、嵐が去った直後の虚脱感だ。
『直後』だ。生き延びたことをよろこぶほどの余裕もまだ戻らず、過ぎ去ったはずの嵐はまだそこに、いるような気がしている――
Three Ships Come Sailing By...‐後編‐
「ぅう………」
がくぽはふらふらと部屋に入り、カイトのまえの床に膝をついた。ほとんど落ちるようにへたりこむと、カイトの膝にがっくりとあたまを預ける。
「えー………っと。ぅん」
万事にぶいとされるKAITOだが、実はこういったことには敏かった。一般では『おにぃちゃんチート』などと呼ばれている。
だからと、ほんとうにチートというほどではないはずだが、万事にぶいとされているKAITOは、とにもかくにも『あまえたい』気配に敏感だった。
そういうわけで、がくぽが落ちるように目のまえにへたりこんだところで、膝に乗ったままだったタンバリンを脇にのけ、きちんとスペースを確保してやっていた。
だから安心しきって、がくぽはカイトの膝へあたまを預け――
「兄、よく考えたら、マラカスはあまりに鈍器ではありませんか?!」
「だから抑止力たり得………否待てグミ!だからそなた、なにをする気なのだ?!」
タンバリンにカスタネットに、マラカスだ。扱うのはVOCALOIDだ。
本来であればリズム系のなにかをする気のはずだが、そもそもタンバリンは護身具として用意し、そしてマラカスは鈍器だという――
世界記録でも更新しそうな勢いで駆け戻ってきて叫んだいもうとに、がくぽも跳ねるようにカイトの膝からあたまを上げ、こんどは負けず劣らずの声量で叫び返した。
さすがのグミも、はっとした顔で動きを止める。おおきな瞳をさらにおおきく見張って、戦慄くくちびるがゆっくり、開いた。
「『だからこその抑止力』――!さすがは兄で」
「いいから聞け。聞きなさいグミ。兄を『兄』と呼ぶなら、すこしぅ、耳を貸してはもらえまいか!」
「わあ、三段活用…?」
なんだかうれしそうにつぶやいたのは、がくぽのことばを指折り数えたカイトだ。なにがそうまでうれしいのかといって――つまり、KAITOは『3』という数字が好きなのだ。説明に苦慮するところだが、好きなのだ、『3』が。
どんな内容の話をしていようが、『3』という数字が絡んだら、うれしくなってしまう。
特に、話の勢いが過ぎて、ほとんどまるで内容に追いつけていないようなときなら、なおのこと。
たとえそれで、がくぽがことばだけのことでなく、もはやほとんど土下座の状態になっていようともだ。
対して、話についていけているほう、――おそらく話についていけているほうである、グミだ。
ようやく、口を噤んだ。口を噤み、訝しげに兄を見た。より正確に描写すれば、グミは立っており、がくぽは土下座、もとい、床に座っている。
目線の問題は如何ともしがたく、どうあっても見下ろす感は否めないが、がくぽは気にしなかった。先までとは違い威迫に満ち満ちて、臆することなく、見下ろすいもうとと目を合わせる。
紅を塗らずとも朱を刷くくちびるが、烈と開く。
「いいかグミ、マラカスはいい。『いい』というのはつまり、ほしいなら買ってもらえば『いい』ということだが、――それでそなたまでカイトの、………着つけ、に、同席するというのは、俺は認めんぞ。今日のような、影に潜んでの参加もだ。いいか、男が、男たる逸物をもろ出しにするのだぞ。たとえ相手がカイトであろうが、――時代錯誤であると糾弾されようともな、しかし、兄は厳として認めんからな。そのような場に、年頃少女ないもうとを同席なぞ、させて堪るか」
「兄、それは」
厳として諭した兄へ、グミはかっと瞳を見開いた。おおきな瞳をさらにおおきくし、戦慄くくちびるを開く。
「それはつまり、とうとうオトコになる覚悟を決めたという」
このいもうとからの問いに、がくぽはふるりと首を横に振った。横、否定だが、なにを否定したのかだ。
がくぽはすぐまたいもうとと目を合わせ、きっぱり、返した。
「案ずるな、グミ…覚悟を決めようが決めまいが、兄は男だ」
――これをして、いもうとがいもうとなら兄も兄という。あるいは、兄が兄だからいもうとがいもうとと。
どちらであれ、グミだ。この兄の、いもうとだ。兄よりよほどにオトコマエな。
どこまでもきまじめに返した兄へ、おなじほどきまじめに頷いて返した。
「わかりました、兄。カスタネットは止めましょう。兄こそがマラカスです。兄にこそ、マラカスです。ええ、マスターに至急でお願いしておきますから!」
――おそらくグミは、なんでもいいからきっかけがあれば、マラカスを買いたかったのだろう、きっと。
『至急』のことばどおりにまた、世界記録でも更新しそうな勢いで廊下を駆けていったグミの遠ざかる足音を聞きつつ、がくぽはそう考えた。床に手をつき、がっくりと沈むからだをようやく支えながら。
とにもかくにも、これでようやく、事態の収束の目途が見えた。はずだ。いや、収束するかは不明だが、混迷の事態をさらに、底が抜けるほど引っかき回されるようなことはなくなった。はずだ――すくなくとも、マスターがマラカスの購入に応と答えるまでは。
「ぅ、ぅう……」
「っ!」
傍らから落ちてきた呻きに、がくぽははたと、我に返った。ちからが抜け過ぎて床に沈みこみそうだったからだを慌てて起こし、声のほうを見れば、カイトが真っ赤な顔で唸っている。
唸るのみならず、カイトは手を伸ばし、がくぽの肩口をちょんまり、つまんだ。
「――ッっ!!」
この瞬間、がくぽの思考は勢いよく開花した。花が咲き、花が開いて、あたまに詰まっているものがお花さんだけとなった。
一瞬だ。
一瞬のことだが、だとしても、詰まったものがおがくずでなかったことは幸いだった。どういった意味かはともかく。
もはやヘコみが戻らなくなるほどぐいぐいとがくぽのツボを押しこくりながら、しかして実際にはちょんまり袖を引き、カイトは戦慄くくちびるを開いた。
おなじほど戦慄くことばを、吐きだす。
「ぃ、いつ…っ、ぅ、いつ………っ」
「カイト、『いつ』というなら…」
――グミまで同席してのふんどしの着つけ会は、いつなのかと。
がくぽを相手には、感想を言わないでくれ程度の羞恥で済ませたカイトだが、さすがに年頃少女まで同席して『ご開陳』となれば、もはや羞恥というレベルの話ではないだろう。
いや、だから先にグミへも通告したとおり、がくぽはいもうとの同席を認める気はさらさらない。いかにいもうとが兄よりオトコマエであろうともだ、それとこれとは次元の違う話だ。
しかし、つまり、――さらさらないが、グミであるので、断言はしない。『できない』のではない。『できない』のはわかりきっている、見栄を張る余地すらもなく。
付き合いも、そこそこだ。あくまで友人としてであるが、友人であればこそ、そういった情けない事情も隠せず筒抜けであるカイトが、むやみな覚悟を固めるため、ギロチンの日はいつかと訊いたのだと。
――思い、とにかくあくまで努力義務の希望的観測でしかないが、グミを参加させることはないからとなだめようとしたがくぽへ、カイトはきゅうっと、瞳を閉じた。
かたくきつく瞼を落とし、叫ぶ。募るものにのどが閉じて閊え、実際に漏れ出た声はひどくちいさかったが。
「ぃ………っ、いつぶっ……、て、ほどじゃ、な………っ!」
「ん?ぃつぶ…」
「あ、ふつっ、ふっつー!だからっ!ですからッ!いつぶ、じゃ、ないけど、ちっちゃとか……かわいいとか………でもなくてっ!ふっつー!ふっつー、ですカらっ!!」
――ただしくは、『いちもつ』だ。男性器を示す言い換え語のひとつ。
なんの話かといって、だから、サイズの話だ――気にしているのかと問えば、『気にしていない』と勢いこんで返され、言外に白状しているもおなじ、カイトの。
くり返すが、先のグミとの会話で、がくぽが発したのは『いちもつ』だ。カイトの男性器を示して。
兄の立場から、いもうとを相手に、すくなくとも現代語の俗語、現代スラングで直截に伝えるよりはまだましなはずという、いわば迂遠表現の。
が、そこそこの早口でもあった。
過ぎて鷹揚なカイトでは会話のすべてにはついていけず、たまに聞き取れたとしても、断片で、意味が取りにくい。
あるいは、聞き違える。
たとえば、単なる『男性器』という程度でしかない『いちもつ』を、男性器のうちでもサイズ感溢れて立派なものを示す『いつぶつ』だとか。
それで――つまり、だから、そういうことだ。
「………気にしているんだな、カイト。つまり、その、サイズというか、ナニの」
「してっ!してなイっ!なゐませんったらぁああっ!!」
実際に目にしていないが、もうすでにがくぽは口にしかけた。とても口にしたかった。
かわいいと。
口にしてもいいとは思う。サイズや形状に関しての感想ではなく、そうまで気にするカイトへの評価なのだから。
とはいえ、この問題は繊細だ。うかつなことをいえば、簡単に自分の首こそ締まる。なにしろがくぽもまた、カイトとおなじ器官を持つ男声であるのだから。
カイトはもはや立ち上がり、だんだんだんと足踏みした。地団駄だ。
じだじだと地団駄を踏んだカイトは、つぎにスラックスに手をかけた。もたつきながらもベルトを抜き、ボタンを外し、――
「待てカイト、なにを」
慌てて腰を浮かせ、カイトの手を抑えようとして触れられず、がくぽは中途半端なところで両手をおろおろうろうろと彷徨わせた。
そのがくぽを、カイトはきっとして睨み下ろす。
「もっ、みてっ?みせるっ!!だって気にしてナイヵらっ!でもついでだからがくぽ、なんかその、おっきくなる方法?教えておいてっ!!」
「ヵ……ッ!!」
くちは災いの門という。
災いの――
果たしてこれは災いであるのか、それとも棚からぼたもちな幸運であるのか。
二階から目薬という気もするなと。
慣用句やことわざを片っ端から並べ立てるがくぽは、そう、逃避していた。
そんな場合ではない。
はずだ。