がくぽが右手に取ったのはにっかりと大口を開けて笑うさるのぬいぐるみであり、左手に持ったのはフロントが人面の汽車のぬいぐるみだった。
それをカイトに差し向けて、曰く。
「これはどうだ?」
コノイト、リンジ-前編-
「………」
目が笑っていないと、カイトは思う。兄のことではない。いや、兄の目も今は笑っていないが、兄は真剣な表情をしていて、そもそも笑顔の要素がないのだから、いい。
そうではなく、ぬいぐるみだ。
どちらもくちびるを引き裂いて、大口を開けてにっかり笑っているのだが、目が笑っていない。
――ように、カイトには映る。
必然的になにか、ぬいぐるみたちと睨み合うようになったカイトはうっかり、兄の問いに答えることを失念した。
が、それはそれで『答え』でもある。
がくぽは差し向けていた手を戻し、改めてといった感じでさると汽車と見合い、頷いた。
「なるほど。違うのか。となると…」
「あの、にぃさま?」
――ぬいぐるみの表情がどう見えるかなど、所詮、個人の感想だ。個人の、カイトの感想でしかない。
それを基準に判断されても困るわけだが、そう、まずいったいなにを判断しているのかという話だ。
「その、にぃさまの誕生日ですよね?にぃさまの誕生日のお祝いで……………どうして選ぶのが、がちゃぽへのプレゼントなんです?」
「ぅん?」
戸惑いから覚束ない口調で、カイトはこぼした。
いや、先に念を押しておこう。カイトだとて末のおとうと、がちゃぽのことはかわいい。逆に幼いおとうとのためにならないとわかっているのに、強請られるとつい、なんでも叶えてやろうとしてしまうくらいにはかわいい。
それはもちろん、一家の頼りになる長兄、がくぽとて同様であり、いや、長兄であればこそその情愛はいや増すと、カイトも理解している。
が、それはそれのこれはこれとして、だ。
本日、カイトが兄、がくぽと連れ立って出かけたのは、そのまさにがくぽの誕生祝いのためだった。
より正確に言えば、誕生日を祝うための贈り物を購入するためだ。
少なくとも兄は、カイトを連れだす際にそう言った。誕生日の祝いを買いに行くから、付き合ってもらえまいかと。
――それはカイトだとて、なにか変な言い回しだとは思った。
買いに行く誕生祝いの、だから『誕生日』の主役、掛かる主語は誰かという話だ。がくぽだ。
まさに当人が――
自分で、自分の誕生祝いを買いに行く?
そんなことをしなくても、マスターにしろいもうとにしろ、それにカイトだとて、兄が欲しがるもののためには微力どころか全力を尽くすつもりであるというのに。
あるいはマスターから祝い金をもらったかして、それを使いに行くという意味かとも思ったが、道中、それとなく訊いたなら違うという。
それで、まず行った先だ。
音楽機材の専門店だった。
そこで買ったのがいもうと、グミへのプレゼントだ。
ワイヤレスのヘッドホンなのだが、なかなかのお値段だった。そう、『値段』と言いきることができず、つい、『お値段』と言ってしまうほどには。
――え?それ、グミちゃんへの…?
――ああ。欲しがっておったゆえ。こういった機会でもないとな、なかなか買ってやりにくい値段であろう?
その段階でもう、戸惑って覚束ず訊いたカイトへ、兄は朗らかに笑って答えた。
言うとおり、なにかしら特別な理由でもなければ――あるいは、特別な理由があってすら買ってやりにくい『お値段』だから、それをきっぱり買ってやれる兄の漢気に、カイトはつい、ときめいた。
がしかしの、だから、だ。
グミの誕生日ではない。
がくぽの、誕生日なのだ。
特別は特別かもしれないが、特別の方向性だ。あるいは対象だ。
いったいどうして祝われるべきがくぽが、家族とはいえほかの相手へ貢ぐのか。
――とはいえカイトだ。その段階ではまだふんわりと、わずかに胸がもやつく程度の疑問でしかなく、それ以上突っこむこともなく次の目的地へとついて行った。
いわゆるゴシック・ロリータ衣装の専門店だった。
そう、もうひとりのいもうと、リリィへのプレゼントだ。
周囲は当然ながら洋装かつ、リボンやフリルといったものを多用した衣装の客ばかりで、ボーカロイド用で柄が派手めであるとはいえ、普段着の和装のがくぽとカイトの目立つこと、目立つこと――
――いや、俺ひとりではとても入れん、入ってはいけない世界よな。そなたがいてくれて助かった。
すでに目星をつけていたという衣装をまっすぐ目指し、速攻で買って出たところで、兄はからりと笑ってそう言ったものだが、カイトはそれどころではなかった。
いったいどこでどう、カイトが役に立ったというのか、そこからもうまったくわからない。
いっそ兄ひとりのほうがまだ、浮かなかっただろうとすら思う。なにしろがくぽの美貌はとにかく突き抜けているし、所作だとて優美で、洗練されている。たとえ平服であろうと、兄がその気になりさえすれば、それこそ貴族もかくやだ。
そういう兄がひとりで行きさえすれば、あの場に集った客からもらったものは不審ではなく、羨望の眼差しであっただろうに――
さらに言うならその衣装一式の値段だ。お値段だ。またしてもだ。
ブランドの新作であれば当然かもしれないが、グミへのそれとも引けを取らず、勝るとも劣らずの衝撃価格だった。
諸々の衝撃にくらふらしつつ、カイトが引き連れられて辿りついたのがここ、おもちゃ屋だ。
言うまでもない――末のおとうと、がちゃぽ用の。
ここに至って、カイトはようやく訊けた。
どうして自分の誕生日に、ひとへのプレゼントばかり買いこむのかと。
棚に置いて見下ろされる位置となると、今度はなにか企まれているような笑みに見えるぬいぐるみから懸命に目を逸らしつつ、カイトはことりと首を傾げた。
「先に買った分も、そうですが…あの、にぃさまの誕生日のお祝いを、買いに来たのですよね?」
「………ふむ」
念を押すカイトに、がくぽは自分の顎へ手をやった。さらりと撫でて、カイトの動きをなぞるようにことりと、首を傾げる。
ただしその表情を彩るのは笑みだ。迷いもためらいもない、まっすぐな。
「俺の誕生日だというのに、ひとに贈るものばかりを当人たる俺が買うのはおかしいか?」
「その、…」
問う声は浮かべた笑みと同じくやわらかく、責める響きは帯びていなかった。
それでも束の間すくみ、口ごもったカイトだが、最終的にはやわらかさに押し出されるようにして兄と目を合わせた。揺らぐ瞳を惑いにけぶらせ、こくりと頷く。
「はい。あまり一般的な作法ではないように思います。その、たとえば箱でいただいたお菓子を、にぃさまはよく家族みんなに、『お福分け』と言って分けてくださいますけど……それとも違う気がしますし」
訥々と、しかしきっぱり言い切ったおとうとを、がくぽは瞳を細め、愛おしく眺めた。
このおとうとの、いくつもある美点のうちのひとつだ。
やわやわしく見えて芯が通っており、すっきりと潔い。たとえ最愛を捧げる兄を相手とはいえ、こういったところでおかしなふうに言葉を濁し、諾々と迎合して流すことをしない。
とはいえ、だ。
「違わぬのだがな。お福分けで合っている」
「え?」
けぶる瞳をきょとんと不可解に、ひどく無垢な様態でカイトは瞬かせた。
常には落ち着いた、馥郁とした色香を醸すのがこのおとうとだ。だというのに今はひどく幼く、無邪気に見えた。
堪えも利かずのどを鳴らしてしまい、がくぽの笑みには苦みが混ざった。
「にぃさま?」
その苦みの由来が、おとうとにはわからなかったのだろう。兄の笑みから苦みを読み取りはしたものの、節操もなく向けられた欲情への反応はなく、ただ、首を傾げた。
これもまた、兄への深い信頼の為せるわざ――
さらに複雑に捻じれる気がするこころとともに、がくぽはカイトへと手を伸ばした。やわらかに、けれど確固とした意でもって触れ、顎を撫で、目を合わせる。
けぶり、揺らぎ、見つめれば常に吸いこまれそうな気のする、青も青い瞳。
「そなたら家族皆の想いを無碍にするつもりはない。毛頭ないが――あえて問おう。俺がもっとも欲しいものがなにか、わかるか」
「…っ」
問いに、どこか重たげでもあったカイトのけぶる瞳がはっと開いた。揺らぐ瞳に呼ばれるように顔を寄せていた兄と、ぎりぎりのところで見合う。
それも、わずかだ。
見開かれた瞳はすぐ、眇められた。先以上に細く、すぐ目の前にいるがくぽから逃れようとするかのように目線も移ろって、けれど体が逃げることはない。逃げない体はきつく固めて強張って、けれどその固さの由来であり、緊張の由縁だ。
じわじわと染まっていく肌を、熱を伴って甘く濡れていくものを、がくぽはごく間近に見て、嗅ぎ、味わった。
いや、本来の意味では味わっていない。いないが、舌に蘇るものがあり、手に、肌に、なにより――
「無欲なおとうとよ。そなたがまこと望むは、常にひとつきりだ。そしてそのひとつは常にまた、俺のなにより望むことでもある。なにより、なににも増して欲深に望むひとつだ、カイト」
「にぃ、さまっ」
カイトが上げた声は小さかったが、どこか悲鳴にも似ていた。それと意味を同じくする声がまた耳に蘇って、がくぽはうっそりと笑う。
どう考えても近づけ過ぎた顔を、がくぽは比喩でなく全力を振り絞ってカイトから離した。だけでなく、羞恥に歪み染まる顔を押さえていた手も離す。
「にぃ、っ」
羞恥に上げられなかった顔が、失ったものを追ってぱっと上がる。
その眼前に、がくぽは黒い顔のひつじのぬいぐるみと、ぎょろ目を取りつけられた巨大な黄色いスポンジを突きつけた。
「これならどうだ」