コノイト、リンジ-後編-
「……………………………」
勢いと勢い、勢い同士だ。カイトはくっと顎を引き、くちびるを引き結んでぬいぐるみと睨み合った。
こくりとのどを鳴らして呑みこんで、今度は手を上げる。先よりはっきりとした意思の表明として、突きつけられたぬいぐるみの顔を押しやった。
やわらかな力でしぐさではあったが、拒絶のしぐさだ。
「これも違うのか。ふむ?もしやして、『ぬいぐるみ』というジャンル自体が選択ミスか?」
言葉もなく示された拒絶に気を悪くすることもなく、がくぽは押し戻されたぬいぐるみと素直に見合い、首を捻った。顔を上げるとおもちゃ屋の、そう広くはない店内をゆるりと見渡しながらぶつくさとこぼす。
そんな兄へしばらく、なんとも表し難い眼差しを向けていたカイトだが、結局、諦めた。
敏い兄だ。たとえちらりとも視線をやってくれずとも――
いや、そうだ。この状況でちらりとすら視線をやってくれないのが、なにより兄が敏さを発揮している証拠だ。
なぜなら目を合わせれば、カイトへ『説明』しないわけにはいかなくなる。
けれどきっと、がくぽは今回のことについてあまり詳細に説明したくない。つまびらかとすることにひどく抵抗を感じている。
それでもとにかく弟妹に甘い兄は、目を合わせてしまえばハリセンボンだろうが針千本だろうが、求められるまま飲み下してしまうから――
「よくわかりませんが」
兄の卑怯さを情愛にくるんで呑み、カイトは首を横に振った。否定だが、これは同時に肯定でもあった。なにかと言うなら兄の選択であり、そして『選択ミス』という判断に対してだ。
「にぃさまが、がちゃのほんとうに、いちばん望むものを買ってやりたいと思うのでしたら………がちゃに選ばせてやってください。あの子を伴って、もう一度、こちらに伺って、あの子自身に」
カイトの言葉の、主張の最後のほうは、訥々とした言いになるだけでなく、気弱に揺らいだ。
確信がないからではない。確信はある。強く、疑いようもなく、あの末のおとうとがもっとも歓ぶものは『それ』であると。
より近いのは、罪悪感だろうか。ならば『どうして』それで末の幼子がもっとも歓ぶのか――
もうようやく聞こえるかというぎりぎりの声で、カイトはこぼした。
「あの子は、小さいですから………あまりに幼過ぎて、誰かが連れ出してやらないと、ひとりではどこにも行けません。どこも、行かせてやれません。それは愛情ですし、苦にする子でもありませんが、………」
大好きな長兄とのお出かけ、それもおもちゃを買ってもらいに行くとなれば、そのよろこびはどれほどのものとなるだろう。
それはより正確に言えば、買ってもらえたモノに対するよろこびではないが、だとしてもだ――
「………それで、行きか帰りにカフェか喫茶店か、とにかくどこかしら甘味処に寄って、おやつも食べさせてやるのだろう?」
「っ」
言いながらうつむいてしまっていたカイトが、混ぜっ返すような兄の言いにぱっと顔を上げる。
しかし言葉は続くことなく、強張っていた体からも力が抜けた。なぜなら顔を上げて、ようやく見た兄の顔だ。浮かべる表情だ。
「対案はないな。最上だ。よし帰ろう」
「え、あ、にぃさま?!」
カイトが思わず目を細めるほどの輝く笑みを浮かべたがくぽは、手に持っていたぬいぐるみを一瞬で棚に戻し、挙句、さっさと身を翻して歩き出してしまった。
確かにカイトが提案し、呑んでくれた結果ではあるが、その決断の速さであり、行動の迷いのなさだ。
もれなく忘れず手を引かれたカイトだが、もとが鷹揚な性質ということもある。兄の即断ぶりにまったく追いつけず、足をもつれさせた。
が、大事に至ることはなかった。がくぽはすぐさま引く手を離し、それをカイトの腰にやってよろけた体を支えてくれたからだ。
とはいえ、だからいいというものでもなく、がくぽは慌てて抱えたカイトの顔を覗きこんだ。
「すまぬ、カイト。大事ないか?痛みは?おぶって…」
「だいじょうぶです」
――放っておけば、兄の過保護は加速してこじれる。内実は愛情なのだが、得られるのはろくでもない結果だ。
これまでの経験からよくよく身に沁みて理解していれば、口早に言い募る兄の言葉をいっさい訊かずに弾いて、カイトはきっぱり告げた。
その強さに、わずかに鼻白んだように兄が顔を引く。
顔を引いてくれたことでさらに目が合わせやすくなり、カイトは兄の揺らぐ花色を見据え、もう一度、口を開いた。
「だいじょうぶです」
一度目は反射、二度目は念押し、三度目なら――だ。
ただおっとりしているというのとは違う、ことさらにゆっくりした口調で同じ言葉をくり返し、カイトはわずかに語気を弱めた。
「どこも痛くないですし、なにもなっておりません。危なかったのはにぃさまのせいですけど、きちんとにぃさまが守ってくださいましたから」
「ああ、うむ………」
付け入る隙がないというのは、こういうことを言うのだ。
それでもがくぽはしばらく、疑り深い目でおとうとを上から下から眺めていたが、どうやら言葉通りであると認めざるを得なかったらしい。
無事に済んだのだからいいだろうと思うのだが、どうしてか微妙にしょげたようにカイトを解放した。解放して、けれど未練がましい目を向けてくる。
「……とはいえ、詫びの気持ちを表したい。この近くに確か、アイスケーキを出すところがあったろう?そこに寄ろう。そも、よく歩いたしな。ひと休みしてから帰ろう」
「いえ、にぃさま」
だからなにも起こらなかったのだと三度目をくり返そうとして、カイトは黙った。黙って瞳を瞬かせ、今度はその青が疑り深くけぶって、カイトは首を傾げて兄を見た。
「………あの、にぃさま?そういえば今日って、カイトとにぃさまと、ふたりきりですね?つまりこれは、デートですか?」
「ぅむ」
――この場合のがくぽの頷きは、肯定ではない。相槌だ。咄嗟にかろうじて打てた、返せた反応という。
つまり、カイトの問いは素晴らしいまでの直球だったし、受け止め損ねたがくぽは容赦なく鳩尾を抉られたし、どうにか誤魔化そうとした今日の真実を容赦なく暴かれたし――
ゆえにより正確を期すなら、がくぽの発音は『ぅぶ』とか『ぅぐ』に近かった。ほとんど呻き声だ。
あまりにまっとうかつ深く的の真ん中を射貫かれたがために、非常に微妙に微妙な空気を醸しつつ、がくぽはどう答えたものかと煩悶した。
そうしたカイトといえば、ようやく霧が晴れた心地ですっきりと、棺桶に片足を突っこんだも同じ心地の兄を眺めた。
今日の買い物を、がくぽは『お福分け』だと言った。その類で正しいと。
いろいろ伏せられ、誤魔化された先の説明では、いったいなにを貰って、なにを分けているつもりなのかというのが釈然としなかったが――
この一日を、最愛を注ぐおとうとたるカイトとふたりきりで過ごせること、過ごさせてもらえることに対するそれであるとするならば、だ。
――それでもあの金額を『お福分け』と称されるのは、いくらどうでも分が過ぎないかとも思うが、同時に、カイトとふたりきりのこの時間をどれほど兄がたのしみに過ごしていてくれていたかもよくわかる。
さらにそこから辿って、この今の、兄の提案だ。
いつものように過保護をこじらせた挙句、大丈夫だというカイトの言葉が耳に届かなくなっているわけではない。無為かつ不要な贖罪を重ねようとしているわけではなく、まだまだカイトとふたりきりの時間を過ごしたいという。
駄々だ。
想いが深くなり過ぎ、愛情表現がたまにとても迷路になる兄の袖を、カイトはちょこりとつまんで引いた。
こんなことを期待していると告げるのは、示すのは、ひどく恥ずかしい。はしたない子だと呆れられやしないだろうかと、いつでも不安がある。
だとしてもだ。
――俺がもっとも欲しいものがなにか、わかるか。
期待と不安とが絡み合ってどうしても背が撓みがちとなり、カイトはことさらに下からちらちらちらと、顔を向けてくれたがくぽを窺った。
「その、にぃさま?あの、『ひと休み』って、――どれくらいですか?アイスケーキ分、だけ……?」
「………」
そわつき、目元のみならず全身の肌を染め、咲き匂うような風情のカイトが言外にこめた問いを、望みを、差し出したものを、敏い兄が取りこぼすことはなかった。たとえつい先に、カイトを突き転ばせそうになったり、カウンタを喰らったりと、立て続けにやらかしていようともだ。
こくりと欲を呑むがくぽののどの動きは、下から覗きこむカイトの目につまびらかだった。堪えも利かず節操もなく向けられた兄の欲情を今度は確かに読み取って、カイトの肌はさらに染まり、瞳は熱に蕩ける。
一度は離したがくぽの手が、艶やかに咲き匂うおとうとへ伸び、その手を掴んだ。
先よりはやわらかに、先よりよほどにきつく握って、がくぽはゆったりと、過ぎて鷹揚な性質のおとうとでも無理なくついて来られる速さで足を踏み出した。
「まあ、そうだな…今日はもう、この時間だ。なれば、がちゃを連れ出すのは明日以降となろうから……今日これからは、まるまるすべて、そなたとの『ひと休み』に費やせるが」
そこまでは曖昧な声音でもそぼそとつぶやき、がくぽはふいに、おとなしくついてくるおとうとを振り返った。
ふわりと、笑う。
「そなたはどれほどを兄と『ひと休み』したいと望んでくれるだろうな、カイト?」