ふわ、と。

背中を押されたような、気がした。

押し倒していいですか?

「カイト」

「ふにゃ?」

膝抱っこから一転、ソファに押し倒されて、カイトはきょとんとがくぽを見上げた。

押し倒したがくぽは切羽詰まった顔で、無邪気なカイトを見下ろす。

「押し倒してもいいか」

「うん、がくぽー」

床に座ってソファに背中を預けていたマスターが、のんびりした声を上げる。

「訊くまでもなく、もう押し倒してるなー」

「ああ」

そういえばそうか、とがくぽは軽く宙を睨んだ。

ということはこの場合、訊くべきことは。

「………」

「うん、あのな。どうしてここでスイッチ入っちゃったかね、おまえは。俺もいるってのに」

「………」

考えあぐねるがくぽに、テレビ画面から目を離さないままに、マスターが訊く。

そもそも、ここは家族の集うリビングだ。

そして今まさに、家族三人揃って、休日の楽しみであるお笑いDVDの鑑賞会の真っ最中だった。

がくぽとカイトと、ふたりきりだったわけではないのだ。

そして画面の中では、今は大物司会者となった漫才コンビが、漫才の真っ最中だ。話は政治や世相をおちょくったもので、色気も素っ気もなければ、下ネタのしの字もない。

これが洋画を観ていて、濡れ場のシーンだったというなら、どこかでがくぽのスイッチが入ったとしても納得がいくが。

三人で漫才を観ていて、カイトは声を上げて無邪気に笑っていた。

おそらく、話の半分どころか欠片すらわかっていない。政治にも世相にも、さっぱり興味がないからだ。

それでも笑うから、いったいなにが琴線に触れるのか不思議ではある。

とはいえともかく、押し倒すようなムードもへったくれもなかったことだけは、確かだ。

「がくぽ」

押し倒されたままのカイトが、自分の行動に戸惑うがくぽへと手を伸ばす。

「がくぽ、俺とえっちする?」

「ごふっ!!」

「っ」

マスターは素直に魂を飛ばしたが、がくぽも一瞬、駆動系が止まりかけた。

カイトの声も表情もあまりに無邪気だ。どこでその単語を覚えてきたかわからないが、意味がわかっているとは思えない。

「カイトえっちって、えっちって、なにするかわかってるのか?!」

振り返って必死の形相で訊いたマスターに、カイトは自信満々に頷いた。

「知ってるよピ○グー観てべんきょした!」

「ピ○グーで勉強?!ピ○グーでなんの勉強ができると?!!」

驚愕して叫ぶマスターだ。それから、はたと気がついた顔でDVDラックを見た。

「ちょっと待て、そもそもうちにピ○グーなんてないだろうどうしてカイトがピ○グーなんて観るんだ?!」

「マスター」

応えたのは、渋面のがくぽだ。彼には山ほど心当たりがあった。

がくぽの渋面を見て、マスターもまた思い至った。額を押さえて呻く。

「かーなーまーりー…………!!」

マスター曰く元妻の弟、がくぽ曰くマスターのイロである鋺-かなまり-は、たまに家に来ては、ひどく下らない悪戯を仕掛けていく。

そのひとつが、子供用DVDのパッケージで擬装した、裏物DVDをこっそりと置いて行くことだ。

一度、がくぽが間違えて再生してカイトに見せてしまい、大騒ぎになったことがある。

そのときにマスターは鋺を呼び出して、厳重に注意したのだ。

だが悪戯が服を着て歩いていると言われる鋺に、反省の言葉は存在しない。

それからもちょくちょく同じことをしては、がくぽが発見して密かに処分していたのだ。

しかし今の話だとどうやら、処分しきれなかったものがあったらしい。

しかもそれを、カイトが観たと。

「カイト…………」

項垂れるがくぽに、カイトは笑って口を開き、べろりと舌を出した。

「俺、がくぽのだったら、舐められるよ」

「かかかかか、カイトっ!!」

マスターが悲愴な声を上げる。

初めて裏物DVDを観たときには恐怖のあまりに泣きじゃくっていたのに、いつの間にやら成長するものだ。

感心している場合ではないが、がくぽはちょっとだけ、胸がほっこりした。

ひ○こくらぶを片端から読み漁って、懸命に育児に励んだ甲斐がある。

より正確に言うと、微妙に育児に失敗しているのだが。

「カイト、つまりおまえ、がくぽとなら………ええ、つまり、その、なんだ」

言葉を濁すマスターに、カイトはやはり、無邪気な笑みを向けた。

「がくぽとなら、えっちしてもいーよ。がくぽなら、俺に突っこんでもゆるす」

「カイト………」

がくぽはこくりと咽喉を鳴らした。

カイトは無邪気だ。あまりに無邪気で、「勉強した」と言ってもどの程度理解しているか、判別し難い。

それこそ、理解できないはずの世相漫才で笑っていたような感覚だ。

それでも、いいと言われると心が逸る。きっと理解できていないと思うのに、そこに付けこんでもいいじゃないかと言う声がある。

やおらマスターが立ち上がった。

「カイト、おっきくなったなマスターは感激した!!そうだ、お祝いに赤飯を炊こう。赤飯といえば、もち米にささげだな。マスターはこれからちょっと出かけて、もち米とささげを買ってくるカイトのお祝いだから、弾むぞ。もち米は隣町の行列の出来るお米屋さんに買いに行くから、帰りはものすごく遅くなる!!」

「マスター」

ひとつひとつ数え上げるようなマスターを、がくぽは淡々と見上げた。

「そうもこと細かに気を遣われると、かえって気恥ずかしい」

「む、そうか」

どう考えてもマスターは、お邪魔虫はいなくなるからふたりきりでごゆっくり、と言っている。

とはいえ言い方だ。

素直に、ごゆっくり、とでも言ってくれればいいのに、妙に繊細に気を遣われて、かえって空転している。

がくぽは頭を振ると、カイトの上から体を退けようとした。そのがくぽの首に、カイトの手が回る。

「がくぽ、しないの?」

「…」

がくぽはわずかに考える。どうしてこうなったか、その端緒。

なにかに背中を押された。

笑うカイト。見ていた。漫才ではなく、笑うカイトを――

振り返ったカイトが、顔を寄せる。笑みの形のくちびるが、がくぽのくちびるを掠めて。

つぶやく。

――たのしいね。

背中を押された。

カイトの笑顔。つぶやかれた言葉。他愛ない日常。いつものふれあい。なんでもない――

けれど、確かに感情が膨れ上がって。

「俺としたくない?」

重ねて訊かれて、がくぽは少しだけくちびるを吊り上げた。瞳を細めて、組み敷いたカイトを見る。

「したいな」

それが正直な感情だ。

カイトが理解できていなくても、していいと言われるなら付けこみたいくらいに、カイトに触れたい。いつもいつも風呂に入れたりなんだりで肌に触れることは常態だが、そうではなく――

「………………カイトは、俺としたいか」

訊いたがくぽに、カイトは笑った。

「したい!」

「そうか」

答えを確信していても、やはりきちんと言葉にされると違う。

がくぽはカイトへと顔を沈め――る、途中で、そろりそろりと離れて行く足に気がついた。

顔を上げると、懸命に気配を殺して去ろうとしていたマスターを、淡々と見る。

「……マスター」

「うん、がくぽ!」

声を掛けられたマスターは、びくりと飛び上がった。

「がくぽも成長したなマスターは感激した!!だから今日はお赤飯だけでなく、ハマグリのお吸い物も付けようがくぽのお祝いだからな、マスターがんばっちゃうぞ。ハマグリはスーパーの安売り品じゃなくて、魚市場で新鮮獲れたてぴちぴちを買って来よう。そういうわけで魚市場まで足を伸ばすから、帰りは果てしなく遅くなる!!」

早口にまくし立てるマスターに、がくぽは軽く眉をひそめた。

「だから、マスター。そうもこと細かに気を遣われると、かえっていたたまれない」

「難しいお年頃だな、がくぽ!」

「そうだな」

降参するマスターに、がくぽは瞳を細め、くちびるをわずかに吊り上げる。

マスターは軽く息を呑み、束の間立ち竦んだ。

ややして大股にソファに近づいてくると、がくぽの頭をわしわしと乱暴に撫でた。

「うん。やっぱり今日は記念日でいい。だから気合いを入れて、食材を調達してくる。帰りは遅くならないかもしれないけど、すぐにキッチンに篭もるからな。今日の夕飯は期待しろ」

「はい」

素直に頷いたがくぽの下で、カイトが大きな瞳を期待に輝かせ、マスターを見つめる。

「マスター、お祝いおいしいものいっぱい?」

「ああ、おいしいものいっぱいだ」

頷いて、マスターは手を伸ばすと、カイトの頭もわしわしと撫でた。カイトの口から明るい笑い声が上がる。

「カイトもな。カイトのおかげだから、マスターは張り切るぞ。デザートには、アイスケーキを買ってきてやる」

「ふわぁあああっ、やったぁっvvv」

歓声を上げるカイトの頭をもう一度撫でてやって、マスターは今度こそリビングから出て行った。

その背を見送って、がくぽはカイトへと顔を戻す。

微妙に気が逸れた。

なんだか、今すぐどうこうしなければいけないような感じでもない。

「がくぽ」

「………ああ」

感じではないから、今すぐここで、わかっていないに違いないカイトを怯えさせる必要もない。

けれど、胸に溢れる感情は、なにかしらの形でカイトを求めているから。

「カイト。押し倒しておいてなんだが、こういうことは、夜、寝室でやるものだ」

「そうなの?」

「ああ。昼間のリビングでやるものではない」

「じゃあ、しない?」

「ああ、しない」

言い切ってから、がくぽはカイトへと顔を沈めた。

「今はそこまでしないが、キスだけ。キスだけ、しよう。マスターが帰るまで。夕食が出来たと、呼びに来るまで」