クレヨンで描いた線の上を水を含んだ筆が走ると、色がじんわりと滲んで広がり、絵はやわらかく解けていった。
クレヨンで描いたものとも、絵の具で描いたものとも、微妙に違う。
けれどひたすらに、やさしい絵――
3匹のねこのどんがらぴっしゃん
ミトトシから与えられた仕事部屋の、床に直接座って筆を走らせる海斗の両脇には、カイとイトがいる。
カイとイトは机に伏せ気味にして、視線だけ、クレヨンを滲ませていく筆の動きを追っていた。
仕事のときは床座がいいと、海斗はいつも通り遠慮なく、ミトトシにごねた。結果貰った仕事用机が、物置に仕舞われていた古く大きなこたつだ。
カイもイトも、古びて傷も多いこのこたつ机を、ひと目で気に入った。
元の家、『生まれた』ときから住んでいたアパートでも、海斗はこたつを仕事机にしていた。
あそこは狭かったから、そもそも仕事専用の机など別に置けなくて、そこで食事もゲームも、なんでもした。古びたこたつは、傷と落書きだらけで、――
同じものではなくとも、『生まれた』ときから馴染んだものの気配に、カイもイトもひどく和んだ。
初めは微妙に渋い顔をしていたミトトシだが、二人の様子に、海斗の頭をひとつ小突いて我が儘を受け入れた。
『そういうこと』はちゃんと先に説明しろと、いつもよりは多少緩い、お小言とともに。
「………マスター、あのね?」
筆の走る先を視線で追いかけつつ、カイがぽつんとつぶやく。
海斗が今、筆を走らせている絵に使われているのは、普通のクレヨンではない。
水を含ませると色が滲む、特殊なものだ。もちろん、そのままでも構わない。しかしこうやって、水を含ませた筆であとから色を広げて、初めて完成する画材でもある。
カイとイトが描いた――不可思議、としか言えないクレヨン絵の上を、海斗は楽しそうになぞる。
筆の辿った先から線が滲み、ぼやけ、絵は――ますます不可思議としか、言えない様相を呈する。
プロがどう手を加えたところで、理解可能域に持っていける不可思議と、まったく手の施しようがない不可思議は、どうしても存在する。
しかし海斗の手には迷いも淀みもない。これがどういう絵で、どういうふうに色を広げていけばいいのか、きちんとわかっているようだ。
カイとイトに絵を描けと言ったのは海斗だ。テーマがわかっているとはいえ、それで説明が済むレベルではない。
ある意味でこれも、魔法のようだ。
「マスターはね。………みったんのこと、好きなの?」
唐突な問いにも、海斗の筆が淀んだり、道を外れたりすることはなかった。
まったく迷いもなく――海斗の性格、そのままに。
「スルのはさ、好きだから、スルの?みったんのこと、スルくらい好きだから、スルの?」
イトのほうも、静かに訊く。瞳はあくまでも、筆の先を追いかけている。
海斗を挟んで机に突っ伏す二人は、そもそもがまったく同じKAITOシリーズだ。亜種でもなく、0型1型の違いもなく、まったくの同型。
いつもは性格の違いが出て見分けもつくが、そうやって同じ振る舞いをすると、どちらがどちらか、一瞬惑う。
間に挟まれた海斗の筆は、揺れもぶれもしない。
一度画用紙から筆を離すと、傍に置いたバケツに漬ける。
水を補充してから、ちょうどいい状態にまで絞り、再び画用紙に戻した。
「みぃはねー」
クレヨンの線をなぞりながら、海斗は笑う。明るい表情で、声だ。
一度は終わった関係、終わらせられた関係で、半ば強引に復縁を迫った男のことを語るのに、含みもなにもない。
「最初のオトコじゃないけど。最後のオトコにしようと、思った相手なんだよねー、俺」
筆の動きはなめらかで意外に速く、カイとイトの視線はくるくる踊る。
静かに伏せっていても表情は無邪気で、筆を動かすのを追うしぐさは、ねこにも似ている。
絵本作家である海斗の代表作は、『こねこのカイとイト』――二人をモデルにしたこねこの兄弟の、日常に起こるささやかな冒険や事件を描いたシリーズだ。
思いつくのもわかる気がする、二人の様子だった。物語に嘘も虚栄もなく、本当にあったことをただ、こねこの姿に置き換えただけなのではないかとすら、思うほどに。
「んだからさ、『このままだと、二人とも駄目になる。破滅しかない。別れる』とか、すんっごい一方的に言われて縁切られても、俺としては、えーそーなん?だめってだめなん?って、感じだったわけ」
「んっ」
「ふゃっ」
筆が踊るような、くすぐるような動きを画用紙上で見せ、カイとイトはぴょこんと頭を跳ね上げた。
反応がいい。
ぶっと吹き出した海斗は、またバケツに筆を漬けて、水を含ませた。軽く絞ってから、画用紙には置かないまま、からかうように中空を彷徨わせる。
「っ、っっ、っ」
「っっ、っっ!」
――反応が、いい。
まさにねこよろしく、そのうち手が出て来そうな雰囲気すらある。
そうやってしばらく遊んでやってから、海斗はバケツに筆を戻し、乾いた分の水を含ませて、今度はきちんと画用紙に落とした。
「…………みったん、マスターのこと、キライなの?」
画用紙を落ち着いて走る筆に、カイとイトの頭もまた、静かに机に懐く。
そのうえで落とされる問いが、容赦ない。
無邪気に慈悲のないカイの問いに重ねて、イトも軽く眉をひそめる。
「てゆーか、ダメになるとか、ハメツするとか、どういう感じ、いうの?」
こちらもこちらで、難しい問いだ。
海斗の筆が淀むことはなく、表情が歪むこともない。
一切の動揺もなく絵に向かい、だからといって、カイとイトの話を聞いていないわけでもない。
聞いていて、それでも動揺することもなく、平然と絵に向かう――躊躇いなく筆を走らせ、やわらかな色を生む。
常識派で、理知的、現実に生きるミトトシにとって、海斗の姿がどう映ったことか――
「みぃのことは、みぃにしかわかんないけど」
ごく当然のことを言ってから、海斗は笑った。バケツに筆を漬け、あまり絞らないまま、画用紙に戻す。
大きめの水滴が落ち、殊更に色が滲んだ。
そうやっていくつかの場所に、ぽとぽとと、水滴を落とす。
「好き過ぎるんだと、思うよ。だって俺、別れるって言われる前から言われたあと、今になってもずっと、みぃに嫌われたって気が、したことないし」
いくつか滲んだ場所を作ると、海斗は一度筆を置いた。わずかに身を引いて、絵を確かめる。
カイとイトの目は今度は、そうやって仰け反るマスターに行き、絵に戻った。
「「よくわかんない」」
素直な感想を吐きこぼしてから、イトは軽く眉をひそめた。
「でも、こうやってまた、いっしょにいるじゃん」
「うん。俺、なんかあったらもう、速攻みぃのとこに押し込んでやろうと思ってたからね!虎視眈々だよ。意外に俺は、トラなんだよ!」
なにかしら偉そうに言う海斗に、カイのほうがわずかに顔を上げた。
「いくらトラでも、お肉ばっかり食べてたらだめなんだよ、マスター。お野菜もちゃんと食べるの」
――ツッコミどころは、そこだろうか。
カイのツッコミどころのずれに、海斗もイトもツッコまなかった。
スルー推奨の家訓があるわけではない。単に全員が全員、ツッコミ力が低いだけだ。
イトといえばさらに眉をひそめ、絵の出来を確かめる海斗を胡乱そうに見上げた。
「したらマスター、ハメツしちゃうの?だめになっちゃうの?みったんとロッポンギシンジュクなの?」
「なんか聞き覚えあるね!………なんだったか思い出せないのが、まあ、いっつもネックなんだけど」
つぶやいて、海斗は絵から視線を外した。くり返すが、ツッコミ力は低い。皆無に等しい。基本はボケ倒すのが、この三人のスキル限界だ。
わずかに顔を上げても、やはり伏せっている状態のカイとイトに手を伸ばすと、海斗はその頭をわしわしと撫でてやった。
「だいじょーぶだと、思うんだよね、今度は。主に、おまえたちのおかげで」
「ん?」
「おれたち?」
撫でられて瞳を細めていたカイとイトだが、わずかにきょとんと見開いた。
海斗は笑って、ますます二人の頭を撫でる。その手つきは、ねこや犬といった動物を撫でるのと同じだ。
「カイとイトと、あとがっくん、かな」
「がくぽも?」
「なんで?」
もっと撫でれというように頭を起こして海斗に近寄りつつ、カイとイトはきょときょとんと訊く。
請われるままに撫でてやりつつ、海斗は意外に器用に肩を竦めた。
「俺と二人っきりっていうのが、たぶん、だめなんだよ、みぃって。俺しか見えない、俺しか世界に存在しないっていうのが」
言って、海斗は撫でる手を止め、画用紙を持ち上げた。
持っているのが画用紙、つまり仕事道具なので、カイとイトも抗議の声を上げない。ただ、矯めつ眇めつして絵を検品する海斗を、じっと見つめた。
「そこにがっくんていう、自分が庇護するロイドがいて、俺には俺で、おまえたちっていうロイドがいる。俺だけを見る生活じゃなくて、どうしても他事に意識を回さないといけない。その責任を負ってる」
笑顔を潜め、海斗は真剣に絵に見入った。
しばらく黙ってから、海斗は画用紙をテーブルに戻し、無邪気な表情で自分を見つめるカイとイトに笑いかける。
「だからね。今度は、大丈夫じゃないかなって、思ってる」
「……………やじゃ、ない?」
笑う海斗に笑い返すことはなく、カイは静かに問いを放った。
首を傾げ、表情は無邪気に澄んだまま、マスターを見つめる。
「自分だけ見てもらえないの、やじゃ、ない?最後の、オトコでしょ?」
「…………」
イトのほうも、じーっと海斗を見ている――空漠を見つめる、ねこの表情にも似ていた。
容赦のない視線に晒される海斗のほうは、明るく笑う。躊躇いもなく、翳りもない。
「最後のオトコだから、いーんだよ。どこまでもずっと、付き合うんだもん。途中で終わるオトコだったら、赦せないけど。期間限定なんだから、その間くらい、ずっと俺のこと見てろよって。でも最後だから、いーんだ」
「………………」
「………………」
笑う海斗を見つめていたカイとイトは、ややして机に顔を落とした。こてんと凭れ、目を閉じる。
「「よくわかんない」」
身も蓋もない感想をこぼすと、海斗はますます笑った。
「二人は、がっくんが余所見したら、いやなんだ?」
「んー」
「ん」
落ちた問いに、カイは目を閉じたまま小さく唸り、イトは薄く瞼を開いて、鼻を鳴らす。
海斗は二人の頭を撫でてやり、軽く首を傾げた。
「がっくんが、カイとイトの二人を見てるのは、余所見じゃないの?」
「いっちゃんだもん」
「カイだもん」
即座に答えは揃い――おそらくがくぽやミトトシならば、意味がわからないと頭を抱えただろうが、海斗は二人のマスターだった。
こっくりと、頷いた。
「だね。カイで、イトだね。んで俺も、カイでイトで、がっくんなんだよ。だから、いーんだ」
続いた言葉に、カイとイトもまた、こっくりと頷いた。
「そっか。僕でいっちゃんで、がくぽなんだ」
「んだね。おれでカイで、神威がくぽだ」
納得したカイとイトの間に、海斗も頭を落とす。
机に懐くと、ねこが三匹に増えたように見えた。