暴走する壁と迷走の直ぐ道
珍しいことに、イトはひどくぼんやりとした風情だった。だけでなく、背中が憂いを帯びている。
おばかさんの元気印が、イトだ。
リビングの窓辺に座って外を眺めているのがいつものことでも、背中で哀愁を語ったことなど、これまで一度もない。
しかしイトはぼんやりとして、どこか途方に暮れてもいた。
そのイトの背後からカイが近づき、きゅっと抱きつく――のは、よくあることだ。
いつもと違ったとするなら、そうやられたイトが、悲鳴を上げたこと――
「んっわぁあ!!」
「ふゃぁあ?!」
釣られて悲鳴を上げたカイは、驚いたままにイトから離れ、へたんと腰を落とす。
イトのほうは、本意ではなかったらしい。慌てて相方を振り返ると、あぶおぶと手を振り回した。
「ち、ちがっ!!ごめ、カイっ!おれ今、かんがえごと、しててっ!」
「え、あ、………い、いっちゃん?」
「ぇ、え……っふぇっ!か、カイっ、ごめ、ごめんねっ?!おれ、きのーからずっと、カイのこと、いぢめてっ」
「き、昨日?いぢめ???いっちゃ………」
なんのことだときょとんとしたカイだったが、その目元がすぐに、ぽぽぽっと染まった。
「ぁ、きのー………」
ぽつんとつぶやくと、瞳を潤ませるイトへと、こちらは別の意味で瞳を潤ませて笑う。
「いぢめられてなんか、ないよ、いっちゃん。僕とっても、きもちよかったし………」
「き、気持ちいくないでしょ?!」
カイの答えに、イトは瞳を見張った。見張られた瞳はすぐに、痛みに歪む。
「だってカイ、最後には気絶しちゃってっ。そ、それに、あんなにやだって、こわいって、言ってたのに……っ」
言いながら、イトの瞳はどんどん潤み、ずびずびと洟を啜りだす。
対するカイのほうも、どんどん瞳が潤むのだが、あからさまに意味が違う。顔からうなじからほんわりと色づいて、泣きべそを掻く相方をとろりと見つめた。
「は、初めてだったから、………で、できるなんて、思わなかったしっ。がくぽは、ほんとにできないことなら、やれって言わないってわかってたけど………」
「ぅっ、ひくっ!」
うっとりと言うカイに、イトはとうとうしゃくり上げた。
「そ、そーだよ!ワルイのは、神威がくぽだっ!!お、おれに、カイのこと、いぢめさせてっ!カイが泣いて、やめてって言ったのに、おれに、やれって!か、神威がくぽ、すっごくこわくて」
「すっごく、かっこよかったよね!僕が泣いても、いっちゃんが泣いても、笑って『やれ』って」
「あ、あんなこと、おれに、させるなんて………カイが泣いてたのに、おれに、あんなこと………っ」
「そーやってすっごくいぢわるなこと言いながら、実際はすっごくやさしーの。ぜったい痛いことしないで、とろんとろんに気持ちよくされちゃって………」
「神威がくぽの、ヘンタイっ!ヘンタイサドっ!!」
「すんっっっごく、すてきだったよねえ!!」
――会話をしているようで、まったく噛み合っていない。
マイペースを並走する二人も、さすがに気がついた。カイはきょとんとして、イトはひどく胡乱そうに、お互いを見る。
「いっちゃん………気持ちよく、なかった?僕、気持ちよくなかった?」
カイに心配そうに訊かれて、イトはわずかに仰け反る。その目元が、泣きべそのせいではなくほんのりと染まった。床に座り込んだ足がもぞもぞと、落ち着かなく蠢く。
「い、いかったら、だめだ、もん………カイのこといぢめて、気持ちいーなんて、だめだもん………。か、カイこそ、やじゃないの?こわいって、泣いてたじゃん!」
どもりながら答えたイトに、カイもまた、ほんのりと目元を染めた。
「だから、初めてだったから………あんなこと、できるって思わなかったし。だってもう、がくぽので………」
「そーじゃん。あんなにちっちゃくてせまくって」
「で、でも、やってみたら、すっごく……ちょ、ちょっと痛かったけど、痛いのも、きもちいーになっちゃって」
「きつきつぎゅうぎゅうで………んでも神威がくぽ、おっきーまんまで、……」
「あんまり気持ちよすぎて、処理限界超えちゃった………もぉ、すごすぎ………っ」
「あ、あんなこと思いつくなんて、やっちゃうなんて、神威がくぽ、フケツ………っ」
やはり会話として、成り立っていない。
カイとイトは再び、顔を見合わせた。
「いっちゃん………気持ちよくなかった?僕、すっごく気持ちよくって、クセになっちゃいそうなのに」
「き、きもちい………いかったけど、でも、カイ、泣いてたし………っ」
「それは、気持ちよすぎたからだってば。いぢめられてかなしーとか、痛いからとかじゃ、ないよ」
「………」
イトは一度俯き、それから上目で、蕩ける相方を見た。
「………そんなに、きもち、いかった?」
「うん」
おずおずとした問いに即答し、カイはおっとりぽわわんと笑った。べそ掻き顔の相方にくちびるを寄せると、への字のくちびるにちゅっとキスをする。
「ね。今度は、いっちゃんがしてみたら?がくぽにおねがいして。僕だって、いっちゃんに気持ちよくなってほしーもん」
「………で、でも。………神威がくぽ、たまに、おれにすっごい、いぢわるするし。い、痛く、するかもっ」
吐き出された懸念に、カイはさらにやさしく笑った。握ったイトの手を、軽く振る。
「いぢわるするけど、ほんとにやなこととか、痛いことはしないでしょ?いっちゃんがほんとに泣いちゃいそうになると、すぐにごめんねってするし」
「………ぐすっ」
あやされて、イトは洟を啜った。握られた手を、ぎゅっと握り返す。
「し、してもいーけど。か、神威がくぽがいぢめたら、咬みついてやるっ」
「ん、いーよ。僕からも、がくぽにやめてって、言ってあげる」
カイは笑うと、再びイトのくちびるにあやすキスを贈る。
ぐすんと大きく洟を啜ったイトは、おっとりほわわんと笑う相方を至極疑わしげに見た。
「………おれたちがやだって言って、神威がくぽが聞くかどーか、わかんないけど!ほんっと神威がくぽって、どえっちな、どヘンタイサドサドだし!」
「うん、すっごくえっちでいぢわるで、それでとってもやさしくって、かっこいーよね!」
――この点に関して、二人の会話が噛み合うことは、なかなか難しいらしい。
「…………まあなんというか、総合的には、癒されますよね」
「…………」
癒されるのか。
リビングの片隅で、椅子に座って茫洋とカイとイトを眺めていたがくぽは、背後からの言葉にわずかに眉をひそめた。
がくぽのマスター:ミトトシだ。
ロイド保護官であるミトトシにとって、幸せに蕩けたロイドはご馳走。特に、おっとりさ加減で際立つKAITOシリーズは、業界ではご褒美。
とはいえしかし、『ロイド保護官』だ。
癒されると評しはしたが、ミトトシは座るがくぽの肩をやわらかに掴んだ。
「で、がくぽ。私のかわいいサムライマン?おまえ昨日、カイとイトになにをしたんです。訊かなくても彼らの会話でほぼほぼ推測は成り立ちますが、イトのしょげ方が気になります」
「……………っ」
「無理強いが過ぎていないか、ちょっとマスターと膝を突き合わせて、振り返ってみましょうか?」
「……………っっ」
肩を掴む手はやわらかく、痛みもない。振り払おうと思えば、すぐにもできる。
ミトトシの声もやさしく、怒り心頭に発しているわけでもない。
それでもがくぽはびしりと背筋を伸ばして固まり、高速で思考を空転させた。
無理強いは――そもそも、『そっち方面』に関しては幼気で、知識の浅い彼らだ。
多少強引にしないと、しかしイトのショックは、予想外に大きかったような。
「がくぽ?」
促すミトトシに、がくぽは背筋をぴしっと伸ばした姿勢のまま、片手を宣誓の形に挙げた。
「い……………」
喘ぎ喘ぎ口を開くと、一度こくりと、唾液を飲み込む。
目の前ではカイとイトが未だに、慰めのちゅっちゅをくり返している。がくぽが元凶だが、そろそろ止めに入りたい。
がくぽはミトトシを振り返ることもなく、言葉を絞り出した。
「遺憾の意を、表明するっ!!」