しぺ・とてっく
後編
がくぽ最愛の伴侶にして剣を捧げた主でもある神、カイトは、うたと花を司る。うたと踊りによって大地に力を与え、豊かな恵みをもたらす神だ。
だが、司る力のみが理由ではなく、がくぽは常にカイトに癒され、満たされてきた。
今、ちょっとばかりがくぽに不利なほうへ味方しようとしていてもだ。それでもやはり、がくぽはカイトに癒されるし、満たされるのだ。
「えっと……」
がくぽに背後から抱えこまれ、野辺に座ったカイトは、ちょこりと首を傾げた。
呼ばれるまま来たら、これだ。説明する力も失ったがくぽに縋るように抱きこまれ、しばらく慰撫に尽くされた。
初めはがくぽがうたうのかと単純に歓んでいたカイトだが、この様子を見れば相応に疑念も抱く。
肩口にがっくりと力なく額を預け、縋りつくように自分を抱きこむ伴侶をちらりと見てから、カイトは正面に座る娘へ視線を戻した。
「ほんとにがくぽ、うたうよって、いったの?」
「だって、リンがうたったの、『違う』っていうんだもの。どうして、どう違うのか、教えてもらうには、ぱぁぱぁにうたってもらわないとでしょ?」
がくぽに対するときよりはやわらかく、しかし譲らない頑固さで、リンは『母』に訴えた。
「まぁまぁだって、ぱぁぱぁのおうた、聴いてみたいでしょ?」
「ききたいけど、がくぽがいやなら、だめ」
おっとりした口調だが、カイトの意志はきっぱりしていて、娘同様に折れる気配がない。
――しかし残念ながら、がくぽの全面的な擁護、味方とは言えなかった。子供たちにはそう響いたかもしれないが、肝心のがくぽに引っかかった。
つまり、前提条件だ。『ききたいけど』と、カイトは言った。
通常であればさほど気にする枕詞ではないのだが、がくぽは東方の剣士であり、カイトは剣を捧げた主だった。
主が要望していながら、自らを気遣って心を折るなど、あってはならない。
補記するなら、カイトは主である前に最愛の伴侶である。
が、だとしても、この場合だと結論は変わらない。
なぜといって、――こういう言い方はしたくないが、しかし言うなら、些事だからだ。
これがせめて、いのちが懸かるような重大事であればまだ、がくぽも思慮の及ばせようというものがあった。が、今回はことをどうひっくり返しても、そこまでの重大事に発展しない。
となると、そこまでの重大事でもないのに最愛の相手に心を砕かせるなど、東方の剣士の名折れという以上に、まずがくぽにとって言語道断という。
「でも、まぁまぁ」
「子守唄だってんだよ、リンが言うにはさ」
古き神を相手に、舌先三寸は通用しない。だからとあくまで正面突破を志したリンを止め、事情が理解しきれていないというところではカイトと大差ないレンが、口を挟んだ。
「そりゃ、いやがることさせるのは、良くないけどさ。俺らは、ぱぁぱぁの子供だもん。子守唄をうたってくれってねだっても、いいんじゃね?それって、ぱぁぱぁの子供だからこそ、いやがられても赦されるワガママってもんじゃあ、ねえの?」
「がくぽ、の……」
レンの言葉を、カイトが小さくくり返す。ぱちりと瞬き、男ノ神ながら自分が生み直した双ツ神と、そのきっかけとなった伴侶とを、ゆっくりと見比べた。
ぐりりとカイトの肩にすりつき、がくぽはやってくれたなと、歯噛みしていた。
さりげなく、しかしこれだけしつこく『がくぽの子供』を主張されれば、常日頃から父子の仲を取り持つことに尽くしているカイトの心は、揺れざるを得ない。挙句、今回はどちらかといえば、子供のほうに分のある主張だ。
そんなものを強請る年齢かという話もあるが、リンとレンは神だ。見た目や諸事情はとりあえずとして、『がくぽの子供』として生じた歳月だけを見れば、まだぎりぎり、強請ってもいい。
そして今回、大事となってくるのはその、『がくぽの子供』であることだ。
ぐりぐりと肩に額をすりつけるがくぽの頭に、カイトはそっと手をやって、撫でた。
カイトは自分の伴侶が、自分の願ったことなら大概、どんな無茶でも聞き入れてしまうことを知っていた。痛いほど、よくよく身に沁みて知っているから、軽口であってもがくぽの嫌がることを強請ろうとはしない。
しかし今回は子供たちのため、ひいては父子関係のためだ。
「えっと、がくぽ………あのね、いっかぃ」
「そもそもな、リン」
節を曲げ、心苦しいながらも『お願い』しようとしたカイトが皆まで言うより先に、がくぽはすっと顔を上げ、つけつけと吐きだした。
最愛の伴侶にこれ以上、泥を被るようなまねなどさせられないからだ。それもこんな、些事中の些事で。
カイトの言葉を聞かずに自らの言いを被せるという不調法で、もってカイトの責ではなく自らの意思であると示し、がくぽは厳しい瞳で、不心得にも、掴んだ勝利を祝って小さく拳を突き合わせていた双ツ神を見据えた。
「そなた、どこでそれを聴いた」
「『どこ』?」
束の間、意識が逸れていたリンはがくぽの問いの意味が取れず、幼い顔に素直に不可解を浮かべた。
「どこって、東方よ。東方の子守唄だもん、決まってるでしょ?結構、最近……ちょっと前ね。っていってもまだ、レンと『いっしょ』だったころだけど。百年とか、それくらい前?に、東方に行ったことがあるのよ。そこで」
なにを訊いているのかと、少し呆れたようなリンへ、がくぽは違うと、首を横に振った。案じるように見つめるカイトとあえかに目が合って、なだめるようにその腹を軽く叩く。
そうやってからもう一度、がくぽが娘へ戻した目は先よりずいぶん険が取れ、やわらいでいた。
吐きだす声もだ。緊張が薄れ、若干の惑いはあっても、つけつけとした攻撃性は止んだ。
「そうではない。場所……ああ、だから、ひと口に『東方』といってもな、広か……広いだろう?東方は『東方』でも、チュウオウ寄りの地域なのか、山岳部…山のほうなのか、都市部なのか、そういう」
「ああ、『そういう』」
カイトを置いてきぼりとしないよう、ゆっくりと、かつ平易な言葉を探しながら苦心して説明した父親に、リンも理解が及んで、軽く頷いた。
頷いて、すでに観客を決めこんで傍観者面をしていたレンへ、顔を向ける。
「どこだっけ?」
訊かれて、レンは考えることもなく、あっさり首を横に振った。
「逆に、俺が訊きたいんだっての。確かに東方は行ったけどさ。俺は子守唄、ぜんっぜん、記憶にねえもん。覚えてんのって戦勝歌とか、『そういう』」
「んぇええー………もうっ。レンはほんと、こういうの、興味ないわよねえっ」
腐したリンだが、今回はそれ以上の喧嘩にまで発展させることなく、終わらせた。
気が向けばそれでいつまでもいつまでもいつまででもじゃれ合っていられる双子だが、今日の子供たちには『父親にうたをうたわせる』という、より重大な使命があった。
そんな使命は拾ったところに戻してきなさいとがくぽは思っているのだが、もちろん、子供はいつだって、親の思う通りにはいかないのである。
とにもかくにも、百年をつい最近と表現したリンは、言葉通り、ほどなく記憶を呼び起こした。
「邑だわ。山…竜の尻尾がすぐで、ちょっと行くとあるの。邑があるところは、平らだったけど…」
「あー、あ、わかった!りんご!竜玉果とかいう、皮が赤紫色のりんごがあるとこだろ!」
リンの説明にレンが快哉を叫び、リンもまた、同意した。
だからといってレンにうたの記憶が蘇ることはなかったようだが、意見の一致を見たきょうだいは、期待に満ちて輝く瞳をそろって父親に向ける。
カイトもまた、抱えこまれたまま、南の海に似て、あたたかく揺らぐ瞳を向けてきた。
がくぽといえば、神からの期待を逃げることなく受け止め、小さく笑う。
「竜の尻尾に、……竜玉果か。また、最果てに行ったものだな。大人にしておられん、悪童どもめが」
「だってヒマだったもの!」
「ヒマだけはたっぷりあったからな!」
やわらかに腐した父親に、子供たちは胸を張って堂々、応えた。表情は得意満面と輝き、屈託ない。
けれどそのころ、子供らは鬱屈していたはずなのだ。
その『暇』は、軟禁も同じ状態で生じたものであり、いつ解放されるともわからず孤独は極まり、見通せない先は闇よりなお、暗かった――
しかしそういったところを蒸し返すようなまねはせず、がくぽは大人しくいてくれるカイトを抱く腕にだけ、わずかに力をこめた。
きょとんとしたように見上げたカイトは口を開き、――閉じて、子供たちと伴侶とを見比べてから、改めて口を開いた。
「それで、がくぽ……うた、ちがうの?」
「そうですね。違います。が、おそらく、違いません」
「ぅん?」
言葉は平易だが、言い回しが難解だ。カイトはまたきょとんとし、リンとレンもそれぞれ、渋面となった。
「ちょっと、ぱぁぱぁ」
誤魔化す気なのかと、目を眇めて臨戦態勢を取った娘に、がくぽは生温く笑い、首を横に振った。
「俺の生国………」
言い差して黙り、抱えたカイトの腹をとんと小さく、叩く。あたたかく揺らぐ南の海の瞳を覗きこむと、自然とくちびるが解けた。
「私の生まれ育った場所は、東方でもチュウオウ寄り――大陸の真ん中の、草原の近くです。交易の盛んな……商人が、たくさんいるところでした。対して、リンとレンが行った――リンが、うたを聴いた場所です。竜の尻尾は、東方でも東の東、最果ての東の地にそびえる山で、同じ東方といっても、私の生まれ育った場所からは、とても遠い」
「へえ…」
小さく感嘆をこぼしたカイトが、ほんとうに話を呑みこみ、興味新たといった光を瞳に宿すまで待って、がくぽは再びくちびるを開いた。
「神の『うた』はどうか、わかりませんが……人間のうたは、同じうたをもとにしても、地方、地域、家庭――、あるいは時代によって、少しずつ、『違う』ものなのです。私は……」
そこまで言ってがくぽは顔を上げ、いっしょに話に聞き入っていた娘へ、娘と並んで座る息子へ、目をやった。
笑う、くちびるが歪む。ため息のように、言葉がこぼれた。
「うたってやったことなどないのだから、当然なのだがな。したが、そなたらは俺の子だ。俺の子であるのに、どうして俺の家に伝わるうたでなく、『違う』うたをうたうのかと、――『違う』と思った。それで、咄嗟に言った。が、ゆえにな。『違う』が、きっと、『違わない』」
そう、がくぽが聴いて育った、あるいは口ずさんできた子守唄と、リンがうたったものは、微妙に違った。
だから、『違う』。
けれどリンがそのうたを覚えたそもそものきっかけが、きっかけだ。きっとその地方の、あるいはその家庭では、そう、うたわれていたのだ。
だから、『違わない』。
たとえ親とはいえ、うたってやったこともなければ、知らないリンがうたったものを『違う』と糾弾する資格もなかったというのに、咄嗟に思いもつかず、つい、責めてしまった――
子供を相手には滅多に見せない慚愧を滲ませ、がくぽは自らを断罪し、至らぬ身を詫びる。
途中からリンもレンも、そうでなくとも大きな瞳をさらに大きく、丸くして、そんな父親をじっと見ていた。
――そんなものの期待できるような父親であると、欠片も思ったことはない。それを不満に思ったことも。
いや、そうではない。口でなんと言おうが、自分たちがほんとうにそれを不満だと思える立場だと、そういう資格があると、あまり思わないのだ。
口でなんと言おうが、『ある』ものと『ない』ものが、神であるリンとレンには厳然として理解できるし、だから、――
期待もしないのに、この父親はことあるごとに与えてくれる。
不意に、それこそ武骨な剣士らしくひどく無造作に、おそろしくまっすぐと。
「んっ!」
時の進め方を忘れて見合う父子の間で、声を上げたのは母親、カイトだった。
男ノ神でありながら、創生の全能神を生み直すための胎となるという無茶をやりおおせた、か弱く見えても内は非常に強靭なこの古き神は、このときもとても強靭に、にっこり笑った。
「むつかしい!わかんなくなっちゃった!」
カイトはうたと花の神だが、時代や地域によってはうたと踊りの享楽の神とも呼ばれた。
その、享楽の神らしい、放埓で、まったく頓着しない様子で、明々と宣言する。
きょっとしたふうに我に返った家族三人を順繰りに見ると、カイトはまずは少しだけ、身を浮かせた。咄嗟に引き留めようとしたがくぽをなだめ、カイトはがくぽの胸に背を預ける姿勢に変える。
『オウサマ』のようにふんぞり返って座ると、あたふたと思考を空転させている伴侶を振り仰いだ。
「んっふひゃっ!」
「ぁ…」
なにかはまったく不明だが、とにかくなにかしら得意満面といった花開く笑みを向けられ、がくぽはそれで動けなくなった。陶然と見入り、求められるまでもなく、その手が自然とカイトを抱きこむ。
カイトはすぐさま正面へ向き直ると、未だ、どこか呆然としたままのふたりの子供たちへ、大きく両腕を広げた。
「おいで、ふたりとも!」
「「っ!」」
呼ばれて、リンとレンがほとんど反射といった動きで、カイトの胸に飛びこんでくる。
生み直して『母親』となってからのほうが、双子はこの腕の中にあまり、抱かれていなかった。
以前、双ツ一ツであったとき――さらにさらにその以前、未だ神が異端の神の処遇を決めかねていたころは、末っ子のお守りはカイトの役目だったから、よく抱かれていたものだが。
力の制御も思わしくなく、リンもレンも頻繁に暴れてはカイトを傷つけて、きずつけて、きずつけて、――
それでもカイトはいつでも、翳りのない笑顔でふたりに手を広げ、ためらいもなく呼んでくれた。
――おいで、<ふたり>とも……おうたを、うたってあげる!
「んーっ!リンと、レン!おっきくなったねえ!」
カイトは双子をぎゅうと抱きしめ、のびやかに笑う。とはいえ、リンとレンの体の大きさ自体は、以前とさほど変わりがない。変わったことがあるなら、一ツであったものが双ツになったという――
「おにぃ………まぁまぁ」
「ぅー……っ」
縋りつくようになったリンとレンをきゅううっときつく抱きしめてから、カイトはふたりの頭を自分の膝へと誘導した。自分の膝を枕に寝転がらせて、最愛の伴侶を振り仰ぐ。
「じゃあ、がくぽ、おうた!こもりうた?ね!みんなで、おひるね!」
「かぃ……」
なにか言いかけて、しかしなにを言いたかったのかが口を開いた瞬間にわからなくなり、がくぽはしばらく、呆然とカイトに見入った。
その間に、カイトの膝で頭を落ち着け、体勢を整えたリンとレンが、興奮にきらきらと輝く目を向けてくる。
「ジュンビバンタンだわ、ぱぁぱぁ!フリでもちゃんと寝て上げるから、心置きなくうたってちょうだい!」
「そうだな、ぱぁぱぁだからなあ!それでも俺らはぱぁぱぁの子だから、ぱぁぱぁがうたったら、ちゃんと寝てやんよ!」
くり返そう、子供らの目は興奮で見開かれ、きらっきらのぴっかぴかに輝いている――
非常に侮られた父親は目を眇め、生意気な子供たちを意地悪そうに見返した。
「そなたらはまだ子供ゆえ、わからんだろうがな……そなたらの父親にも、子供の時代というものがあってな。さすがに俺でも、生まれたときから『こう』ではない!」
「「ぇえー………」」
胸を張って傲岸に吐きだしたがくぽに、リンとレンはそれぞれ、とてもかわいそうなものを見る目となった。
確かに初めから『こう』ではなかったかもしれないが、きっと生まれたときから、父親は『こう』だ。どこかが惜しく、残念だ。
「こどものがくぽ……ちっちゃいがくぽ………?かわいい………っ」
「「ぁああー………」」
――それで、古き神として、どうしてもどこか、いろいろずれがちな母親と、とてもお似合いの夫婦だ………
想像してうっとりと吐きだしたカイトに、リンもレンも、とても閉じられそうもなかった目を閉じた。
愛らしさを振りまいた伴侶の頬にこめかみに、堪えきれないくちびるを降らせてから、がくぽは力なく目を閉じている子供たちへ、無為と胸を張った。
「それにな、俺は長子だ。妹もおとうともいて、幼いころといえば、稽古か子守りだ。これでもそこそこ、手練れだぞ」
「「はいはいー……」」
目を開けないまま、呆れたように声を上げる双子を見やり、がくぽは小さく笑う。
そうとはいえ月日はずいぶん過ぎて、のどはきっと錆びた。改めて考えれば、歌詞も覚束ないような気がする。
――それでも咄嗟に、『違う』と思ったのだ。
逃げるなら死ねと叩きこまれた東方の剣士とはいえ、それが今、背を向けて逃げず、ここに踏み止まるなによりのよすがとなる。
「がくぽ」
振り仰ぎ、見つめてくるカイトの瞳は南の海を宿して、深く、あたたかに揺らいでいる。
揺らぎ、揺らぎ、ゆらゆら眺め、がくぽの眼前にふいに蘇ったのが、まだ幼い日の春の光景だ。
風も穏やかな午後の庭にゆりかごを引っ張り出して、そこに妹を寝かせた。ゆりかごに寄りかかって自分もゆらゆらと揺れながら、うとうとしつつ口ずさむ――
「♪」
出だしこそわずかにぶれたものの、思うより声はすんなりと出て、考える必要もなく歌詞は勝手に続いた。
どこか笑っているような、穏やかな表情でうたうがくぽをしばらく眺めてから、カイトも正面を向いた。膝に預かる子供たちの頭を撫でて目を閉じると、背を預ける伴侶へ埋もれるように、体から力を抜く――