しょちぴるり
第1部-第4話
数日を過ごすと、がくぽは長時間寝床を離れていても大丈夫なほどに、回復した。
全身打撲に、単純骨折と複雑骨折織り交ぜて多数、神経に筋肉まで断つ裂傷――
自分が神獣と闘い、――それ以前にも負っていた傷の深さと数、そして瀕死の状態にまで陥ったことを考えれば、回復は驚異的だ。
驚異的ではあっても、不思議はない。
カイトはしきりと『すぐにいたいのよくできなくて、ごめんね?』と謝ったが、なにかしら、彼の力が及んでいることは確かだろう。
なにより、神の与える恩恵によって実をつける北の森の果実や、精霊が生み出す水を口にしている。
なにも作用しないというなら、そちらのほうが驚く。
「がくぽ、起きられるなら、お外にいこう!」
その日、燦々と陽が降り注ぐ昼間になって、いつも通りに軽い足取りで部屋に入って来たカイトは明るく告げた。
おっとりと笑うカイトは、寝台に起き上がっていたがくぽへ、無邪気に手を伸ばす。
包帯の量が少なくなったがくぽには、新しい服が用意された。
おそらく、がくぽがもともと着ていた着物は血汚れと鉤裂きで、ぼろ切れも同然だっただろう。
カイトが用意したのは、すぐに体を晒すことのできる、北の地方の寝間着だった。体の前で大きく開く外套様のもので、腰紐を巻いて留める。東方の着物とも似ているが、生地の厚さや織りが違う。
北の地方は他地方に比べて、寒冷な気候だ。普段の衣装となると、夏場でも首まで覆われていたりと、厳重だ。
しかしがくぽの体にはまだ、縦横に包帯が巻かれていて、こまめに取り替える必要がある。体の自由も完全ではない。ほとんどの時間を寝台――布団の中で過ごしてもいる。脱ぎ着のしやすさを考えての、選択だろう。
それにたとえ寝間着でも、裸でいるのとは安心感が違う。
着る物を貰ってようやく、がくぽは部屋の中だけでも歩き回ることが出来るようになった。
もちろん、外に出掛けることも出来ない格好ではない。
無防備さは否めないから多少の躊躇いはあれ、しかし現状、致し方ないと諦める程度の分別もある。
それでも差し出された手を即座には取れず、がくぽは戸惑う視線をカイトへ向けた。
「………しかし私の存在は、秘密なのでは?」
過ごした数日、この部屋に――というより、規模も不明なこの『家』に、訪れたものの気配はない。
カイトの気配が未だに掴めないことを考えれば、他の神が来ても感じられなかった可能性も高い。が、とりあえずがくぽが匿われた部屋に、カイト以外が訪れることはなかった。
がくぽとしても『ないしょ』と言い渡された以上、起き上がれるようになっても、おいそれと部屋から出ることもなく――
躊躇うがくぽの手を、カイトの手が取った。相変わらず、汲みたての清水のごとくに冷たい。
「へーき。ちょっとだったら、だいじょうぶ。それに……」
カイトはそこで、ほんの少しだけ笑顔を翳らせた。
「人間って、おひさまの光あびないと、しんじゃうんでしょ?だから……」
「……」
確かにまったく浴びないと、病気になりやすくはなる。しかし、そうそうすぐに死ぬわけでもない。
きちんと人間と付き合ったことがないだろうカイトに、説明しようかどうしようか悩み、結局がくぽは黙って立ち上がった。
カイトに手を引かれるまま、外へと出る。
石造りの住処は外から全体を眺めると、『神殿』といったほうが近い形だった。
北の民家は石造りが多かったが、形がかなり違う。同じ石造りでも、これに近いのは神殿だ。
どちらにしても、放り捨てられて長いのは、確かだろう。這い回る蔦は全体に及び、ところによっては、巨木の根に組み込まれてすらいる。
とりもなおさずこれは、ずいぶんと長く、手入れがされていないことを証立てる。
神殿に見えるということは、『神』を祀る神官や祭祀といったものがいたのだろうが、今はいない――放り捨てられた経緯や時期は不明だが、まだ北の森が、神の最後の安息地となる前のことかもしれない。
「ね、がくぽ。おひさま、気持ちいい?」
「はい」
久しぶりに外に出て、がくぽは思わず深呼吸した。
陽が差しこんでも、冷たさを失わなかった石造りの部屋の空気だ。常にひんやりとして、どこかしら胸を圧迫するようだった――そこから、日に向かって花の咲き誇る野辺に。
住処から、ほど近く。
まだ長時間の運動が出来るまでではないがくぽにも、無理なく歩いていける距離に、花咲き誇るその野辺はあった。
そこにいるだけで怪我のすべてが治るような気がするほど、野辺は生命力に満ちている。
「………うん」
深呼吸して外気を楽しみ、解放された圧迫感から自然と胸を張ったがくぽに、カイトはうれしそうに微笑んだ。
「顔色、よくなった」
「……っ」
ぽつんとつぶやかれた言葉と、その含まれる意味に、がくぽは咄嗟に上手く返せなかった。
答えを欲したわけでもないのだろう。そこまでがくぽの手を引いてきたカイトは、あっさりと身を翻らせ、離れた。
軽やかな足取りで、踊るように野辺を巡る。
がくぽの腰まで伸びた長い髪は、梳かれることはあってもまだ、括ってはいない。尻の下に敷かぬよう適当に払って、がくぽは直接、地面に腰を下ろした。
野辺を舞台に、自在に踊っているかのようなカイトを見つめる。
一見、人間と変わらぬ姿のカイトだ。
それでも触れる体の冷たさや、近づいたときに香る呼気から、彼が名乗るとおりに神なのだろうとは、思った。
思ったが、こうして外に出て、草花と戯れるカイトを見ると、なおのこと――
そのあまりに自然と溶け込む姿に、人間ではないのだと、実感が湧く。
「………」
がくぽは陶然として、花咲き誇る野辺を、踊るように渡るカイトを見つめていた。
いくら見ても、見飽きない。
これほどに、うつくしく、心愉しい光景が、これまでにあったものだろうか――
「♪」
たのしげに巡っていたカイトが、唐突に咽喉を開いた。
こぼれた音は、人間にはもう意味が取れない、太古の装飾音。
神官や、国にいたイクサ神がうたうのをこぼれ聴いたことはあったが、それより遥かにやさしくやわらかく、心地よい――
「♪―♪」
「……これは」
伸びやかにうたうカイトの声に合わせて、花が揺れる。
与えられるのは、『力』だ。生きる、生命力そのもの。
「………………なるほど」
痛みが引いていく気がして、がくぽは無意識に強張っていた体から、わずかに力を抜いた。
普通の男が着ることのない、踊り子のような薄絹姿のカイトだ。
いくら神とはいえどうかと思っていたその衣装が、意味を伴って納得出来た。
うたいながら野辺を巡るカイトは、踊っているようでもある。
どんな衣装でも、このカイトを無粋にしてしまうだろう――一見、どうかと思うような踊り子の衣装こそが、カイトの本分を的確に表して、引き立てている。
愛情と融和、平和と娯楽。
そして与えられる、生命力。
跳ねる心臓の意味を考えることもなく、がくぽはひたすらに、カイトだけを見ていた。
カイトだけを――
「っっ!!」
「どういうことなのかしらね、人間っ!!」
唐突に背後から長い髪を掴まれ、地面へと引き倒された。間断なく、治り切っていない胸の怪我を容赦なく踏まれて、がくぽは瞬間的に息が詰まって仰け反る。
いくらカイトに見惚れて油断していたとはいえ、この自分が気配を感じられず、無様に転がされた。
呼吸を取り戻してすぐに反撃に移ろうとしたがくぽだが、逆に体に力を込めて耐えた。
ここは北の森だ。
そして自分のことを、『人間』と罵った。
だとするなら、相手は――
「めーちゃん!!」
うたい止めたカイトが、悲鳴を上げて駆け寄ってくる。
「やめて、めーちゃん!いじめないで!!」
「おだまり、ヌケマが!!この人間はなに?!」
取り縋ろうとしたカイトを、がくぽを踏みつけた女性――秋の葉の色をした髪と瞳を持ち、カイトとは対照的に分厚い布で厳重に体を覆った女性が、怒鳴りつける。
声の強さといい荒っぽさといい、なにより背に負った矢筒といい、イクサ神にも似ている。
「めーちゃん、おねがい……っ」
「あたしの話を聞いてたかしら、このヌケマ!どうしてここに人間がいるの?!」
「っねが、めーちゃ………っ」
がくぽの傍らまで来たものの解放するには至らず、力なく座りこんだカイトは、悲痛な声で嘆願をくり返す。
その瞳が涙に潤み、口元を手が覆って、激情を堪えるように震えた。
「っ………カイト、殿」
「ぉねが、めーちゃ……がくぽ、わるいひとじゃないの………いじめないで………ころさないで………っ」
呻くがくぽに、カイトの声はますます悲痛に引きつる。
女性の足に力が篭もって、がくぽはあまりの痛みに痙攣した。
「わるいひとじゃない?どうしてそんなこと、いいきれるの、このセケン知らずのハコ入りが!これが、あんたを狩りにきたんじゃないって、あんたをだましていないって、どうしていいきれるの!!」
「めーちゃん……っっ」
涙に詰まって、カイトの声が声にならなくなる。
引きつるように嗚咽だけくり返すカイトに、がくぽは痛みに霞んだ瞳を向けた。
花が、ざわめく音が聞こえる。
思考すらも茫洋と霞んでいるのに、なぜかそれだけがはっきりと、鼓膜に届いた。
「カイト殿」
呼吸すらも詰まりながら、がくぽは出来る限り明瞭に声を吐き出した。
「私は、大丈夫です………だからどうか、泣かないで」
「……っ」
「大丈夫ですから、っっ」
「しゃべるんじゃないわ、人間。空気がよごれる」
きりりと傷を踏みにじられて、がくぽの意識が飛びかける。
これでいて、怪我の痛みにも耐性がある。伊達の剣士業ではなく、イクサ経験でもない。
並みの人間なら疾うに意識を飛ばしてあの世に行っていたかもしれないが、がくぽは懸命にか細い息を繋いで、自分を踏みつける女性を見上げた。
「………直言、お赦し願い給え。拙に神を害す意思はなく、汚す意図も御座いませぬ。なれど確かに禁域を侵せし罪は在り、其を罰すると言うなら」
「むつかしくって、なにいってるか、わかんないわ!!」
然もありなん。
別の意味で、がくぽは意識を飛ばしたくなった。
彼女がカイトと同じく神だというなら、人間の言葉は覚束ない――平易に言い直す必要がある。
しかし咄嗟にはくだけることのほうが難しいのが、がくぽの成育環境なのだ。
痛みと覚束ない呼吸で眩む頭で、がくぽは懸命に思考を巡らせた。
「………恩人であるカイト殿を傷つけることは、決してしません!」
結局追い込まれて、その言葉にまとめる。
意識が飛びかける中で、花がざわめく音だけがやたらに耳に響き、不快に轟いた。
その不快さに縋って、どうにかこうにか意識を繋ぐ。
「……っ………っっ」
カイトが傍らで、嗚咽を呑みこんでいる音がする。哀れだと思う。そうまで自分のことを案じてくれるのかと思えば、不思議でもあるが有り難くもある。
がくぽは得体も知れない人間だ。しかも、神獣を傷つけた。
だというのに『きれいだから』の一言で拾い、手当てをし、今はこうして、いたぶられることを悲しんでくれる。
年経ているはずだというのに、世界を知らずに清らかでやさしく、ゆえに仲間の心配を煽るのだろう。
「…………そう」
「っはっ、ぐっっ」
唐突に胸から足が退き、がくぽは戻った息にむせた。
むせたことでさらに胸が痛み、呼吸が再び詰まる。
「がくぽっ!!」
飛びついてきたカイトが、うずくまって丸くなるがくぽを抱きかかえる。冷たい体に触れ、薄荷の香りに包まれると、不思議と痞える息が通った。
「がくぽ、がくぽ………」
ひたすらに名前を呼ぶ、カイトの瞳からは止めどもなく涙が溢れる。
泣きじゃくるカイトは、がくぽのためだ。
がくぽは重い腕を懸命に持ち上げて、カイトの頬を撫でた。
「大丈夫です……大丈夫。私は、頑丈なのです………剣士だと、言ったでしょう?こんなことは、慣れっこです」
「でも………ひどい………ひどい………っ」
花がざわめく音が、カイトの声に混ざって鼓膜を揺るがす。
不快な音から逃れようと、がくぽは殊更にカイトの声にだけ、意識を集めた。
「ひどくなどありません。あなたのことを、心配してです……当然のことで、なにもひどいことなど、ありません」
「っ」
カイトがしゃくり上げる。泣き濡れる瞳を覗きこみ、がくぽは微笑んだ。頬を撫で、涙を掬う。
なにか言おうとくちびるを震わせるカイトに、こんなときだが胸が騒ぎ、別の意味で呼吸が閊えた。
それでも懸命に、言葉を継ぐ。
「あなたは恩人です。そのあなたを心配してのことなら、私はどのような扱いでも、受け容れましょう」