ある意味突拍子もない自己紹介だったが、がくぽが動揺することはなかった。
がくぽが生まれた東方を含む、俗に四方世界と呼ばれる大陸の北方、さらにその果てに位置するのが、『北の森』だ。
ここは人間の迫害と搾取から逃れて北上した神の、最後の安息地にして棲息地だった。
しょちぴるり
第1部-第3話
四方世界は名前の通り、大陸が四つの国――地方に、完全に分断されている。
遥か太古には、大陸全土を治める大国家があったらしい。しかしその首都、もしくは国家そのものがあったと言われる場所は、現在、完全なる草原地帯だ。
国家の片鱗を窺わせる遺跡すらなく、ひたすらに広いひろい草原が、大陸を東西南北四辺に、完全に分断する形で広がっている。
そのため他国へ移動するには、必ずこの草原を横断する必要があった。
見た目は、単なる草原だ。それも、非常に広い。
なによりここを通らなければ、交易が成り立たない。
各国はこの草原を交易の要と考え、もしくは拡充すべき領土と考え、これまでに何度も人の手を加えようとした。
しかし草原を領土とできた国は未だ、存在していない。伝説に残るばかりの大国家崩壊の理由が、お伽噺でも作り話でもない証のごとく――
草原は、人間の手による一切の『加工』を、受け付けないのだ。
開墾も耕作も出来ない。天幕程度は張れるが、長居は出来ない。どういう理屈か、あっという間に腐り落ちるからだ。
当然、家屋敷は建たない。
おかげで広大な草原は未だに、どこの国にも属していない。だというのにその領有権や交易の有利を掴もうとする各国によって、草原は常に合戦場と化していた。
大小はあれイクサが絶えることはなく、個人で草原を越え、他国へと気軽に旅する状態ではない。
交易隊にでも属していなければ、纏ろわぬ民である吟遊詩人ですら、単独で草原を越えることはない。
そうやって現在はさしたる地名もなく、皮肉を込めてか単に『チュウオウ』と呼ばれる、広大な草原が出来た由来――
大陸全土を治めた大国家を、滅亡に追いやったもの。
それが四方世界の北方、さらにその果てに広がる森に棲む、神だ。
神は長きに渡って人間と闘争をくり広げ、その最大の戦いにおいて、大国家を滅亡に追いやったと言われている。
そのときの『力』の余波によって、未だに草原は人間の手を入れられないのだ、と。
しかし結局のところ、神は人間に敗北した。
そして今日まで続く、人間による迫害と搾取から逃れ、北上。
最後の安息地にして棲息地として、人手の及ばない果ての地、『北の森』を選んだ。
がくぽは自分が最後に倒れた場所が、まさに神しかいない『北の森』内部であったことを覚えている。
短い時間ではあれ、これまでに見た青年――カイトの、浮世離れした雰囲気。
<精霊>を、呪文の詠唱もなしに気軽に使う態度。
たどたどしく覚束ない、人間の言葉。
すべてが、カイトが『神』である可能性を示唆している。
「神……ですか」
がくぽは改めて、自分がいる部屋の中を見回してみた。
天井にも壁にも、室内とは思えないほど自由気ままに、蔦が這っている。
部屋の片隅には引き出し付きの棚が置いてあるが、それも蔦に絡められて封印されている。中になにかが入っていたとしても、取り出すのは容易ではないだろう。
がくぽが眠る寝台はどうにか蔦が覆っていなかったが、大した意味もない。
石造りの形といい、棚といい、ここには確かに、一度は人間の手が入った。
しかしおそらく、人間との関わりは失われて久しい――ろくな手入れもされず、森に呑みこまれ行く、住処。
ここは、北の森――神の最後の、安息地にして棲息地。
人間入るべからずの、禁域だ。
「うん。神さま」
がくぽのつぶやきに、カイトは無邪気に頷いた。
「うたをうたって、お花を育てたり、ケガをなおしたりするのが、おしごとです」
「………」
神の持つ力は、さまざまだ。
人間にもっとも歓ばれるのは破壊を呼ぶイクサ神で、次が地を潤す農耕神。その他にも、家神や、水の神など、雑多に。
幼い言葉を転換すれば、カイトは農耕神に類するだろう。
ただ、イクサ神ではないからと、その力を侮ることはできない。
カイトは言葉もたどたどしく、見た形も幼いほどに年若い青年だ。しかしそれなりに年を経た、力有る神の可能性があった。
神は生まれた地域の色を、身に宿す。
カイトは衣装だけでなく、瞳や髪といった生身に纏う色も、あたたかな南の海を想起させる。
北の森にまで北上する以前、南の地方に神がいたのは、史書も曖昧な遥か太古だ。
つまりカイトは、長年に渡る人間との闘争を生き延び、厳しい北行きの道程にも耐えた――
「がくぽもね。今、いたくても、うたえばすぐ、よくなるよ」
「え?」
瞳を瞬かせたがくぽに、カイトは笑う。上目遣いに見つめられて、ひどく胸が騒いだ。
騒ぐことに、がくぽはまた、胸を騒がせる。言い聞かせても言い聞かせても、身に沁みない――相手は男だ。神であっても。
「すぐ、よくなるんだけど………がくぽ、ないしょだから、ごめんね?うたっちゃうと、めーちゃんとか、みんなにばれて、怒られちゃう」
「ないしょ……?」
カイトの中では、筋道が通っているのだろう。しかしカイトの話し方は自分本位で、意味を掴むのに手間がかかる。
慌てて訊いたがくぽに、カイトはこっくり頷き、やたらまじめぶった表情を作った。がくぽに顔を寄せると、耳朶にくちびるをつける。
その冷たさに、がくぽは瞬間的にぶるりと震えた。
「人間、森においておくの、だめなの。でもおれ、がくぽのこと、ここにつれてきちゃったから……」
「…………」
吐息とともに耳に吹きこまれ、がくぽはわずかに身を引いた。
カイトは無邪気に振る舞っているだけなのだが、受け取る側が過剰に反応してしまう。なにしろ、恰好がすでに扇情的だ。
まるで男を誘う蝶のごとき、体の透ける薄絹。踊り子のように布地面積の少ないそこから、色の白い、艶めかしい肌が惜しげもなく覗いている。
加えて、さすがは神と言おうか――無邪気な振る舞いにも関わらず、しぐさのすべてが異様に色めいている。
「だから、ごめんね?」
「いえ」
首を傾げ、窺うように見るカイトに、がくぽは首を横に振った。
人間は神を狩るもの、敵だ。用心は当然で、むしろカイトの今の好意的な態度のほうが、不思議なのだ。
「拙のような得体も知れぬ者に、過分な……」
「………」
言いかけて、がくぽは口を噤んだ。
微妙に歪んでいくカイトの表情を眺めて、口の中で言葉を転がす。
「………私のように、正体もわからない人間を、こうして手当てしてくださっただけでも、ありがたいことです。このうえ、さらなる恩恵を望みはしません」
「…………………………」
比較的平易と思われる言葉に言い換えたがくぽに、カイトは瞳を瞬かせ、わずかに俯いた。
しばらく考えている間があって、がくぽは内心危惧した。これ以上平易な言葉で話せと言われると、さすがにもう、語彙がない。
東方の剣士とは優れた剣技のみならず、四角四面な礼儀正しさも含めて、そうと名乗る。
剣を振るうことが、剣士ではない。その生き方、考え方、振る舞いのすべてを総じて、東方の剣士は己を『剣士』と名乗るのだ。
カイト曰くの『むつかしい』言葉はむしろ日常語で、くだけて話すほうが難解だ。
がくぽは人生のほとんどを生地の東の国内ではなく草原――イクサ場で、イクサに明け暮れて生きてきた。それでも東方の剣士は、礼節を守り重んじる。
背筋に冷や汗が伝い出すころになって、カイトはようやく、くちびるを開いた。
「人間………おぼえてるのと、ちがう…………」
「………」
咄嗟にはカイトのつぶやきの意味がわからなくとも、がくぽはひとまず、胸を撫で下ろした。言っていることがわからなかったわけでは、ないらしい。
カイトは瞳を瞬かせ、困ったようにがくぽを眺めた。
「人間ってもっと、こわいとおもってた。めーちゃんだって、『あんたみたいなヌケマ、あたまっから、まるのみよ!』って、いっつもいうし。おれも、そうだとおもってた」
「丸呑み……」
それをするのはどちらかというと、神の側ではないだろうか。
カイトで想像するのは難しいが、眷属には異形も多い。簡単に人間を丸呑みできる、大口持つものも――
がくぽもまた瞳を瞬かせて、カイトを見つめた。しかしすぐに、神に対して正視するのも非礼ではないかと思い至って、わずかに視線を伏せる。
無造作に座りこむカイトの足が、薄絹に透けて見えた。
上半身は一枚きりだからほとんど透けるが、下半身は二、三枚を重ね穿きしている。生地の種類もあって透け具合はそれほどではないが、まったく見えないわけでもない。その先を辿れば――
「………………………」
長時間に渡って起き上がっていたことで、治り切っていない傷が疼いた。
痛みに思考を逸らして、がくぽはこの青年神に対する、自分の反応を誤魔化す。
「でもがくぽ、こわくないね。わるいこと考えてないし」
「っ」
カイトが何気なく漏らした言葉に、がくぽはびくりと引きつった。
悪いことを考えていないと、言い切った――神ならば有り得なくはないが、思考を読まれるのか。
思わず顔を上げたがくぽに、カイトはほんわりと笑い返した。
「ん?」
「拙の………私の考えていることが、わかるのですか」
強張った声で訊くがくぽにも揺らぐことなく、カイトはあっさりと首を横に振った。
「んーん。ぜんぶは、わかんない。でも、わるいこと考えてたら、わかる。きたなくなるから」
「………」
カイトの言葉は平易だが、難解だ。
がくぽはしばらく意味を転がし、強張った体から力を抜いた。
つまり――気配でわかる、という程度のことだろう。逐一、つぶさにわかるというのではなく。
瞳を伏せたがくぽに、屈んだカイトが首を突っ込んで来た。南の海を思わせる、あたたかに揺らぐ青い瞳が、底知れぬ感情を宿してがくぽを覗き込む。
「考えてること、わかったら困る?」
「………」
それは、困る――後ろ暗いばかりの身の上だし、なにより今、自分が彼に対して仄かに感じている劣情なども、知られるのは気まずい。
息を飲んで身を引いてから、がくぽは楽しげですらあるカイトを、しっかりと見返した。
「困らないとは、言えません。人間は、思考を読まれることが普通ではありませんから」
「ふうん?」
「私にしても、後ろ暗いところのない身ではありませんし………ですが、あなたは命の恩人です。出来うる限り、誠意を尽くしたいと思っています。あなたが私の思考を読むとおっしゃるなら、受け入れます」
「……………………」
きっぱりと言い切ったがくぽに、カイトは瞳を瞬かせた。
しばらく考えている間があって、その顔が華やかな笑みに開く。
「むつかしくって、なにいってるか、わかんない」
「………」
思わず引き込まれる笑顔でどん底まで叩き落とすことを言いのけ、カイトはがくぽから身を離した。
「がくぽはなんで、そんなにケガしてたの?」
「それは」
無邪気だが核心を突いた問いに、がくぽは束の間、言い淀む。
カイトが急かすことはない。ひたすらにおっとりとした笑顔で、がくぽの答えを待っている。
このおっとりさ加減を見ていると、誤魔化すことも簡単なように思えた。
しかしわずかに首を振ってその案を却下すると、がくぽは深く息を吸い、腹に力を溜めた。
「禁域――入ってはいけない場所に入ったことに気がつかず、警告のために現れた神獣と、戦いました。自分に害為す悪獣だと……敵だと、勘違いしたのです。私のこの傷は、間違ったことをした、報いです」
神獣、とは言ったが、それは今になって思えば、という話だ。
がくぽの前に現れた獣は光り輝く姿というわけでもなく、神々しさを感じるわけでもなかった。
淀んだ瞳といい、濁った色の牙といい、全身を覆う鱗といい、むしろ口伝えに聞くような神話の悪獣そのものの、禍々しい姿だったのだ。
しかし深淵に潜るなら、口伝えに聞く神話の悪獣はそのまま、神を守り戦う『神獣』だ。
神を守り戦って人間に仇なすがゆえの、人間にとっての『悪獣』という転変だからだ。
北の森においては、神の最後の安息地にして棲息地を守るための、重要な番の役目を負う。
がくぽも冷静になれば、自分が禁域に踏み込んだことにはすぐに気がついたはずだ。背を向けて出て行く意思を示せば、神獣も追っては来なかったはず。姿は禍々しくとも、彼らは無為な殺生を嫌う。
だがあまりに禍々しい姿に、がくぽの脳内に反射的に噴き上げた嫌悪感と恐怖心は、凄まじいものがあった。
そして、何人であれ背を向けて逃げること罷りならじと教え込まれた体は、思わず剣を構え。
「むつかしくって、よくわかんないけど…………」
がくぽの答えに考えこんでいたカイトは、ややしてのんびりとつぶやいた。
腹に溜めた力が、あえなく霧散する。崩れそうになる体をなんとか堪えるがくぽに構わず、カイトはあくまでものんびりと回想に浸っていた。
「れおちゃんがケガしてて……どーしたのってきいたら、わるいこが森に入ったから、ちょっとおしおきしたって……。そういえば、れおちゃんについてた血とがくぽの血、おんなじにおいだね。がくぽ、ちっともわるいこに見えないんだけど……」
神獣が何頭いて、個体差があるのかどうかも、がくぽには定かではない。
だからその『れおちゃん』と呼ばれたものが、がくぽと戦った神獣かどうかも、確定は出来ないが――
「その、怪我は……」
思わしげに訊いたがくぽに、カイトはほんわりと笑った。
「ん、へーき。もぉ、よくなった。おれうたったし、れおちゃんて、不死身だし。気にすることないよ。れおちゃんも怒ってなかったし」
「………」
神の感覚とは、そんなものなのだろうか。
そもそもがくぽは禁域を汚したはずで、その時点で怒りに触れているのだ。さらに赦されないことに、神獣に剣を向け、傷つけた。
だというのに罰を与えるどころか、助けられて、こうして手厚い看護まで受けている。
「…………神よ」
「『カイト』」
「…………カイト殿」
「うん」
素直に言い換えたがくぽに、カイトは機嫌よく頷く。
がくぽは言い淀んで、とはいえ黙っているわけにもいかず、口を開いた。
「………どうして、私を助けたのですか?」
がくぽの問いに、カイトの答えは簡単だった。
「いきたいって、いったから」
迷いもなく言い切って、瞳を見開くがくぽの頬を撫でる。その手は労働も闘争も知らずにやわらかいが、ひどく冷たく、けれど決して不快な冷たさではなかった。
「ね?また、寝たほうがいいよ。なんか、顔色わるくなった。おれがすぐによくしてあげないから、いたいの、ながくてごめんね?でも、ないしょだから…」
「そのような」
謝られて、がくぽは気まずく身を引く。
そもそもはこちらの落ち度だ。それをどうして、命を拾って貰った挙句に、謝られるなど。
がくぽは首を横に振り、心配そうなカイトを揺らぐ瞳で見つめた。
「どうしてあなたは――他の方にも内緒で、私を助けるのですか」
禁域に踏み込んだがくぽは、カイトの態度はどうあれ、北の森の神にとっては『罪人』のはずだ。
なによりも、人間と神との闘争の歴史は長く根深く、未だに解決していない。敵対関係は続き、神は人間に狩られることを、常に警戒しなければならない。
北の森は、神の最後の安息地にして、棲息地――人間と長く闘争をくり広げ、虐げられてきた彼らには、これ以上もう、世界に行き場がない。
がくぽの問いに、カイトの答えは今度もあっさりとして、簡単だった。
「がくぽ、きれいだったから」