ふと目を開いて、がくぽは訝しさに眉をひそめた。
見慣れない天井――石造りのそこは室内にも関わらず、縦横に蔦が這い回っている。
瞬間的に、外との区別がつきかねるほどだ。
しょちぴるり
第1部-第2話
「……」
訝しさからさらに辺りを見渡そうとして、視界を邪魔するものに、今度は別の意味で眉をひそめた。
寝台に寝かされているのだから当然かもしれないが、いつも後ろでひとつに括っている、腰まで流れる長い髪が解かれて、散っている。
寝ている間に目にかかった髪を梳こうと何気なく手を持ち上げ、気がついた。
「…………包帯?」
声を上げて、その掠れ加減に自分で驚く。
驚いてから、急速に自覚する。
渇き。
張りつくように、咽喉が渇いている。
自覚した途端に苦しくなって、がくぽは上げた手で咽喉を押さえた。
「あ、おきた?」
「っ?!」
気配など微塵も感じなかったというのに、部屋の中に明るい声が響いた。
分厚い石壁に遮られていようが、二部屋先の気配まで読むのが、がくぽだ。
それが、なにひとつとして気配を感じなかった。感じなかったが、確かに生身の青年が、部屋の中へと入って来ている。
水瓶を抱え、軽い足取りで近づいてくる青年は、戦士や騎士といった武闘派の職種には見えない。
なにしろ着ているものが、南国の踊り子のごとくに肌の露出が多く、下の体が透ける薄絹だ。少なくとも、まともな男の衣装ではない。まるきり女の格好だ。
そのうえ薄絹から透ける体は、筋肉の付きも薄く、骨が浮くような華奢さだ。
体の扁平さは間違いなく男だが、かえってそれが色めかしさを引き立てている。髪こそ短いが、だからどうしたという凄絶な色香が放たれて、目が離せない。
青年はそれこそ、踊るような足取りで寄って来る。寝台の脇に立つと、にっこりと人懐っこく笑った。
「気分どう?あのね、なにか食べられるなら……」
瞳を見開くがくぽに、無造作に手が伸ばされる。がくぽは咄嗟に手を叩き払い、のみならず、様子を窺おうと屈みこんだ青年の体を突き飛ばした。
「っわっ」
押されるまま、無防備に床に転がった青年は、水瓶を自分の上にひっくり返し、びしょ濡れとなってしまった。
「あー………」
「っ!」
雫を垂らしながら呆然とする青年の表情に、がくぽは我に返った。
なんたることだ。おそらく彼は、自分の命の恩人で――手当てをしてくれた相手に違いないのに。
「すま………っ」
謝ろうとしたが、渇いた咽喉は張りついて、声にならなかった。
苦しく咽喉を押さえたがくぽは、それでもせめて謝罪の意を示そうと、寝台の上で起き上がった。
全身隈なく包帯を巻かれているせいもあってか、服らしい服を着せられていない。包帯によってある程度は覆われているものの、全裸と同じだ。
瞬間的に躊躇ったが、そうしている場合でもない。
床に降りて頭を下げようとしたがくぽだが、その前に、青年がびしょ濡れのまま慌てて起き上がった。
がくぽが寝台から転げ落ちる――降りる、と言いたいところだが、自由にならない体では、正直な表現をすると『落ちる』だ――より先に、その体を寝台へと押し戻す。
「いいんだってば!だいじょうぶ。ね?そんなことより、あなただよ………起きたりして、いたいでしょ?ね、だいじょうぶ………びっくりしただけだって、わかってるから。だいじょうぶ、だいじょうぶ……」
「………」
謝りたかったのに、かえって慰められてしまった。
青年はがくぽを、ひどく幼い子供ででもあるかのようにあやし、頭を撫でて背中を叩く。
落ち着けようとしてか、びしょ濡れの体でぎゅっと抱きしめられて、その冷たさに震えた。
「あ、そか………ぬれてた」
惚けた声で言い、青年はがくぽから離れた。
そうやって少し離れると、青年があまりに扇情的な恰好になってしまっていることがわかり、がくぽは慌てて目を逸らした。
そもそもが、肌が透ける薄絹だった。水に濡れると、あからさまに体が浮かび上がってしまう。ほんのりと薄紅に色づいた胸の突起や、きゅっと締まった腹にあるへそ――
「……?」
そんなものが見えたからなんだと、目を逸らしてから気がつく。
相手は男だ。がくぽと同じ。
しかしがくぽは視線を戻せないまま、固まった。
耳に心地よい涼やかな声だが、間違いなく男声だ。抱かれた胸、腕に、肌の感触も。いくら男らしからぬ姿をしていようとも――その男の素肌が覗いたから、なんだと。
「<精霊>、お水おねがい」
「?!」
呼びかける言葉に、またしても気配の感じぬ誰かがいるのかと、がくぽは慌てて顔を上げた。
誰もいない。
というのに、ぶちまけられた水ががくぽを濡らした分も含めて、渦を巻きながら宙に集まり、ふらふらと窓の外へ消えていった。
「んー……」
がくぽから離れ、床に転がったままの水瓶を拾い上げた青年は、中身を覗きこんで眉をひそめた。
こんこんと、水瓶の縁を叩く。
「<精霊>、お水おねがい」
「……」
ちゃぷんと、瓶の中で水の跳ねる音がした。
青年は満足そうに頷き、水瓶を軽くかざすと、呆然とするがくぽへ微笑みかける。
「のどが、かわいてるんでしょ?ひとりでお水、飲める?」
「……」
訊かれても、言葉にならない。渇いた咽喉が、張りつく張りつかない以前の問題で。
凝然と見つめられて、青年は微笑んだまま、首を傾げた。
「飲めない?」
訊くと再び寝台に戻り、がくぽの隣に座る。枕元に置いてあった盆の上、素朴な木彫りの盃を取ると、水を注いだ。
その盃を、がくぽには渡さない。
「ん……」
「………っ?!」
青年は自分の口に水を含むと、躊躇いもなくがくぽに口づけた。驚くほどにひんやりとした感触がくちびるを覆い、がくぽはなぜか咄嗟に口を開く。
冷たさを失わない水が流れ込み、渇いた口の中を潤していく。咽喉に流れても水は冷たく、その冷たさによってようやく、体がどれだけ熱を持っているのかに思い至った。
「…っふ」
「もっと?」
無邪気に訊きながら、青年は再び盃を当て、自分の口に水を含む。
躊躇いもなく塞がれたくちびるに、流しこまれる水。
同時に、わずかに混ざる薄荷の香り――
「まだ、飲むよね?」
「もう、いい………です」
「ん?」
掠れる声をどうにか押し出し、がくぽは一度、咳払いした。
最低限、咽喉は潤った。
盃を持って首を傾げる青年に、がくぽは戸惑いながら、手を伸ばす。
「自分で、飲めます」
「ああ」
がくぽの言う『もういい』の意味がわかり、青年は花開くように笑った。水瓶を取ると新しい水を盃に注ぎ、がくぽに渡す。
もれなく包帯に巻かれている手だ。
がくぽは受け取った盃と手の感触を確かめ、どうにか持てそうだと胸を撫で下ろしながら、水を飲み干した。
冷たい――が、薄荷の香りは、しない。
「もっと飲む?のど、かわいたよね。ずっと寝ていたもの」
青年はうれしそうに訊きながら、がくぽを見つめる。
がくぽは首を振って断ると、寝台の上で軽く、居住まいを正した――できれば床に降りたうえで、正式な礼を取りたかった。
しかし居住まいを正すだけでも青年が困ったような顔をしたので、堪えたのだ。
それによくよく考えれば、全身隈なく覆われて肌が隠されているとはいえ、纏っているのは包帯だけ。全裸も同然の格好だ。そんな姿で正式な礼を取るのも、滑稽だろう。
居住いを正したうえでがくぽは布団に手をつき、頭を下げた。
「拙は神威がくぽと申す者に御座います。東方にて、剣士を生業としておりました。この度は拙の命をお拾いいただき、誠に………」
「あ、あのね、えと………!かむい?がくぽ?なまえ?」
謝意を述べる途中で、青年が慌てて口を挟んで来た。
がくぽは束の間口ごもったものの、小さく咳払いして気を取り直す。
「神威が姓にて、がくぽが名に御座います」
「んっ、えと、じゃあ、がくぽ!」
見た形から計った年からするとずいぶん幼い口調で呼んで、青年はちょこりと首を傾げた。両手を胸の前で組み、困惑を含んだ愛らしい顔で笑う。
「あのね、………むつかしくって、なにいってるか、わかんない…………」
「………」
たどたどしく吐き出された言葉に、がくぽは一瞬、思考を空白に乗っ取られた。
しかしよくよく考えるに、青年の口調はずっと幼く、あまり言葉を操るのに長けている様子もない。
なにより、自分がいるはずの場所だ。予想の通りだとするなら――
「失礼つか――すみません、でした」
「んーんっ」
丁寧に頭を下げたがくぽに、青年は首を横に振る。
がくぽは再び居住まいを正すと、わずかに考えてから口を開いた。
「私は、神威がくぽという名前です。大陸の東にある国で、剣士を仕事にしていました。今回は、危なく命を落としかけたところを助けていただき、ありがとうございます」
言ってから、そっと青年の顔を窺う。
目が合うと、青年はにっこりと明るく笑った。
がくぽの真似をして、居住まいを正す。軽く明るく弾む声で、はきはきと言った。
「おれのなまえは、カイトです。この北の森で、神さましています」