慢性的な睡眠不足と、定期的にやってくる栄養不良。
弱るがくぽに対し、カイトが取る方法はひとつだ。
くちびるを合わせ、そこから自分の『神気』を流しこむ。
ただしこれは、本来ならやってはいけない方法だった。
「そんなにカンタンに元気にできちゃうってなったら、人間が狩りにくるから、ぜったいその力はバレちゃだめよって」
しょちぴるり
第1部-第13話
いよいよ寒くなって、冬が近づいてきた。まだ凍ってはいないが、もはや湖には潜れない。
途方に暮れたがくぽに、カイトの方が気を利かせた。
以前、行ったはものの見事なまでの源泉で、素敵にぐらぐらと沸き立っていたために諦めた温泉を、がくぽにも入れるようにしたのだ。
源泉の近くに穴を掘り、溝を通じて湯を流す。薄める水を持ってくるのに往生する場所だったのだが、カイトには関係ない。
いつもどおりに<精霊>を呼び出すと、冷たい水を湧かせて、ちょうどよくうめた。ちなみに穴や溝も、<精霊>に掘らせている。
そうやって新しく『風呂』がつくられ、がくぽはようやく人心地がついた。
一瞬だけだった。
おもしろがったカイトがいっしょに入りたがり、制止する間もなく飛び込んだのだ。
それも、裸で。
湖では脱がなかったカイトだが、がくぽのやることがおもしろいと思うと、それに倣う。
全裸になって温泉に浸かることも、もちろん、楽しそうだと思えば。
「ぇへへ!」
「………………は……」
得意満面のカイトに、がくぽは内心、項垂れた――おかしいのは自分で、カイトの態度はむしろ当然だ。だから落ち込むほうがおかしい。
おかしいと、わかっているが。
「…………見つかると、怒られるのでしょう?」
気を逸らすための話題を続けたがくぽに、カイトはこっくりと頷いた。
「うん。めーちゃんはぶつ」
「………」
深刻そうに言う。が、言葉がかわいらしくて、思わず和みそうになる。
おそらく、和める事態ではない。胸を踏みつけられたときの力の強さと、背に負っているだけでなく使いこまれた矢筒の存在を思えば、かなり痛いだろうとは予測がつく。
「ならば……」
「でも、がくぽが元気ないの、いやだもん」
「………」
強情な声音で言い張られて、がくぽは口ごもった。
剣士だが、イクサの経験も長い。狩りも出来るが、料理も出来る。
あくまでも野戦食で、街や都市の食堂や料亭のような、もしくは家庭で供されるような素朴な料理ですらない。野卑なものだが、料理は料理だ。
なにより短時間で効率よく摂ることを目的としているから、高栄養は保証されている。
問題は、肉食が中心になるということだ。
どうしても、なにかしらの命を狩らなければならない――が、言いだせない。
「………がくぽ」
「っ」
俯いて考えこむがくぽの傍に、いつの間にかカイトが寄って来ていた。湯は微妙に濁り色で、浸かる体がすべて露わになるわけではない。
だが、見えなければいいというものではない。
「…………あのね、…………人間の国、かえりたい?」
「………っ」
問いも衝撃的だったが、同時に押しつけられた素肌の感触はもっと衝撃的だった。
あたたかい。
やわらかい。
なめらかで、そして――
「………私はあなたの守り役です」
「……」
がくぽの腕に抱きついたカイトは、肩にこてんと頭を乗せ、凭れかかる。
下手に動けば洒落にならない事態に陥ることだけは予想できたので、がくぽは息を潜め、身を固めた。
「あなたに命を助けていただいた恩もまだ、返していません。だというのに、帰ることなど……」
「かえりたいの、がくぽ?」
カイトの声は、透明だった。
湖の水に似ている。痛いほどに冷たく澄み、一切の嘘も誤魔化しも赦さない。
がくぽは一瞬くちびるを噛み、ややして小さくため息を吐き出した。
「帰るも帰らぬも、私には『帰る』場所などありません。あなたに追い出されたら行くところもなく、彷徨うしかないのです」
「………」
がくぽの腕を抱きこんだまま、カイトは瞳を瞬かせる。不思議そうにがくぽを見つめ、首を傾げた。
しかし詳細を問うことはなく、微笑む。
「おれのそばに、いてくれる?」
「………ええ」
訊かれて、がくぽも微笑み返した。傍にいろと願われるなら、それ以上自分に望むことなどない。
何気ないしぐさでカイトの腕から逃れると、がくぽは少々暖まり過ぎた体を湯から上げた。カイトを振り返ることなく、濡れたままの体に手早く着物を着けていく。
「………」
一部分が激しく自己を主張していて、がくぽは静かに呼吸を整えた。
怪我が酷かったときならともかく、現在は健康体と言って差し支えないがくぽだ。
栄養不良でふらついていればいいのだろうが、そこはカイトが『神気』で補ってしまう――
健康な男子の常として、ここしばらく吐き出すべきものを吐き出していない体は、簡単に火が点いて治まりが悪い。
ひとりきりで『出来れば』いいのだろうが、カイトから離れる時間がそもそもない。
溜まる一方の体に、募るばかりの我慢。
「………」
「がくぽ?どこかいたい?くるしい?」
吐き出したため息に、後を追って湯から上がったカイトが心配そうに訊く。
がくぽは慌てて、微笑みを浮かべた。
「いえ、少しばかり湯あたりしたようです。頭を冷やせば、大丈夫です」
「……」
言葉に因らずに状態を計ろうと、じっとがくぽを見つめるカイトは、未だに全裸だ。
がくぽは微笑みを維持したまま、放り出されているカイトの衣装を取った――寒い季節になったが、カイトが衣替えする様子はない。
雨の中雪の中でも外で寝ると、答える相手だ。当然、真冬の最中であっても薄絹で過ごすだろうが。
「着てください。風邪を………いえ」
人間ならば当たり前でありきたりな言葉で誤魔化そうとして、がくぽはかえって詰まることになった。
風邪を引くのだろうか。神が、湯冷めして。
「ぷ」
「………すみません」
妙な表情を晒したがくぽに、カイトが吹き出す。
笑顔を見られたことに安堵しながら、がくぽは頭を下げ、衣装を渡した。
受け取ったカイトは、手早く身に着けつつ、笑ってがくぽを見る。
「神さまも、病気することあるよ。たぶん、人間とはちょっと、ちがうけど……」
「……」
笑顔のままのカイトの言葉に、がくぽはかえって愁眉となった。
人間と同じ病に罹ると言われても困るが、人間とは違う病に罹ると言われると、さらに困る。
万が一のときに、手立ての打ちようがない。
「………どのようにして、治すのです?」
訊いたがくぽに、カイトはわずかに考えこんだ。
「んと」
「っふっ」
「あ」
カイトが口を開きかけた瞬間、がくぽはくしゃみをしそうになって堪え、おかしな呼気を漏らした。
いつもの癖で、濡れたまま服を着た。いくら湯あたりしそうなほどに体を温めたとはいえ、寒さは相当だ。すぐに体が冷える。
「<精霊>、お水おねがい」
はたと気がついたカイトが慌てて<精霊>を呼び、自分とがくぽと両方の水気を取り去る。
「………すみません」
「ううんっ」
「っ」
気まずく謝ったがくぽに、カイトは飛びついてくる。その体がどういう意図か、未だに暖かく、咄嗟に抱きしめたがくぽは後悔した。
冷たければ理性の保ちようもあるのに、暖かくては離せなくなる。
カイトは心配そうにがくぽを見上げ、緊張に引きつる頬を撫でた。
「どこか、くるしい?カゼひいた?」
「いえ、まだっ」
「今、よくしてあげる……」
「……っ」
抵抗することも出来ないままに、伸び上がったカイトのくちびるががくぽのくちびるを塞ぐ。
開いた口の中に吹き込む、甘い薄荷の香り。
抱きしめる体も、頬に添えられた手も、いつもと違って暖かい。
けれど吹きこまれる甘い薄荷だけは、いつもの通りに清涼感を伴って、がくぽの体に沁みこんでいく。
力に変わる。
「……っ」
吹きこまれる『神気』の冷たさに縋っても、抱きしめる体の暖かさには勝てない。
いくら清涼感を伴っていても、それだけでは力を得たままに、吐き出すことの出来ない体の疼きを消すことは不可能だ。
「ん……………んっ、んぅっ?!」
「ふ、……っ」
抱きしめたままに抵抗出来ないように封じて、がくぽはカイトのくちびるに舌を伸ばした。
びくりと引きつる体に構うことなく、口の中を舌で辿る。
「ん、ぁ………ふぁあ」
腕の中で、カイトが甘い声を上げて痙攣をくり返す。
胸に縋る手が、突き放す動きにならないのをいいことに、がくぽはカイトの口中を存分に味わった。
「ぁ……っ」
がくりと膝が折れたカイトを、しっかりと腕に支えた瞬間だ。
「カイト、このヌケマ!!」
聞きたくないこと、最近の交流関係で一、二を争う女性の声に、がくぽははっとして口づけを解いた。