森の木々が、ざわめく。

枯れかけた草が、萎れた花が、肌を逆撫で、神経を尖らせるように、ざわりざわりと鳴く。

「ちっ」

メイコは痛烈な舌打ちを漏らし、歪んで撓み、悲鳴を上げる森を駆けた。

しょちぴるり

第1部-第18話

「だから、いわんこっちゃないってのよ!」

やめろと、言った。逃げろなどという、命令は。

剣士は、剣を持たせておくのが最も安全なのだとも。

カイトにはさっぱり伝わっていなかったが、剣士などという存在は、むしろ自由に戦わせていた方が、ずっと安全な生き物なのだ。

多少の怪我はしようが、得物をなにも持たせず、ましてや逃げること前提で戦わせるより、真正面から好きなように向かわせていたほうが、よほど。

とはいえ、今さら言ったところで、遅い。

遅いが、だからといって諦めるわけにはいかない。

「っつっ」

駆けるために地面を蹴った足が、ずぶりと呑みこまれた。転げかけて、寸でのところで堪える。

耳が痛い。

頭が眩む。

視界が回る。

森全体が悲鳴を上げ、轟き、喚いている。

原因はひとつだ。

もっとも恐れていた事態。

「だいたい、あの人間のガンコぶりがわるいのよ!!」

埋まる足を地面から引き抜きつつ、メイコは八つ当たり気味に叫んだ。

カイトを前にして人間の理性がそう持つなど、予想もしていなかった。なんのための、あられもない恰好だと思っているのだ。

女ノ神がすべて、肌を厳重に隠し、色気も素っ気もない恰好をしているというのに、どうしてカイトだけには――

男同士だなどということは、些細過ぎる問題だ。

神の肌が放つ香気は、人間を容易く狂わせる。

神の肌色は、人間の欲をこれでもかと募らせる。

だからこそ森の中にあってすら、厳重に肌をくるみ隠して過ごす神が――カイトにだけ、ああも、無防備に肌を晒させている、その意味。

考えろと、喚きたい。

早晩、あの人間はカイトによろめくと――思って、数か月。

口づけ止まりとは、どういうことだ。

しかも、あれほど熱烈な口づけを交わしながら、その先に進まずにいるなど。

もはや理解を通り越している以上に、人間ではないとしか思えない。

思えないが、においも色も形も、人間だ。

だから、人間。

どんなに、納得がいかなくても。

ぬかるんでへこみ、回りながら沈んでいく地面を蹴り、メイコは走る。

何度足を取られても無理やりに、進んだ。

耳をつんざく悲鳴。

悲嘆と、悲哀。

森を染め変えていく、絶望の色。

「あんのヌケマっ!!」

罵って、さんざんに苦労して、メイコはようやく森の端に辿りついた。

「――」

森と『外』との境界に座りこんだカイトが、うたっていた。

天を見上げ、咽喉を開き、うたを迸らせる。

迸るうたから雨のように降り注ぐ、『破滅』が見えた。

契約を結んだ森のことは避けているが、境界から外の大地が、みるみるうちに枯れていく。

枯れるのは、大地だけではない。そこに立つ生き物、無機物、すべてに『破滅』が降り注ぎ、『枯れて』いく。

ここ最近、彼方に感じていた嫌な気配――人間の軍も例外でなく、命が枯れて、消えていくのがわかる。

男ノ神は、『破滅のうた』をうたう。

力を貸すと契約した森の中では、その威力は世界をも滅ぼすほど、増大する。

だから、すべての男ノ神を森から追い出した。その行く末がどうであれ、彼らが同族を殺すことよりは、ましだったからだ。

同族であっても容易く殺し合う人間と違って、神にとっての同族殺しは、意味が重い。<世界>の安定、その根幹に関わる。

殺せない。

だからといって、森にも置けない。

それゆえに、追い出す――外がいかな苦境であっても。死んだ方が余程ましだとしても。

その定めのはずのカイトを森に置いたのは、彼が『いのちのうた』をうたうことを選べたからだ。その身に、『滅びのうた』を宿したまま。

それまで在った男ノ神の中にも、二つのうたを身に秘めるものはいた。

しかしたとえ二つのうたを持っていても、『滅びのうた』を秘めたままに、『いのちのうた』を選ぶことが出来なかった。

放逐された男ノ神は、一度『滅びのうた』を選んだが最後、もはや『いのちのうた』をうたうことは、出来なかったのだ。

生育を助け、削られた命を補填し、永らえさせる――滅びを招いても、再生させることが、可能な。

賭けだった。

心が負の意識に傾けば、カイトのうたは滅びへ変わる。

幸いと言おうか、生憎と言おうか。

カイトは生来、おっとりとして、穏やかな気質だった。多少のことでは怒ることも憎むこともなく、端然と、淡々と、生きた。

身に秘めた『破滅のうた』の気配を、感じさせることもないままに、ここまで来て――

初見時に、メイコががくぽを踏んだのは、わざとだった。

試したのだ。

カイトにとって、がくぽがどれほどの意味を持っているのか。

いつものように、端然と流すならいい。メイコが暴力的であることなど、端から承知だ。肩を落として、乱暴なんだからと、いつものように流すなら。

長であるメイコの意に、諾々と従う姿勢を示すならば。

だが、苦しむがくぽを見たカイトは、容易く箍を外した。

これまで潜めたまま、感じさせることもなかった『滅びのうた』の気配を、あっさりと解き放った。

メイコから見ればがくぽは、多少見た形が整っているだけの、どこにでもいる人間だ。

カイトの心のなにをそうまで掴んだのか、さっぱりわからない。

わからなくても、がくぽがカイトの心に入りこみ、多大な影響を与えることだけはわかった。

それだけわかればいい。

だとしたら、後は――

「んっの、ヌケマ…………っ」

うたが、迸る。

森の中はまだ、影響が小さい。『守る』という契約を交わしているからだ。

しかしそうそう持つことはないだろう。『滅びのうた』をうたうということは、理性が切れているということだ。

心が絶望に染まって、なにも見えなくなっているということだ。

契約のことなど、すぐに忘れ果てる。

そうすれば、森の中に破滅が及ぶ。

及んでも、森は反故にされた契約に縛られる。命ある限り、滅ぼされながら、カイトへ力を供給し続ける。滅びを招くための、力を――

「………っ」

近づけば近づくほど、体が軋む。痛み、歪み、撓む。

矜持の高さだけに縋って膝をつくことを堪え、メイコはカイトの傍へと寄った。

座りこんだカイトは、がくぽを抱いていた。血まみれだ。出血の元は胸らしいが、すでに瞳を閉じ、青褪めて微動だにしない。

よく怪我をする人間だと、メイコは半ば呆れる。もちろんそこには、憤激もある。

カイトに多大な影響を与えるのだから、容易く怪我をするなと。

さらにその傍らで、身を折って悶絶する、黒ずくめの人間の男がいた。神のメイコですら、こうまで影響を受けるのだ。人間など、本来はひとたまりもない。

まだ生きているのはひとえに、ここが森の中で、影響が最小限に留まっているからだろう。

そのことはとりあえず保留として、メイコはがくぽの気配を探った。

死んでいたら、取り返しがつかない。

カイトを殺さない限り、うたは止まらない。

同族殺しは、神にとって大罪だ――滅びのうたによって人間も世界も、同族も殺すのがカイトか、カイトという神ひと柱を殺すのが、メイコか。

どちらにしろ、誰かが泥を被る。

「――」

カイトは、うたい続ける。

メイコは歯を食いしばって息を継ぎ、うたに掻き消されるがくぽの気配を探った。

「………っっ!!」

ややしてその顔が、このうえない喜色を浮かべて素直に輝いた。

命汚い。さすがは人間だ。

彼女にとっては最上級の褒め言葉を胸に宿らせつつ、メイコは厳重にくるまれた体いっぱいに、息を吸い込んだ。

胸と腹を膨らませ、ともすれば折られる体を伸ばす。

「カイト!!」

あらん限りの力を込めて、叫んだ。

「今すぐ、『生吹』をやりなさい!!今なら、まだまにあう!!」

メイコの声にも、カイトのうたは続く。

めげることなく、メイコは喚いた。

「ほんとに、ころしたいの、カイト?!いいからさっさと、その人間に『生吹』をやりなさい!!まだ生きてるわ、その人間!!」

「……っ」

茫洋と霞んで天を見上げていたカイトの瞳が、わずかに光った。

戻りつつある理性と正気を逃すまいと、メイコはさらに力を入れて、咽喉も裂けよとばかりに叫ぶ。

「生きてる!!だから、はやく!!」

「っっ!!」

ぱちりと、ひとつ瞬き。

次の瞬間にはカイトの瞳に理性が戻り、うたが止む。

名残りで轟く森に構うことなく、カイトは膝の上を見た。

抱いたがくぽの顔に、色はない。

色はないが、確かによくよく探れば、まだ、命の気配が――

「が、くぽっ」

掠れる声で呼んで、カイトは血に濡れるがくぽのくちびるに、くちびるを重ねた。