決して敵から逃げることなかれ。
東の剣士は、剣の振るい方を教わるより先に、戦いへと挑む心構えから叩きこまれる。
しょちぴるり
第1部-第17話
剣を取った以上、敵に背を向けることなかれ。
ひとたび抜いたなら、地に膝をつくことなかれ。
年端も行かない、意識も覚束ないような幼子のときから、くり返しくり返し吹き込まれ、体に沁みこまされるのだ。
――よしんば逃ぐることあらば、死に時と思え。
そこまできっちりと沁みこんで、初めて子供は剣を与えられる。
命を奪う得物を持つものは、相応の覚悟と心構えを持って臨まなければならない。
他国人からすると狂気の沙汰としか思えない教えを元に、東の剣士は剣士として立つ。
逃げることなど、端から念頭にない。
約束した。
約束――と、言えるかどうか、微妙な部分はあるとしても。
カイトが逃げろと命じたなら、逃げる、と。
神気とともに吹きこまれた、絶対の命令だ。人間に逆らうことなど、出来ようもはずもない。
がくぽでなければ――がくぽが東の剣士でなければきっと、命じられたままに逃げていた。
剣を躱し、遠くの場所へと。
だが、がくぽは東の剣士だった。
逃げるな、と。
ひとたび剣を抜いたなら、決して逃げることならじと。
幼少期から叩きこまれた、すでに本能と化した、絶対の命令。
そして、主と定めた相手から発された、絶対の命令。
瞬間に相反する絶対命令同士が戦い、決着もつかず、がくぽの体を心を、雁字搦めとした。
「………っ」
肺が焼ける。
血が沸騰して、息が詰まる。
――隠密衆の剣だ。なにかしらの毒が塗ってあることなど、もはや確認するまでもない前提。
激昂したとはいえ、それに肉を断たせようと思ったなど、愚の骨頂すら通り過ぎている。
皮一枚であってすら、爛れは広がっていくだろうに。
「ぅ………え、ぁ………っ、ふ、が、くぽ………っがくぽ………っ」
ぽたぽたと、頬に雫がしたたり落ちる。
ぬるいのか、冷たいのか、そんなこともわからない。
うまく息を継ぐことも出来ず、倒れたがくぽを抱いたカイトは、ひたすらに泣きじゃくる。
泣かせたかったわけではなかった。
笑っていて欲しい、それが常に願いだというのに。
「………ぁ、ふ………っぅ、ひ………っ」
「………っ」
声を、出そうとする。
なかないでください、と。
大丈夫、私が命汚いのは、よくご存知でしょう?
笑って、頬を撫でて――
けれど、指先ひとつすら、ぴくりとも動かせない。
息が出来ないままに、意識が遠のいていく。
木が、草が、ざわざわと不快に鳴る音が、耳に届く。神経を逆撫でして、さらに息を詰まらせるような。
あまりの不快さに、気が狂いそうになる、そんな――
「ひ………っぅ、ぁ………っぁ…………っ」
木が、鳴る。
カイトの泣き声。
草が、哭く。
カイトの、引きつる呼吸。
胸が焼けて、目が回って、脳髄が蕩けて、意識が消える。
かわいそうだと、思う。
思うと同時に、自分のために泣いてくれるのかと、妙なうれしさが。
うれしさと、自分などのためにという、後ろめたさと。
言い訳など利かない身だ。
がくぽに剣を授けたのは公主で、がくぽは膝をついて拝命したのだ。
迷っているなら、剣を拝命するべきではなかった。
けれど、いつか――いつか、公主のことを、主として身命を懸ける相手だと、思えるようになるかもしれないと。
甘いあまい、目算。
公主に瑕疵や落ち度があるわけではない。未だ幼い身だ。幼い身ながら、よくやっている。
将来が楽しみだとも思った。
思ったのに、我慢出来なかった。
公主は悪くはない。
強いて言うなら、相性。
どうしても、どうやっても、公主を主と思えなかった。
幼いからではない。
女性だからでもない。
ただ、彼女ではないと、思った。
自分が剣を捧げ、身命を尽くす相手は、公主ではない、と。
思っても、耐えた。剣を拝命した以上、公主こそが自分の主と。
しかし、日に日に己の身を苛む齟齬が大きくなり、噛み合わない心身に剣筋も曇り――
出奔した。
公主を捨て、国を捨て、なにもかも捨てて。
狂っていたと、思う。
主ではない主を、主と仰ぐ日々に。
主ではない主に膝をつき、剣を捧げる日々に。
狂って、狂いのままに曇った剣を振るい、幾つもの命を奪い、逃れ逃れて――
北の森で、とうとう、神獣に斃された。
これで、主を乞うて狂いのままに彷徨う生が、終わる。
安堵すら抱いた。
同時に、未練があった。
主が欲しかった。
剣を捧げられる、誰かが欲しかった。
――いきたい?
訊かれて、答えた。
いきたい。
逝きたい。
行きたい。
生きたい。
主の命じるままに。
主が思うままに。
いきたい。
――さわって、いい?
問いに答えを返す前に、命が吹きこまれた。
甘いあまい、薄荷水――
「ぅ………っぁ、あ…………っっ」
カイトが、泣いている。
命を与えてくれた。
狂いに歪んでいた思考が、あの薄荷水を得た瞬間に、嘘のように晴れたのだ。
駆り立てた狂奔の想いが冷め、曇っていた瞳がようやく景色を映し、そうやって見出した。
主と、定めた――
「ぁー……………っっっ!!」
カイトが、ないている。