「そういうことでしたら、まあどうせ、正攻法では敵わないですしね。今日は一度、退きます」
がくぽの軛が外れたことを確認したキヨテルは、あっさりとそう言いのけた。
東の剣士は逃げることを良しとしないが、隠密衆は違う。戦わず逃げることこそ、彼らがもっとも重視する戦法だ。
しょちぴるり
第2部-6話
「にがすと…」
「逃げますとも」
踏む足に力を込めたメイコに、キヨテルが悲鳴を上げることはなかった。ただ、明るく笑った。
「メイコ殿っ」
「っ!」
がくぽが警告を叫ぶと同時に、メイコは素早く背後へと飛び退っていた。がくぽもまた、抱えたカイトを背後に庇い、剣を構える。
指の間に挟んだ針を閃かせたキヨテルは、自由になった体をそのまま反して、素早く身を起こした。軽々と跳ねて木の枝を掴み飛び乗ると、頭上遥かから優雅にお辞儀をしてみせる。
「ではまた次回」
「二度と来るなっ!!」
がくぽの叫びに笑みを返して、キヨテルの姿は陽炎のように揺らいだ。
ふいと大きく揺らいで、次の瞬間にはもう姿がない。
「………」
用心深く気配を探り、がくぽは眉をひそめた。
かすかだが、遠く離れていく気配がある。
「………なんなの、あの人間」
ぼそりとメイコがつぶやき、踏んでいた足を軽く上げた。感覚を確かめるようなしぐさだ。
「メイコ殿、まさか…」
針が掠りでもしたかと青褪めたがくぽに、メイコはいーっと舌を出す。
「そこのヌケマと、いっしょにしないで。……まったく今日は、ほんっとにおもしろくない日だわ……」
「………」
仄暗い瞳に見据えられて、がくぽはカイトを抱いて庇ったまま、わずかに体を硬くした――八つ当たりをしたいと、言われているような気がする。
メイコの八つ当たりといえば、暴力しか思い浮かばない。
殴られ人形をやるくらい、耐えないでもないが――
「めーちゃん!」
がくぽと同じ考えに行きついたカイトが、慌てて腕から抜け出す。がくぽを背後に庇って、乱暴者の姉を睨んだ。
「がくぽ、いじめたらだめ……!」
「………」
どう言い表そうともつまりはそういうことだが、言葉の稚気さが与える衝撃に、がくぽは無言で耐えた。
ずっと昔、剣を振り回すというより振り回されていた、幼いころにでも戻ったような感覚がある。
「はっ」
メイコはおもしろくもなさそうに鼻で笑い、複雑な表情を晒すがくぽを睨みつけた。
「おぼえてるでしょうね、あたしがいったこと?」
「………っ」
がくぽの表情が、先とは違う意味で硬くなる。
息すら潜めたがくぽに、メイコはくちびるを歪めた。
「時間がないのよ。なにを迷っているかしらないけど、さっさとしなさいよね!」
「めーちゃん?」
怒鳴りつける姉の言葉の先がわからず、カイトは戸惑う表情になる。
どやしつけられたがくぽときつく睨むメイコを見比べ、その双方が晒す険悪な表情と空気に、さらに困惑して瞳を揺らした。
「………がくぽ?」
不安に潜む声が、そっと名前を呼ぶ。
がくぽは静かにしずかに呼吸を整え、カイトへ微笑んでみせた。
「………大丈夫です。なにもご案じ召さ……いえ。なにも心配は、いりません。私は必ず、あなたをお守りします」
「………」
おそらく、そういうことではないと、思う。
思っても、ではなにが問題になっているのか、カイトには皆目わからない。
力強くても頼もしくても、差される先がわからずに不安が拭えないカイトを、がくぽはひたすらに微笑みを浮かべて見つめた。
「…………必ずです。必ずやあなたのことを、お守りします」
「………」
重ねて言われ、カイトはがくぽの胸にそっと顔を埋めた。小さく擦りつく。腕が回されて、やさしく抱きしめられた。
久しぶりの、がくぽの体温。体臭。肌触り。
すべての感覚を研ぎ澄まさせて感じて、カイトは瞳を閉じると同時に、疑問のすべてを胸に仕舞った。
今は、いい。
今はただ、この心地よい感覚だけに浸っていたい。
あまりにも久しぶりで、腹の底まで痺れるような、この感覚に――
「…………いい性根だわ、人間」
憎々しげにメイコは吐き出し、カイトを懐かせるがくぽを睨んだ。
やわらかな表情だ。その奥底に欲望の熾火を抱きながら、あくまでやさしくやわらかに微笑み、心から誓って見せる。
何者からも、きっと守ると。
その『何者』には確実に、自分自身も含まれている。
「それがおまえの答えなの」
問いに、がくぽはカイトを抱く腕にわずかに力を込め、メイコとしっかり目を合わせた。
「なにあろうとも、この方の本意でないことに加担する気はありません。それでも赦されぬと言うなら、覚悟を決めるまでです」
「………っ」
「……がくぽ?」
がくぽが決める『覚悟』はきっと、メイコが求めた『覚悟』ではない。
不思議そうな表情を向けたカイトへ、がくぽはひたすらに笑みを浮かべてみせた。
抱く腕に力が込められて、けれど先へと進むこともない。
後ろにも退けず、先にも進めない――
「むつかしくって、なにいってるか、わかんないのよ!!もう、勝手にするといいわ!」
「めーちゃん?!」
「………」
肩を怒らせて踵を返し、メイコはずんずんと森の中へ消えていく。
瞳を見開くカイトを抱いたまま、がくぽは軽く頭を下げた。
メイコは、カイトを案じているだけだ。きちんとわかっている。
悪意からカイトを貶めようとしているわけではない。
『滅びのうた』をうたったことで森を追放されそうになっている弟を、どうにかして助けたい一心なのだ。
わかっている。
わかっていて、重々承知していて、それでも越えられない一線と、越えてはいけない一線と、越える気のない一線――
そのすべてがあるから、がくぽもまた、折れ曲がれない。
「がくぽ。………めーちゃんと、なにかヤクソク、したの?」
姉の背が見えなくなって振り仰いだカイトの問いに、がくぽはほんの刹那だけ言い淀み、ごく自然と微笑んだ。
「………いいえ。なにも…………」
嘘は言っていない。
約束はしていないからだ。
メイコは一方的に告げただけで、がくぽは応の返事をしていない。
だから、約束はなにひとつとして成立していない――が。
「なにも……」
つぶやきながら、がくぽはカイトを抱く腕に力を込めた。そうすると、カイトは安堵したように体から力を抜いて、そっと寄り添ってくる。
「………っ」
抱く腕に込める力を弱めることも出来ないまま、がくぽはくちびるを噛みしめた。
守ると誓った。
何者からも。
たとえ、自分であっても。
そのために己の身が業火に焼かれて爛れようと、息絶えようと――その最後の瞬間まで、カイトを守る。
「………」
「………」
抱かれて寄り添うカイトの手が、そっとがくぽの胸元の着物をつまむ。
きゅっとあえかに握られて縋られ、がくぽは小さく奥歯を鳴らした。
呪縛が解かれた体は軽く、興奮の余韻は一向に去りそうにない。
興奮ままに行動すれば、必ず――
「………ん、ぃたい………ぃたい、がくぽ……」
「………」
カイトが小さく呻くが、声が甘く、離して欲しいわけではないとしか思えない。
がくぽはますます、腕を放せなくなった。
抱いて、抱き潰して、開いて、晒して、貫き、打ちこみ――
「…………お守りします、カイト殿……必ずや」
カイトに告げるというより、自分へ釘を刺すつもりでがくぽは誓いをくり返し、抱いたカイトの肩に顔を埋めた。
香る薄荷と、沁みてくる冷たさ。
良かったと、心の片隅で思う。
これで体があたたかければ、もう欲望を堪える術を思いつけない。
ぬくもりを求めて、カイトを――
カイトの肩に顔を埋めたまま、がくぽはメイコの『言葉』を反芻した。