しかしそれからがまた、ひと悶着だった。
どちらが床に寝るか、寝台を使うかで、揉めに揉めることになったのだ。
しょちぴるり
第2部-第9話
「人間って、おふとんないと、病気になるんでしょ?!」
そうとも言えるし、そうとも言い切れないしと、微妙な知識をカイトは主張する。
「そもそもおれ、おふとんいらないし!地面に寝るの、ふつーだし!がくぽがおふとん、つかって!」
「…………布団なら、使います。しかし、寝台はあなたが………」
苦しい言い分を連ねたがくぽに、カイトはきゅっと眉をひそめた。
「だから、おれは地面に寝るの、ふつうだっていってるでしょ?!でもがくぽは、人間なんだから」
「私とて、地面に寝るのは慣れています。イクサ場で、寝台などありません。地べたに転がって寝るのが、普通ですから」
「ここ、イクサ場じゃないもん!」
――というような、喧々諤々の末。
「………っ」
ぶすっと、最大限に膨れたカイトが、寝台に座る。きっと一度、がくぽのことを睨んでから、乱暴に横になった。
それが精いっぱいの抗議でもあるのだろう、がくぽに背を向けている。
そうされても怖いとか不愉快だとかいうより、愛らしい思いのほうが勝る。その分、勝手を言った己に罪悪感が募った。
が、撤回するわけにもいかない――ここで折れてカイトと共に寝れば、より以上に悲惨なことになるのは目に見えている。
少しばかり機嫌を損なっていてくれたほうが、今はむしろいいのかもしれない。
「………」
すみません、と。
謝る形にくちびるを開いて、がくぽは言葉を呑みこんだ。
謝ってどうにかなることでもなく、謝るくらいならば、こんなことはしなければいい。
そう思うから、頭を下げた。
「…………おやすみなさい、カイト殿」
「……」
いつになく不貞腐れたカイトから、挨拶が返されることはなかった。怒りの波動ばかりが伝わってくるが、どうしようもない。
がくぽは苦く笑うと、暖炉の傍の床に腰を下ろし、毛布にくるまった。
石造りの床だ。いくら暖炉の前でも、冷たさは毛布を沁みて這い上がってくる。
「……」
一瞬、ぶるりと震えたが、がくぽは深く静かな呼吸をくり返した。
凍え死ぬほどではない。だからあとは、己の制御。
呼吸を体に巡らせることで冷たさをわずかに意識の外に追いやり、がくぽは目を閉じた。
「……す…………ふ…………」
体は鈍っているが、精神も鈍っているのだろう。すぐには眠りが訪れないが、がくぽは呼吸法をくり返し、瞳を閉ざしていた。
眠れずとも呼吸法を取り、体を横たえているだけでも、多少は英気を養える。
日が経って体がひとり寝を思い出せば、そのころには季節も暖かくなっていて、すぐさま眠れるだろう。
だから眠りが訪れないことにも深く頓着せず、がくぽはひたすらに呼吸をくり返し、瞳を閉じていた。
「…す…………………」
ややしてがくぽの意識が束の間、闇に呑まれる。
その瞬間を狙ったものでもないだろうが、寝台に横たわっていたカイトは、そっと身を反した。
がくぽへと体を向け、床に座って毛布にくるまり、小さく丸くなって瞼を閉じる姿を眺める。
暗くても、神の目には関係ない。
眼光の鋭さに圧されて目立たないが、よく見ると長い睫毛も、すっと通った鼻梁も――
昼の光の中で見るのと変わらず、カイトの目にはつぶさに見える。
そしてなにより、身にまとう感情も――
嫌われてはいない。
意識が絶え間なくカイトに向けられていて、くるみこもうとしているのが、いつでも感じられる。
だからきっと、嫌われてはいないと思うのに。
「………っ」
がくぽが来るまでは、ひとりで寝ることがカイトにとって当たり前だった。適当な野辺に横たわっていたから、そこには常に草花や獣の気配があったとしても、誰かとぬくもりを分け合って、共に寝ることは――
きょうだい神はいるが、共寝をしたことなどない。
人間とは成りようが違う神は、生まれた当初から添い寝を必要とする無防備さとは、縁がない。
「………?」
カイトは片手を目の前にかざし、握って開いてをくり返した。
――ちがう。
なにか、引っかかる思いがある。
この手に、誰かを抱いて、寝ていたことがあるような――小さな命を抱いて、守り愛おしんでいたことが、ある?
「……………?」
引っ掛かりはしても、カイトにはそれが誰なのか、思い出せなかった。
獣の子ではない。草花の種でもない。
苗木でもなく、誰か――ひどく小さくて、かわいくて。
守りたいと思って、ずっとずっと腕に抱いていた。
抱いていた、はずだけれど――
現実に、自分の手が今掴むのは空漠で、隣は空白だ。
人間の体温は、カイトには熱いくらいだ。たまに、肌が灼けるような気がすることすらある。
初めはひどくびっくりしたし、痛いと思うこともあった。
あったけれど――
望むことを、叶えると、言った。
あなたはなにを望むのか、と。
望まれるままにいきたいのだと。
望めと、こちらに『望んだ』のは、がくぽだ。
「そう。あなたに罪咎はない」
窓も塞がれて暗い部屋の中に、静かに少年の声が響く。
「罪咎があるとしたら、誘惑を掛けた人間」
続いて響く、少女の声。
けれどカイトは声の主を探すこともなく、ひたすらにがくぽを見つめるだけだ。
「あの日、俺たちから手を離したのは、あなただけど」
「あの日、あたしたちから<世界>を奪うことに頷いたのは、あなただけど」
寝台の傍らに立つのは、北の地方の子供独特の衣装である、男女の別がつき難い貫頭衣を着た、まさに少年とも少女とも区別のつかない小さな姿だ。
双ツ声を発する一ツ体は、がくぽを見つめて揺るがないカイトへと、手を伸ばす。
触れても、感じない。
話しても、届かない。
――存在の記憶すらも、残っていない。
それが神が総意として出した、一ツ体に双ツ心と双ツ性、双ツ頭を持つ、異端の双ツ神に下した裁定だった。
一ツ体に双ツを詰め込まれた、異端の生まれのために<世界>と不和を起こしていたこの神は、他の男ノ神のように森の外に追いやればいいというものではなかった。
定めを負ったがゆえにこの双ツ神には、森の契約が及ばなかったのだ――外に追いやったところで、力が激減することはなかった。わずかに目減りすることもなく、強大で、不安定に歪んだまま。
そんなものが人間の手に渡れば、目も当てられない。
だからといって、森の中に置いておくことも出来なかった。
森の契約に縛られない彼らは、森を傷つけることを後回しにも出来なかったのだ。
<世界>との不和に堪えかねてすぐ暴走するうえに、森に置いておけば、最後の安息地であるこの場所を真っ先に破壊する。
森の外も駄目で、中に置いておくことも駄目ならば、<世界>から弾き出すしかない。
どういう状態であっても同族殺しが禁忌であり、双ツ神が負う定めも考えれば、神に取れる選択肢はそれだけだった。
そんな、常に暴走状態で破壊を振り撒く双ツ神のお守りは、命を修復し、力を与え直すことが可能な、カイトが引き受けていた。
己を殺すかもしれないのに、カイトはとても大事に大事に、その腕に抱いていてくれた。
暴れて傷つけてしまっても、必ず腕の中に――
けれどもう、記憶すら、残っていない。
幼い顔が反り、半面が少女、半面が少年という、歪ツな容態を取る。
「「約束を、果たして――<しょちぴるり>」」
こぼれた声は空間を不快に揺らしたが、カイトが眉をひそめることはなく、気配にたじろぐこともなかった。
幼い顔は悲痛に歪み、伸ばした手でカイトの肩を押す。けれど指は突き抜けて、触れることはおろか、止まることも出来ない。
抱いてくれた腕のやさしさを、降り注いだ笑顔のうれしさを、与えられた言葉のあたたかさを、なにもかも覚えていて、忘れることもないのに――
「「やくそくを、はたして――」」
届くこともない言葉は、しんと冷える空気より冷たく凍えて、なにを成すこともなく消えていく。
「………」
カイトはふと決断して、寝台から体を起こした。
がくぽは常から、カイトの気配を追うことが出来ないと嘆いていた。それでも気をつけて、最大限に気配を殺して、寝台から下りる。
ひんやりと冷えた石の床に素足を下ろしても、元から冷たい体のカイトは、竦むこともない。
足は淀むこともなく動いて、石畳をぺたりぺたりと進み、暖炉の傍に座って眠りこむがくぽの元へ。
わずかに、眉間に皺が寄っているように見えた。
寝ているときくらい、安堵に緩んで欲しいと思う。
実際のところ、神はそう毎日まいにち寝ないでも、特に体調を崩すということはない。
一応はこの世界に生きていても、その流れる体時計は人間などの生き物とはずいぶん違う。長い時を生きる彼らは、眠るとひと口に言っても、その間隔もまた、長い時に相応しいだけのものだった。
人間は、神から見れば四六時中眠っているようなものだ。
短い時を生きるものなのに、さらに四六時中眠らなければ、体調を崩す――理解不能なまでに繊細で、脆弱な生き物。
そうでありながら神を追いこみ、追いやり、世界の覇権を取った。
「………」
眉間の皺を緩めたいと手を伸ばしかけて、カイトは指を止めた。
触れると冷たいと、必ず竦んだがくぽの体。
竦んでから、ひどく申し訳なさそうにカイトへ謝る。
そんなことは、がくぽの咎ではないと思う。
カイトからすれば、火傷をしそうなほどに熱いのが、がくぽの体温――人間の体温というものだ。冷たさにも弱いというし、そんなに熱い体では、カイトの体は殊更に冷たく、痛いように感じられるだろう。
だからそんなことでいちいち、謝らないで欲しいし、罪悪感も抱いて欲しくない。
カイトは、合わせられるから――がくぽが心地よいように、すべてすべて、自分を合わせて苦痛もないから。
「………」
はあっと、口元に持って行った両手に息を吹きかけた。
体が熱を持つ。
同時に腹の中が軽く疼いたが、カイトは特に気にせず、がくぽの傍らに座りこんだ。
瞼を下ろして微動だにしないがくぽを間近で眺め、その体に身を寄せる。
触れるときっと、目を覚ます。
がくぽは深く寝入っているように見えるが、そうやっていても飛び起きるのが、剣士の性だという。
飛び起きられないなら、それが命の尽き時だと。
きっと起こす。
やっと眠れたのに。
罪悪感は胸に兆していて、それでもカイトはがくぽの体に身を凭せ掛けた。
「「やくそく、――まもって、おにぃちゃん」」
小さなちいさな声が闇に響いたが、カイトの耳に届くことは、決してなかった。