触れてはいけないと、誓ったのはあの日だ。
これからは、迂闊にカイトに触れてはいけないと。
しょちぴるり
第2部-第8話
確かに、カイトを森の中で生きられるようにすることは、大事なことだ。
だからといって望みもしないのに男に抱かれるのでは、あまりに哀れだ。その扱いと外の扱いと、なにが違うというのだろう。
メイコはカイトががくぽを気に入っているからいいと言ったが、カイトの『気に入っている』は『抱かれてもいい』と同義ではない。
久しぶりに会った、自分と同じ『男』――いわば、友人。気の置けない相手として。
その『友人』に劣情をぶつけられたりしたら、カイトの心はひどく傷つき、場合によっては壊れ果ててしまうかもしれない。それこそ致命的に、直しようもなく。
なにか、他に方法を探す。それまでは、自分の欲望を殺し続ける。
見透かされたのだ。カイトに抱く、汚らわしい欲動を。
カイトが気に入ってくれていることを良いことに、その欲動を利用されようとしている。
不徳もいいところだった。
今さら不徳を言いだすことも出来ないほどに自分が愚かであっても、そこまで許容する気はなかった。
メイコは言った。
がくぽのせいなのだから、がくぽが始末をつけろと。
だからがくぽは誓った。
カイトには触れない。
望みもせずに、男に汚されるような目には、決して遭わせないと。
それは他人のみならず、自分も。
自分からすら、カイトを守ると――
「……………え?」
カイトが、大きな瞳を見張る。
正視し難くて挫けそうになりながらも、がくぽは決然として、しかし表情はやわらかく笑ませて、カイトを見返した。
「ですから、寝台を分けましょうと、別々に寝ましょうと、言いました」
「………」
長く厳しい北の冬が終わり、春の兆しが見えてきた。
冷えることは確かだが、一人で寝れば確実に凍死するというまでの状態からは、脱した。そして、一冬かけた寝間の修繕も終わり、大分、外の寒さを防げるようになった。
なにより暖炉の修繕が成ったから、かなり居心地を整えられたことになる。
これまでは凍死の危険性があって、カイトと離れて眠ることが出来なかった――凍えるがくぽのために、カイトは冬の間ずっと、普通は冷たい自分の体をあたためておいてくれたのだ。
おそらく春や夏なら、その体のあたたかさに劣情が煽られて仕様がなかっただろう。
しかし幸いと言おうか、皮肉にもと言おうか――
生死に関わる問題のせいで、ここ最近、カイトを抱いて寝ていても不埒な気持ちになり辛かった。
北の寒さは、がくぽの想像を超えていた。
漫然と窓だけは塞いでおいたが、それだけでどうにかなる問題ではなかった。
隙間風に晒されていると、何枚布団を重ねようとも凍える。火の気もない部屋は、外となんら変わりない――いや、かえって悪いほどに寒かった。
常に暖気をまとわせるカイトが同じ布団にいなければ、がくぽはとっくの昔に凍死していただろう。幾重にも重ねた布団の中で。
笑い話にもならない。
竈の修繕とともに寝間の修繕も行い、備え付けの暖炉も使えるようにした。
薪の量に少々の不安はあれ、春も兆した。
なんとかなるだろうと目処もついたところで、がくぽはカイトに切り出した。
別々に寝よう、と。
暖かくなるということは、とりもなおさず、体に余裕が戻るということだ。そうでなくとも、春の気配は人間を開放的に、放埓にする。
これまで寒さに誤魔化していた情動も、容易く緒を切らせるだろう。
共寝を続ければ、早晩、カイトの体を我慢出来なくなる。
冬に入る前には栄養不足で耐えていたが、今はそれも解消された。
そのうえ今日、思いもかけずに出会った刺客のせいで、カイトががくぽに掛けていた『軛』も外れた。
――カイトは『そういう』つもりで掛けていたわけではないが、確かに軛はがくぽの首を締め、体を押さえつける役目を果たしていたのだ。
それがなくなり、さらに絶望的な話で、北の森に来てからというもの、がくぽはすっかり『ご無沙汰』だった。
それこそ自分で慰めることすら、だ。
一般人より旺盛になりがちなのが、剣士の性というものだ。
剣の稽古とともに鍛えられた精神力でどうにか耐えてきたが、人間には限度というものがある。
そうそう持たない。
ゆえに、寝台を分ける。
離れて寝れば、そのぬくもりや香りに心くすぐられ、悪戯を起こす心配もない。
部屋まで分けては不安が大きいから同じ部屋としても、せめても寝る場所を離すだけで、自分という存在からカイトを守るうえで、重要な砦となる。
「………がくぽ」
カイトはゆらゆらと瞳を揺らして、突然としか思えないがくぽの申し出に動揺を露わにする。
今日もいつものように、抱き合って眠ろうとしたところだった。
寝台へと先に入ったカイトを追うことなく、別に布団を持ったがくぽは、唐突にそう切り出したのだ。
別々で寝ましょう、と。
そもそもがくぽが来るまでは、野辺にひとりきりで寝ていたカイトだ。ひとり寝が出来ないわけではない。
それでもカイトはひどく動揺して、がくぽへ手を伸ばした。
向かい合っているのに、傍にいない。
ぬくもりを分け合う位置にいるはずなのに、想いが届かない。
そんな、もどかしい感覚がある。
「………なんで……」
「………」
きゅっと着物を掴んで訊かれ、がくぽは束の間言葉に詰まった。言い訳を考えていなかったわけではない。そのしぐさがあまりに愛しくて、見惚れたのだ。
「………がくぽ」
「………私は、剣士です」
焦れたカイトが声を上げて、がくぽはようやく言葉を発した。
ゆっくりとやわらかに、出来る限りカイトを傷つけず、拒絶する言葉を探す――それも、確実に伝わるように、平易な言葉で。
「イクサに生きる、剣士でした。………寝台をともにしている者がいると、安眠出来ない性質なのです」
「………」
実際のところは、少し違う。
寝台を共にしていると、ではない。
同じ部屋に他人がいるだけで、がくぽの神経は常に尖っていた。イクサにおいて安眠は有り得ないし、そこで過ごす時間が長い分、浅い眠りは習性づいていると言ってもいい。
浅い眠りであるうえに、気配に敏い性質だ。
同じ部屋に他人がいて動き回れば、尖った神経はすぐに目を覚ます。
――だからといって、カイトが傍にいることが気に障るわけではない。
情動に悩まされてさえいなければ、カイトの香りも体温もひどく心地よく、これまで経験したことがないほどの安眠に誘われる。
そうだとしても――
「………がくぽ、よく、………ねむれない、の?」
静かにしずかに落ちた問いに、がくぽは束の間、くちびるを空転させた。
わずかな沈黙。
じっと見つめてくるカイトに、がくぽは微笑んだ。
「…………はい」
「………」
カイトは瞳を揺らしてがくぽを見つめ続け、がくぽもまた、決然とカイトを見返した。
やがて。
「……………………わかった」
ささやくようにつぶやき、カイトはがくぽの着物から指を外した。
聞き分けてもらえたことに安堵しながらも、がくぽは胸を苛む罪悪感にくちびるを歪めた。
懸命に笑みの形を保つが、震える。
今すぐ抱きしめてやりたかった。そんなことが望まれていようがいまいが、関係なく。
ともに寝るわけにはいかなくても、せめて抱きしめてやりたかった。
「………っ」
抱きしめればきっと、堪えが利かない。
肩に顔を埋めたなら、その香りを胸いっぱいに吸ったなら、我慢出来る自信がない。
悄然と俯くカイトを前に微動だに出来ず、がくぽは己を唆す情動と必死で戦っていた。