キヨテルを追い払い、少しばかり煮詰め過ぎた鍋をそれでもすべて掻きこんで、がくぽは気まずく視線を傍らに投げる。
カイトが、ご機嫌斜めだ。
しょちぴるり
第2部-第12話
キヨテルが来た後のカイトは、大抵ご機嫌斜めとなる。
人間ともなれば無条件に受け入れてしまうのかと、微妙な危惧があったカイトだが、どうやらきちんと好き嫌いはしてくれるらしい。
安堵しつつも、機嫌の悪いカイトなど滅多にないため、がくぽは対処に困る。
来るなと言ってもキヨテルは来るし、ならば仕留めようにも、これがまた、手練れなのだ――正面切っての剣士相手の戦いなら、がくぽにも目算は立てられる。
しかし隠密衆相手ともなると、剣士とは戦い方が違い過ぎて、今ひとつ思い通りにいかない。
それこそ下っ端ならば、力と素早さに物言わせて圧倒することも可能なのだが、さすがに頭目格ともなると、手強い。
死ぬ気で仕合えばなんとかならないでもないだろうが、――おそらく、カイトが泣くような。
隠れてやろうにも、常に傍にいると誓った身でもあり、そうやって目を離した隙に、部下を送りこんでカイトを拐す作戦かもしれず、うかうかと身動きも取れない。
結果として、こうしてカイトの不機嫌は続いている。
「カイト殿。今日は、どこの野辺に行きますか?」
「……」
結局、気を逸らすための話題を振るしかないがくぽに、カイトは恨みがましい視線を投げた。
気まずく口を噤むがくぽに、カイトは俯く。
ふるりと一度、頭を振ると、顔を上げた。
あたたかな南の海を思わせる瞳が、なにか必死の色を浮かべてがくぽを見つめる。
「あ、のね………あのね、がくぽっ」
「はい」
身を乗り出されて、がくぽはわずかに仰け反った。
けれどあまり避けると、カイトがまた要らぬ誤解をして泣くかもしれないと思うので、あまり大きくは離れない。
そのがくぽへ、カイトはさらに身を乗り出す。
ほとんど膝に乗り上がるようにして、顔を覗きこんで来た。
「あの、ねっ。おれになにか、できること、ないっ?!」
「………カイト殿?」
あまりに唐突な申し出に、がくぽは切れ長の瞳を最大限に見開いた。
なにをどう考え、どう決着して、その提案に行きついたのだろう。
出来ることといえ、がくぽはこれまでも、カイトにいろいろと世話になった覚えしかない。
命を拾ってもらったことに始まり、動けない間の手当てに、世話に、面倒に――
しかも命に関しては一度のみならず、二度三度、いやすでに、数えきれないほど。
隠密衆の毒から救ってもらったこともあるが、冬の間、カイトが同衾してくれていなければ、がくぽは確実に凍死していた。
カイトが力の行使を躊躇わず、体をあたため続けてくれればこそ、今ここで、がくぽは春の気配を愉しんでいられる。
それ以前にも、栄養失調や睡眠不足で倒れかけるたびに、力を分けてくれて――
このうえがくぽに対してまだ、奉仕したいというのか。
恩義が積み重なりこそすれ、返せる宛ても立たないほどだというのに――
「がくぽ、おれになにか、してほしいこと、ない?それか、おれがなにか、がくぽのために、できることっ」
「………いえ、カイト殿……」
熱烈に要求されたが、がくぽは特に思いつくこともない。
だからそもそもが、カイトには常に与えてもらい、してもらうことばかりなのだ。
これほど甘やかされて尽くされて、過分さに溺れそうだと、自分を戒めても――なぜかカイトがさらに与えてしまう、日常。
これでまた強請れと言われても、正直な話、困る。
――困るのだが、カイトの瞳はなにか頑固な光を浮かべていて、がくぽが要求しない限りは引きそうにない。
しかも現在、がくぽにはカイトのご機嫌を損ねたという負い目もある。
自分がキヨテルをうまくあしらえないために、カイトには今後も、厭な思いをさせてしまうだろう。
ならば、我が儘を言えと求められるなら、我が儘を――
「…………っ」
成育環境というものがあり、性格というものがある。
東の人間はそうでなくても、猟奇的に忍耐を覚えさせられていると評判だ。我を抑え、内に仕舞いこみ、果てには我を忘れ多と成るのが、東の人間だと。
がくぽはさらに、その東の生まれでも、長子だった――どこの国でも長子というものは、格別厳しく育てられるものだが、東はことに。
剣士の家柄ともなれば、もはや言葉もないほど。
「………がくぽ」
「………っっ」
苦悶するがくぽを、カイトは潤んだ瞳で見つめる。
こぼれそうだと考えて、がくぽの焦りは募った。募ることで、思考の空転は勢いを増す。
「…………ごめ」
「カイト殿」
とうとう項垂れたカイトが、無闇な謝罪をくり出そうとしたところで、がくぽは声を上げた。
ぱっと顔を上げたカイトを、けれど直視することは出来ず、視線を逸らす。
「…………あなたが………女性ではない、ことは……、よくよく、理解して、いるのですが」
「……うん?」
カイトが身にまとうのは、肌の透ける薄絹だ。南の、放埓な踊り子が身に着けるような、淫奔な雰囲気がある。
――メイコが笑って言っていた。男を釣るための、餌だと。
そう言われて反感を覚えたが、カイトが南の出身かもしれないと思えば、そして楽しげにうたい踊る姿を見れば、それだけが理由での、この姿でもないと思う。
なによりメイコの、弟に対する屈折した愛情を思えば。
とはいえその姿ゆえに、女性ではないというのに、カイトは激しく男の劣情を煽る。
もしかしたら北の森へと逃れるまでに、それなりに嫌な思いをしたことも、あるかもしれず――
「……………あなたは、男で……」
「うん」
歯切れの悪いがくぽに、カイトは辛抱強く付き合う。
一度は引こうとした身を再度乗り出し、目を逸らすがくぽを真剣に見つめた。
「…………本来は、このような願いは、失礼だと………不躾で、不愉快だと、………心に仕舞っておくべきだと、わかっているのですが……」
「そんなの」
聞いてみなくちゃわからないと言うカイトに、がくぽは諦めのため息をついた。
逸らしていた視線を戻し、カイトとしっかり目を合わせる。
いつも頼もしくカイトを見守る瞳が、迷い怯えて、ひどく弱々しく揺らいでいた。
「………」
言葉を失くして見入るカイトに、がくぽはくちびるを開いた。
「――口づけを、………赦して、いただけませんか」
「…………………」
見入るあまりに、言葉が聞き取れなかったのかと思った。
きょとんとして瞳を瞬かせるだけのカイトから、がくぽは項垂れて視線を外す。
「――一度きりです。あなたを女性として、扱うわけではありません。…………ですが」
「え…………ぁ。……うん………」
反射で頷いたカイトは、がくぽから身を引いて、へたりと座りこむ。
呆然と瞳を見開くカイトの今の返事が、単に相槌を打っただけで、了承の意味ではないとわかっている。ために、がくぽが即座に手を伸ばしてくることはなかった。
なかったが、しかし。
まさか、そんなことを強請られるとは思わなかった。
カイトががくぽに無茶を言ったのは、キヨテルが来たことで味わった疎外感を晴らすためだ。
あまりに仲が良く見えるキヨテルとのやりとりに、焦りが募って――なんとかして、がくぽの心を自分に捕まえておきたいと、思った。
そのために、なにか、がくぽの気を惹こうと。
神であるカイトにとって可能な手段は、願いを叶えること。
もっとも手近で、もっとも容易く、もっとも効果的。
どんな願いを言われようとも、必ず叶えるつもりだった。そこで我が儘を止めろと願われたなら、今度こそ、いい子に聞き分けようとも覚悟していた。
がくぽが自分の傍にいて、自分をいちばんにしてくれていることが、なにより重要なことなのだ。
幼馴染みだというキヨテルとの間に流れる空気はあまりに気安くて、カイトにはまったく割りこめないから――せめて、今のがくぽとの間に、強固なものを築いておきたかった。
だから、願えと。
――それこそ、最大の我が儘だったのに。
「…………」
「…………」
カイトもがくぽも俯いて黙りこみ、無為に時間を流した。
カイトはそっと、がくぽを窺う――がくぽのくちびるなら、何度も触れた。神気を送るために。あるいは看病のときに、水や食べ物をやるために。
けれどそうではなくて、がくぽから触れられたこともある。
一度目は、メイコから助けられた。
そして二度目は、自壊を願う自分の心から――
いつでも、カイトを救うために与えられた、がくぽのくちびる。
灼けつく熱さと、痛みと、苦しさと――言葉にしきれない思いを体に流しこみ、カイトの身も心も蕩かしてしまう、がくぽからの口づけ。
「………っ」
カイトはふるりと震えた。
その震えを視界の端に止めて、がくぽは慌てて顔を上げる。
「カイト殿、無理にとは」
「ううん」
ほんのりと頬を染めて、カイトは上目遣いでがくぽを見つめた。
「――いいよ、それくらい。がくぽがしたいんだったら、一度なんて言わずに、何度でも………」
「………っ」
吐き出された声は殊更に甘く、がくぽは瞳を見開いて固まった。
そのがくぽを正視していられず、カイトは耳まで赤く染めたまま、俯く。
大人しく待つ姿勢に、言い出したがくぽのほうが慌てた。
思考の空転の産物だ。勢いを増した空転ほど、ろくなことはない。
思わず言ってしまったが、カイトが了承するとは――いや、ある程度、予想の出来たことではあった。
願われたなら、叶えるのが神だ。
なにより今は、カイトから願えと言った。
相応の覚悟があるということで、だとしたら多少の無茶な願いも聞くだろうと。
「…………」
「…………」
まだ寒いとはいえ、春の空気は冬とはまったく違う、やわらかさを持っている。
その空気を緊張で漲らせて、がくぽはカイトと相対した。
叶えてくれと言って、叶えると頷いてくれた。
ならばここに至って、前言を撤回するようなことは、かえって事をこじらせる。
腹を据わらせ、がくぽは居住まいを正す。
カイトのほうもまた、がくぽが漲らせる緊張に釣られたかのように体を強張らせ、ますます俯いて膝の上に置いた拳を固めた。
かわいそうな。
思いながらも、がくぽは手を伸ばした。
握られたカイトの拳を取ると、やわらかに撫でて開かせる。
顔を伏せると、恭しく持ち上げたそこに、くちびるを落とした。
「――え?」
手のひらに触れた熱に、カイトは瞳を見開く。
固まったカイトから顔を上げ、がくぽは気まずく視線を逸らした。
「――すみません。このような、願い………」
「…………………え?」
固まったまま、カイトは瞳を瞬かせる。
手を膝の上に戻したがくぽは、ひたすらに気まずそうだ。居住まいを正したうえで俯いて小さくなった姿は、親からのお叱りを待つ子供のようにも見える。
「あなたが、女性ではないと………姫ではないのですから、このような誓われ方をされても、うれしくなどないということは、十分にわかっているのですが………どうしても」
「…………………………………………」
意を決して顔を上げ、ひたすらに呆然とするカイトと目を合わせると、がくぽは真摯に告げた。
「――なにあろうとも、私は必ずあなたをお守りします。あなたの身も心も、すべて。ですからどうかいつまでも、私をあなたの一の剣士でいさせてください」
「………………………………………………………………」
東の剣士にとって、これ以上はない、もはや求婚と言っても差支えのない誓いだった。
しかしもちろん、東の人間に詳しくないカイトにわかろうはずもない。
自分がした誤解が恥ずかしく、そして思いきり気も抜けて、へたへたとうずくまった。
「カイト殿っ?!」
「……………っっ」
慌てて呼ぶがくぽに応えることも出来ず、カイトはしばらくの間、頭を抱えて小さく丸くなっていた。