しょちぴるり
第3部-第8話
ふと目を覚まし、がくぽは眉をひそめた。
暗い。
室内は閉じられているから、朝になったところで暗いことに変わりはない。けれど、塞いだ窓のわずかな隙間から、光が漏れ入ってくる。
全体の空気の軽さも違う。たとえ閉ざされても監獄ではない以上、暗闇でも朝か夜かの区別はつく。
それで言うと、今のこの暗さは、夜のものだった。
「………」
傍らに眠る体を抱く腕に力を込め、がくぽは不機嫌に瞳を尖らせる。
カイトの寝息は穏やかで、静かだ。
欲情が募って寝苦しいことはあったが、基本的にカイトを抱いていると、これまでなかったほどに快適に熟眠できる。
剣士としての己の感覚に危惧を抱くほど、その眠りは健やかで深い。
だからこれまで、眠りこんで途中で目を覚ますようなことはそうそうなかった。
「…………ちっ」
神経の昂りに、がくぽは小さく舌を鳴らす。
カイトと寝ることは幸福ではあっても、一抹の不安があった。
あまりに心地よく寝入ってしまうために、一事あっても腑抜けて起きられないのではないかという。
しかし幸か不幸か今、無用の心配だったということが判明した。
目が覚めたのは、異変を感じたからだ。穏やかならぬことの予兆に、神経が昂り、目を覚まさせた。
なにとは、明確に言えない。
言えるのは、なにかしら、不穏な気配――
「………」
がくぽは腕の中に抱きしめたカイトを見やり、そのこめかみにそっとくちびるを落とした。
離れれば、起きる可能性もある。
とはいえ、カイトを抱いて寝たままで対処できる異変かどうかも、わからない。
「ん………」
触れたがくぽのくちびるがくすぐったかったのか、カイトは小さく身じろいで、仄かな呻きを上げた。
わずかに笑みを刷いて、がくぽは暗闇に沈むカイトの輪郭を眺める。
守るべきもの――守りたい相手。
守るための、感覚が鈍っていなかった安堵。
「少々、離れます」
「………すぅ」
ささやきに、応えたのは寝息だ。
がくぽはカイトの髪を梳き、体を起こした。瞬間的に縋られたが、その手もやさしくもぎ離す。
まずは寝台の上で座ったまま、不穏な気配の出所を探った。
「………?」
わからない。
感覚は不穏を訴えるのだが、出所が掴めない。
どういうことだと眉をひそめて考え、がくぽは暗闇に沈む部屋の中を見回した。
人間の目には限界がある。暖炉の熾火もますます小さく、いくら闇に馴れた目でも輪郭すら覚束ない。
「………す……ふ…」
呼吸法をくり返し、がくぽは未だ寝惚けたところのある神経を研ぎ澄ませていく。
異変があるのは、間違いない。
感覚が、ちがうと叫ぶ。
なにが違うのか明確には言わないものの、ちがう、と。
ちがうちがうちがうちがうちがう……………――
「………っ」
研ぎ澄ませれば澄ませるほど、神経を掻き毟られて狂いそうになるような感覚がある。
これ以上気配を探ることは危険だと判断し、がくぽは再び呼吸法をくり返して感覚を閉じた。
ここまで、どうしようもない気配に遭遇したことはない。
探るだけで気が狂いそうになるほどの、違和感など。
「つ………」
未だに引きつれるような気がする神経に額を押さえながら、がくぽは小さくため息をこぼした。
仕方がない――気は進まないが、寝室にいたまま対処できる類の問題ではないらしい。
一度、横たわったままぐっすりと寝入っているカイトに目を落とす。
輪郭を掴むことも難しいが、届く寝息は健やかで穏やかだ。異変を感じている様子はない。
そもそもイクサ馴れしていないカイトの危険察知能力がどれほどのものなのか、がくぽにはよくわかっていないが――
「………すぐ、戻ります」
頭を撫でてささやくと、がくぽは寝台から下りた。立てかけておいた剣を掴むと、放り出していた着物に袖を通す。
暗闇で、物が見えているわけではない。
けれど記憶はしている。どんなに理性を飛ばしているように見えても、相手に溺れているようでも、がくぽは常に観察し、記憶する。
記憶し、その記憶だけで距離を正確に測り、まるで見えているかのように行動する。
ましてや、剣がすぐに掴めないなどという無様なことだけは、決してない。
たとえ着物が正確に掴めなくても、剣だけは確実に。
「………ふん」
簡単に身支度を整え、がくぽはわずかに笑った。
イクサに生きて長いがくぽだから必要に迫られて身に着けた技だが、本来的にこういうことの上手は、隠密衆のほうだ。
夜陰に乗じて動くことの多い隠密衆は、視覚をあてにしない。平面の地図を頭に入れただけで、あとは目を瞑って、すべて行動してみせることも出来る。
そのせいで被った幼馴染みからの嫌がらせの数々を思い返し、がくぽのくちびるは歪んだ。
恩に着たくないが、いくらイクサに長かったとはいえ、剣士であるがくぽがこうまで闇に特化した動きを身に着け、隠密衆と互角以上に渡り合えるのは、迷惑以外のなにものでもない幼馴染みとの付き合いゆえだ。
――助け合い、研鑽し共に高め合える、良き友人となりなさい。
両家の親が事あるごとに口をすっぱくして子供たちに言い聞かせたが、当の本人たちは互いに相性が最悪だと、決して友人になどなれないと見極めていた。
その考えに、今も異論はない。
友人になど、とても無理だ。
知人すら、無理だ。
無理だが――今、己がここにこうして在り、そしてここまで至ったのは、なによりも、その幼馴染みと仕合う日々があったからこそだ。
もうひとつ言うなら今、幼馴染みが若くして隠密衆の頭目格を任されているのも、がくぽという一級の剣士と仕合い続け、剣士というものの手の内を誰よりもよく知ればこそだ。
形こそ多少歪ツであっても、がくぽとキヨテルは親に言われた通り、互いに助け合い、研鑽し、共に高め合った――とは、言える。
「………っ」
寒さのせいではなく、がくぽはぶるりと震えた。
そんなことを認めるのは、未だに激しく抵抗がある。悪寒以外のなにものでもない。
それでも、事実は事実。
「………す…」
束の間乱れた自分の思考と気配を、がくぽは呼吸を整えることで落ち着けた。そのまま再び尖らせて、臨戦態勢へと持って行く。
「………」
暗闇に、目を凝らしても仕方がない。
それでもがくぽは瞳を見開き、辺りを見回した。
映るのは、暗闇。
そこに浮かぶ、輪郭。
記憶と気配とで視覚を補い、がくぽの頭には部屋の景色が昼間と同じように描き出される。違うのは、色がないこと。それだけだ。
「………」
その状態で、がくぽはそっと歩き出した。
戸口で一度だけ寝台を振り返る。カイトの寝息とともに、研ぎ澄まされた視覚はその輪郭を映し出した。
すぐ戻ると、言葉を落としたせいだろう。がくぽのぬくもりが離れても、カイトが目を覚ます気配はない。
以前、なにも言わずに小用に立とうとしたら、熟睡していたと思ったカイトはすぐさま目を覚ました。どこにいくのと不安げに訊かれて、ひどく気まずい思いをしたことがある。
「………」
寝台の周囲の気配を探って、異変の出所がそこではないことだけ確認し、がくぽは部屋を出た。
廊下を歩き、部屋を見回っていく。探れば探るほど、神経が掻き毟られ、無闇と疲弊が募っていった。
感覚が叫ぶのは、ひたすらに『ちがう』の一事だ。
なにが違うのかと問うてみても、ただただ、『ちがう』と。
これまで、こんなことはなかった。異変があると気がつき、感覚を研ぎ澄ませれば、『答え』が必ずあった。
敵意を持ったものが、傍にいる、と。
あるいは、不穏な目的を持ったものが、近辺をうろついている、など。
自分に向かうものか、仇なすものか、さもなければ無関係か。
問えば明確に答えが返るのも、気配を読むということだった。
まずは、なにかが『違う』と気がつく。その『違う』を探ることで、『なにが』違うかを明確化する。
それが、感覚が訴える『違う』というものであり――ひたすらに、狂ったように叫ばれる『ちがう』など、経験がない。
そう、狂ったように、だ。
神経が掻き毟られ、呼吸が圧され、眼球がひっくり返りそうになる。
不快。
意識して呼吸法をくり返して気を鎮めているが、ともすれば足が止まりそうになる。剣を抜いて、無闇と振り回しそうになる。
「………っ」
すべての部屋を見回っても、異変らしい異変は見つけられなかった。
なにもかもが夜の闇に、しんと寝静まっている。
だが依然として、がくぽの頭の中では激しい警告が轟き渡っていた。
ちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう……………………――
「……っっくそっ!」
堪えきれずに苦鳴を漏らし、がくぽは一度、石壁に凭れた。
引きちぎるように髪ごと頭を掴み、くちびるを噛む。
春ではあっても、夜は冷える。夏場であっても、布団を重ねて眠れるような場所だ。
凭れた石壁の冷たさは殊更で、その冷たさに縋って、がくぽは乱れる呼吸を整えた。
呼吸だけは、なにあっても乱すなと、教え込まれた。
おそらく剣の稽古と同じかそれ以上に、呼吸法の鍛錬を受けさせられたはずだ。
剣がいかに上手く速く揮えても、呼吸が乱れればすべてが意味を失くす。
生きることに直結する行動ゆえに、なによりも――
「…………す、ふ……す、ふ………っ」
呼吸法を仕込んだ師匠の顔を脳裏に蘇らせ、がくぽは息をすることだけに意識を集中させた。
気配を忍ばせることも、体から常以上の力を引き出すことも、精神を乱すも鎮めるも、すべての初めに呼吸がある。
呼吸を制することが、なによりも強くなる早道で近道だと。
「……………」
がくぽは口元に手をやり、小さく笑った。
手に当たる、呼気。
瞳を閉じると、涙が浮かんでいたことがわかった。掻き毟られ、狂いを強いられる神経の痛みゆえだ。
閉じたまま、鼻を蠢かせる。
探る、気配――すぐに感じるのは、胸が透くのに甘い、薄荷の香り。
呼吸法をくり返しながら、がくぽはそこに意識を向かわせた。
甘いあまい――郷愁と、切ない思い出と。
「…………っふ」
胸に兆した痛みは、叶えられなかった子供の願い。
叶えて欲しいと、請うことすら出来なかった、幼い心。
笑って、がくぽは石壁から身を起こした。
再び気配を探りながら、寝室へと戻る。感覚が叫ぶのは、相変わらず『ちがう』の一事。
鼻の奥に薄荷の香りを常に残し、がくぽは歩きながら額に手をやった。
おそらく、いつもと同じやり方で考えていることが、まず間違いなのだ。
ここが人間の世界ならともかく、北の森――神棲まう、最後の安息地。
人間の常識では、図りきれない。
異変は、有る。
必ず。
けれど――
「………っ」
寝室に入ったところで、がくぽは瞳を見張った。
まさか、失念していた。
いちばんに思い浮かんでもよさそうな可能性だというのに、掻き毟られる神経に耐えるのが精いっぱいで、思い及ばなかった。
しかし考えてみれば、いちばん妥当で、もっともな。
こうまで掻き毟られる、神経。
『ちがう』と叫ぶ、心。
そう、『ちがう』のだ。
彼らは――
異端。
異端ゆえに、世界から弾き出された、なにもかもが異質な存在。
メイコの存在を『焼け跡の臭い』とし、冥界の女王たるミクの存在を『寒気』とし、対と成る存在のルカを『暖気』とした。
カイトのことは、胸が透くのに甘く満たす、薄荷の香りとして――
体液を啜ったことで読み取れるようになった神の気配は、人間の気配と同様ではなく、なにかしらの感覚を刺激するものとして、がくぽに存在を示す。
おそらく検知したならそれとわかるだろうと、具体的なものをなにも思い描くことなく、無闇と彼らを探っていたが――
感覚に直すならそれは、『ちがう』の一事に尽きるだろう。
「………」
息を呑むがくぽの目の前で、寝台の傍に立った後ろ姿は、奇妙に薄れて揺らいでいた。
輪郭ではなく、姿がつぶさにわかるのは、仄かな光を纏っているからだ。
まさに、幻遥として。
いつもの通り、北の地方の子供独特の、男女の別がつき難い貫頭衣を身に着けている。髪の長さが変わったというふうでもない。
いつもの通り――
けれど姿が異様に、透けて儚い。
見ているものは幻だと、幽玄のものだと、言われたならそうと信じてしまいそうなほどに。
一ツ体に、双ツ心と双ツ性と双ツ頭を持つ、異端の子供神。
異端であるがゆえに、神の総意を持って世界から、時系から弾き出された――『ちがう』存在。
少年神レンと、少女神リン。
その双ツであって一ツである神が、寝台の傍に立っていた。