しょちぴるり
第3部-第11話
「いーやーあ。旺盛だねえ。ノロケられてんの、ボク?」
膝を抱えて座りこんで惚けた声を上げるミクに、がくぽは滅多になく苛々と歯を軋らせた。
相手は神だ。
それも、冥府を司る女王だ。
無礼があってはならないとは思うが、それとこれとは別のところで、苛立つ。
それでも一瞬の歯軋りで苛立ちを押さえこむと、がくぽは身を乗り出した。
「それで、ミク殿。わかりませんか、原因が」
「んー?」
問われて、ミクはのんびりと首を傾げる。
「ぅうう………っ」
その答えを待つ間に、堪えきれず、目の前にへちゃんと座りこむ相手から呻きがこぼれた。
これ以上なく肌を赤く染めた、カイトだ。
がくぽ自身の食事もそこそこに、強引に連れ出された森の中。
カイトの意思を問うこともなく、抱えて運ばれたのが、森の一隅に佇んでいたミクのところだった。がくぽ曰く、いちばん手近にいたからだとか。
そして、いつもどおりの薄絹と肌隠しのための着物で覆った体の、着物だけが肌蹴られて、ミクへと晒す羽目になった。
体――というか、見せたいのは、腹だが。
カイトの腹に生まれた赤い痣の正体を、知らないか、と。
しかしもちろん、肌蹴られたのは上半身すべてだ。
薄絹こそまとっているが、それは肌の様子をかえって扇情的に浮かび上がらせる。
着物に隠されていたカイトの肌に散る情交痕は隠しようもなく、そもそも痣の周囲にも、痣の上にすら、ある。
旺盛だね、と。
ミクが揶揄したくなるのも、当然だ。
カイトにしても、がくぽが心配してくれているのは、わかる。
わかるが――
恥ずかしい。
このうえなく、恥ずかしい。
羞恥のあまりに瞳を潤ませるカイトをちらりと見て、ミクは頷いた。
「やっば。押し倒しそう」
「………」
「が、がくぽっ」
「余裕ないな、人間……」
かちりと響いた鐔を反す音に、カイトは慌ててがくぽに取り縋り、ミクは呆れたようにつぶやいた。
冥府の女王であるミクは、触れたものの生気を奪う。
なによりもそれを厭うのがミク自身で、だから自分から他の神に触れるようなことはしない。がくぽにも、出会った最初こそ嫌がらせのために触れたが、以降、触れようとはしない。
ましてや、自分と対岸に位置する『いのちのうた』をうたうカイトのことは、神でありながらさらに、神聖視している節がある。決して触れないよう、他の誰に対してより、神経を尖らせているのだ。
ゆえにその言葉が、単なる遊びだとわかってはいるが――流せる冗談と、流せない冗談というものは、どうしても存在する。
「………それで…」
がくぽはどうにかこうにか柄から手を離し、低く這う声で再度訊いた。
妙に幼い様子で膝を抱えてしゃがみこんでいるミクは、無邪気なしぐさで首を傾げる。
「わかんない」
「……」
「っわ、がくぽっ?!」
「こら待て、人間。どうしてキミらはそう、せっかちだ」
答えを訊いた瞬間にカイトを抱き上げ、次を当たり行こうとしたがくぽに、ミクはうんざりしたように手を振る。
カイトを抱き上げたまま見下ろしてくる不遜な人間に、ちょっと座りなさいと示した。
神だ。
冥府の女王。
いくら焦っていようとも、礼を失するわけにもいかない。
がくぽは渋々と、カイトを抱えたまま腰を下ろした。
「よしよし、いいこだねー。特典として、キミが冥府に来たときには、十年ほど刑期を負けてあげよう」
「ミクっ!!」
素直に座り直したがくぽに、ミクはご機嫌な顔で不吉な特典を約束してくれる。
がくぽは眉をひそめただけだが、カイトのほうは青くなって叫んだ。
冥府に行くということは、とりもなおさず、がくぽが死ぬということ――
未だに、その事象が考えられないのだ。
責める響きに、ミクは生真面目な表情になると、こっくりと頷いた。
「うんまあ、十年くらい負けたとこで、大差ないとは思うんだよね、量刑としては」
「ミクっっ!!!」
「そんなところでしょう」
もはや絶叫するに等しいカイトを抱きしめ、がくぽのほうは冷静につぶやく。
自分がこれまで殺してきたもの、奪ってきた命、犯した罪業の数々を考えれば、十年という刑期は雀の涙にも満たない。
「まあなんだね、人間。自棄を起こさなくても、そうやって特典を積み重ねれば、もうちょっと」
「要りません。自棄も起こしていません」
「がくぽっっ!!」
カイトの声はすでに、咽喉も裂けよとばかりになっていた。
さすがに耳に痛みを覚え、さらに言うと、これ以上カイトの心労を増やすことに加担も出来ない。
がくぽは真面目なのか不真面目なのかわからない表情のミクを、嘆願とともに見やった。
「それで……」
「わるいものじゃ、ないと思うんだよ」
ミクのほうもこれ以上、カイトを虐めたい気持ちはないようだ。付け加えて言うと、彼女としては虐めているつもりはない。出来る最大限の好意を見せたつもりだ。
それでもあっさりと話題の転換に乗ると、ミクはがくぽの膝に抱えられるカイトへ手を伸ばした。
いつもの通りに触れることはなく、ただ、腹に刻まれた赤い痣を間近で指差す。
「ボクって結局、冥府の女王でしょ?わるいものとか、わるいこととか、たぶん今、森にいる神の中で、いちばん敏感なんだけど。これ見てても、わるい感じは受けない」
「………では」
「いいものとも、言い切らない」
「………」
ある意味賢明な言葉だが、がくぽはくちびるを噛んだ。
『悪くない』が、『良い』と等しいとは限らない。
悪くない、だけのこともある。
「わるくないなら、いいんじゃない?」
異常を感じるわけでもなく、秘め事を晒されてひたすらに恥ずかしいだけのカイトは、そこまで考えることはない。
自分を膝に抱えて、難しい顔を晒しているがくぽを振り仰ぎ、もう隠したいと、視線で訴えた。
もちろん、懸念から焦っているがくぽはカイトの訴えを無視し、ミクへと身を乗り出す。
「では、もう少しこれの診断が正確に出来る方は」
「えー?むつかしいこと言うなあ、人間……医の神が身罷って、もう結構経つんだよー」
「………っ」
くちびるを引き結んだがくぽに、しかしミクのほうも、くちびるを歪めた。
しばらく首を捻って、カイトの腹を眺める。
「………それに、ボク………これ、しってる………?しってる……………はず……?」
「………ミク殿?」
古き神と呼ばれるカイトやメイコと違い、新しき神と呼ばれるミクの言葉は、常に明瞭だ。
それが今は、言葉を覚えたての子供のように、覚束ない舌遣いで、もつれるようにつぶやいていた。
見つめるがくぽに、ミクは痣を差していた指を戻し、頭を抱える。
「みた………こと、ある………………ちがう、みた………ちがう、しってる…………しってるんだ………しって………みてない、しって…………」
「ミク殿?」
「ミク?」
いつになく惑乱した様子に、がくぽも気忙しげな声を上げたが、さすがにカイトも案じる声になった。
相変わらず体が晒されていて恥ずかしいが、付き合いの長い分、異常さが際立って身に迫る。
カイトはがくぽの膝の上から身を乗り出し、頭を抱えて惑乱するミクへと手を伸ばした。
その途端、なにかが切れたように、ミクははっと顔を上げる。
「さわんないで」
「っ」
伸ばした手をさっと避けられて、カイトは微妙な表情となり、がくぽもまた、ミクからわずかに瞳を逸らした。
生気を奪う自分を厭うのは、まずいちばんに、本人だ。
周囲の神たちは、ミクほどに気にしていない。彼女が嫌がることがわかっているので控えてはいるが、本来的には恐れてもいないように思える。
けれどいちばんに、本人が駄目なのだ。
「………えっと」
「ごめん、カイト。ボク、思い出せないや」
「え、うん………」
どうしたらいいかわからない手をふらつかせるカイトに、ミクは苦しい顔で笑った。
頷いて、カイトは手を引く。戻った手は、きゅっとがくぽの着物を掴んだ。
その手をそっと叩いて握りこみ、がくぽは笑うミクを見る。
「では……」
「『身罷った』ってことは、ボクの領土にいるってことだよ。気になるんでしょ?会って訊いてくるよ」
「………それは」
ミクは冥府の女王――死者の国の支配者だ。
人間も受け入れるが、神も死ねば受け入れる。その構図は、奇妙さを持ってはいるが。
なんと言えばいいかわからずに口ごもったがくぽに、ミクはいつも通りの食えない表情で笑った。
「とはいえ、冥府ってとこは、ちょっとフクザツでね。いくら女王たるボクとはいえ、はいすぐに、とはいかない。ちょっと時間掛かるよ」
「どのくらい」
端的に必要を訊いたがくぽに、ミクは肩を竦めた。
「さあ?運次第」
「………」
心もとないが、打てる手はすべて打っておいたほうがいい。
一瞬眉をひそめたがくぽだが、すぐに頭を下げた。
「お願いします」
「おお、素直。いいこだねー。じゃあ、特典として」
「ミク!!!」
珍しくも先を予測したカイトが、絶叫する。
ミクは笑いながら、立ち上がった。
ふいと、森の木のひとつを指差す。
「しかしまあ、今のとこはたぶん、ルカに訊くのが最良の策かな。なにしろ、『不浄を喰らう神』でもあるからね。わるいものなら、『喰らって』貰えばいいよ」
「ミク殿」
なにか言いかけるがくぽに手を振り、ミクは身を翻す。
指差した木の元に行くと、その幹に潜りこんだ。幹だ。堅く、本来は穴でも開けなければなにを受け入れることもない。
しかしミクは融けるように幹に潜り、入れ替わるようにルカが出てきた。
「………何事ですの?このような呼ばれ方」
説明することもなく、本当に入れ替わりとなったルカのほうは、わずかに呆然として、出てきた木を見つめる。
それから、座ったまま対処に困っているがくぽと、その膝の上に乗せられたカイトを。
聡い彼女には、それであらかたの事情が呑みこめたらしい。
小さくため息をつくと、ミクが消えた幹を束の間眺めてから、座りこんだまま迷う瞳を向ける相手へと顔を戻した。
とうに喪われたという母神のごとくに、慈愛深く微笑む。
「相変わらず仲睦まじくて、よろしいこと。あたくしに相談ごとがあるのでしょう?答えられる範囲のことなら、なんでも答えて差し上げるわ」