愛していると、言われた。
好きだから、体が欲しくて苦しいのです、と。
だからカイトは、望まれるまま、がくぽに体を開いた。
だから。
だから――
『だから』?
しょちぴるり
第3部-第15話
「好きです……………カイト殿。好きです、好きです……………」
カイトを寝台に座らせて、自分は床に膝をついた男は今は、項垂れきって力を失くし、腹に頭を抱きかかえられている。
くちびるはずっと、壊れたように同じ言葉をくり返し、その言葉に縋ってようやく、命の炎が保たれている状態だ。
どうしてそうなったのか、カイトにはわからない。
カイトの腹に、勝手に成長する花様の痣があると気がついたのが、今朝のこと。
理由を知らないと答えたカイトを抱え、がくぽは神の間を渡り歩き、訊いて回った。
わるいものか、いいものか――これはなにか、と。
結論は得られず、わからないがわるいものではない、とまとめられた。
カイトはそれでいいと思う。
不都合を感じていない。変調も来していない。
ただ、肌に文様が増えただけだ。
そうとしか思わないのに、がくぽは項垂れて――しばらく、体を繋ぐことを止めようと言い出した。
その文様の意味がわかるまで、なにも変調を来さないとはっきりするまで。
いつになるか知れないのに、触らないと、言い出した。
連日触れても触れても、すぐに盛り返したのが、がくぽだ。二日三日で済むことでも、体が辛いだろうとすぐにわかる。
わかるのに、しかも二日三日で済むとも言い切れないのに、触らない、と。
恐れる理由が、わからない。
カイトからすれば、圧倒的に脆く儚いのは人間であるがくぽのほうだ。
なにか無理をして、無茶をすれば、すぐに淡く消え去るのが、人間だ。
神を駆逐し、世界の覇権を握りながら――個々人の、あまりに早く喪われること。
唖然として、言葉もない。
恨むだろう、憎いだろうと言われても、そうとも思えないほど。
短く、あっという間に。
手のひらからこぼれていってしまうのが、人間。
世界からいなくなるのが、人間。
「カイト殿………カイト殿。好きです…………あなたが、あなただけが………好きです………好きです」
くり返される、言葉。
捧げられる、祈り。
難しい文節を理解できなくても、単純に与えられる言葉や祈りなら、そこからいくらでも思いを汲み取ってみせる。
それが、カイト――願い叶え、いのちを与える神。
途中まで難しい言葉で話していたがくぽは、カイトが腹に抱きこむともう、ひたすらに幼い告白をくり返すだけになった。
告白――祈りにも、似た。
願われているなら、掬い上げる。
祈られているなら、叶える。
抱きしめて懸命に探る言葉には、願いがある。祈りが、叶えて欲しいと望むものが。
カイトに、望むがまま、自由に生きてほしいと。
自分の願いを曲げることなく、想いを撓めることなく、行きたい道を行って欲しいと。
がくぽの願いのために生きるのではなく、カイトの願いのために――
その願いを叶えるために、傍に在らせて欲しい。
その幸福を支えるために、寄り添わせて欲しい。
「……………お、れの………おれの、ねがい…………しあ、わせ………は」
願い叶えること。
望まれること。
それが、神。
神であり、カイトというもの。
誰かの願い叶えること――がくぽの願い叶えることが、しあわせだ、と。
口に出そうとして、出せなかった。
願い叶える神でありながら、がくぽの願いを叶えるだけが、しあわせにはならない。
喘ぎながら、カイトは腹に抱くがくぽの頭をきつく締め上げた。
疼いている。
下腹が、炎に巻かれたように。
炎。
――心を奪われた最初は、炎だ。
熱風とともに巻き上がり、カイトまでもを包みこんで、燃え盛った。
轟と叫んだ、問われた。
――あなたの、のぞみは、なに。
そうだ、最初から、ずっと。
がくぽは、問うていた。カイトに、カイトの望みはなにか、と。
誰かの望みを反映する鏡ではなく、カイト自身としての望みはなにか、と。
これまで見ようともしなかった、有るとも思っていなかったそれは心の中に蟠ってあって、時として汚いとしか思えなかった。
がくぽが苦しんでいることがわかっていて、放つ我が儘。
がくぽを痛めつけていると知っていて、堪えきれない欲。
汚いと、嫌だと――
思いながらも、ついに一度も、我慢出来なかった。
願い叶えるのが、カイトだ。
願い叶えてもらうのが、カイトではない。
願えと言われて、望めと言われて、素直に聞くはずがない。言えるはずも、思いつくはずも。
なのに、心に強く沸き起こった。
巻き上がった、嵐。
吹き荒れ、翻弄し、今また乱している。
――いろが、すき。
問われると、答えた。
――きれいだったから。
嘘ではない。
がくぽが吹き上げた魂の色は、炎は、きれいだった。見たこともないほどに明るく、強く、美しく。
ひと目で、気に入った。
熱に蕩け崩れた体が、がくぽに繋がれることも許容した。
そう、すべては、好きだからだ。
好きだから――
「あ………あ?す……き?え………?すき……………すき、好き?」
好きだ。
がくぽが。
すべての願いを叶えたいと思うほど。
誰よりも傍にいて、誰よりも思われて、誰よりも。
「………ぁ」
カイトは、こくりと唾液を飲みこんだ。
なにが違うだろう。
野辺の草木の願いを叶えたいと思うのと。
なにが違うだろう。
走り泳ぐ、獣や魚の願いを叶えたいと思うのと。
なにが違うだろう。
性は違っても自分を受け入れ、自由を赦してくれていた同族たる神の願いを叶えたいと思うのと。
なにが違う。
なにが――
「ち、がう……………」
呆然とつぶやき、カイトは視線を下ろした。
腹に埋まって、がくぽがいる。いつもきれいに括り上げている長い髪は、無残に乱れている。着物こそきちんと着たが、髪を括るのは大雑把に済ませるほど、今日のがくぽは慌てていた。
不自由な生活のはずだが、怪我で寝込んでいるとき以外、がくぽは常に身形をきちんと整えていた。<精霊>に頼んでいるから平気だと言っても、自らの手で穢れを落とし、身を清めることを好んだ。
生活の場の掃除も怠らなかったし、使った道具の手入れも入念に行っていた。
今日のがくぽはそのすべてを放りだして、カイトのために奔走した。
がくぽの願いを叶えたい、なら。
カイトはいちばんに、自分のことを考えるべきだった。
その原因を探り、見つけるべきだった。
しなかった。
がくぽが自分のことを考えてくれるのが、うれしかったからだ。カイトのために一所懸命になり、ひたすらに思考を埋めていてくれるのが、うれしかった。
醜い。
汚い。
がくぽのことなど、なにも考えていない――
「…………っ」
眩みながら、カイトはがくぽの頭を撫でた。乱れた髪が、少しでもきれいになるように、次に起きたときに梳くのが、少しでも楽になるように。
異常はないかと問われて、ないと答えた。
なにも。
がくぽのことがほしくて、おなかがきゅうってなるだけ――
それがなにより、異常なことだった。
誰かを求め、欲し、手を伸ばすことが。
手を離せず、しがみつき、縋りつき、自分へと引き寄せることが。
願い叶える神は、自分の願いを持たない。
相反する願いが出てきたときに、叶えられないと、叶えることに苦渋を覚えるようでは、自身が成り立たないからだ。
持てる唯一の願いが、願いを叶えるということ。
願われたことを、叶えるということ。
訊いた。
――いきたい?
願うのか、と。
いきることを。
いきたい、と答えた。
答えて、望まれた。
――あなたが、のぞむまま、わたしは、いきたい。
――あなたは、わたしに、なにをのぞむ。
望め、と。
願え、叶える、と。
「…………………お、れの………ねが、い………」
望むこと。
持てないはずの願い。持てと願われた。
願われて、生まれた。
――盛り返し、体を取り巻いた、炎。
カイトの体の奥底に眠っていたものも諸共に、火を点け、燃え上がらせた。
冷たく沈んでいた想いが、動き出した、その瞬間。
「好きです、カイト殿」
腹に埋まって、男がくり返す。
まるで莫迦のように、阿呆のように。
こんなに静かに、素直に、言葉を落とされたことなどない。
常にいつでも、燃え盛って爛れる炎とともに。
「あなたが、好きです、カイト殿………」
線を引かれている、壁があると思っていた。
あなたは特別ですよとも言われて、それでもカイト以外の誰かとの気安い雰囲気が怖かった。
いちばんになりたい。
願いだと思った。
がくぽのいちばんになりたい。
いちばんに愛されて、いちばんに好きになってほしい。
望みだと思っていた。
「ちがう、ね…………がくぽ」
乱れた髪をきれいに梳いてやって、カイトは微笑んだ。
森を守る神獣は、それはそれは恐ろしく、醜い姿をしている。最初は言葉を濁していたがくぽだが、後になって告白した。
あまりに禍々しい姿ゆえ、悪獣と思いました、と。
悪獣と思ったゆえ、剣で斬りつけました、と。
けれどあれは神獣だし――なによりカイトは、あれが心に秘めている思いを知っている。
神に、森に注ぐ、深いふかい思いを知っている。
醜さに、恐ろしさに、鎧われて、隠されているもの――隠されて、ゆえにより強くなる思い願い。
がくぽに愛されたい。
愛されるためなら、なんでもする。
他人を蹴落とし、踏みつけることも。
がくぽ自身を欺くことすら。
汚くて、醜くて、嫌だった。
そんな願いも望みも、持ちたくなかった。
持ちたくないから、顔を背けた。
すきだよ、と。
言いながら、嫌悪していた。好きだという心を。そこから汚く醜い感情が生まれる。
がくぽを縛りつけ、痛めつける思いが。
きちんと、見ればよかったのだ。聞けばよかった。その訴えを、言葉を、奥に隠された真実を。
愛されたいのは、どうして?
なんでもするのは、どうして?
望まれたなら、叶えるのは、どうして――?
「……………がくぽ、あのね」
艶やかさを増したがくぽの髪へ、カイトは微笑むくちびるを落とした。どこもかしこも熱い、人間の体。
けれどそこだけは、神と同じに冷たい。
カイトはくちびるを落とし、頬を擦りつけて笑った。
「おれ、がくぽといっしょに、いきたい…………ずっとずっと、がくぽといっしょに、いきたい………」
生きたい。
行きたい。
逝きたい――
「おれ、ね………がくぽのこと、あいしてる………がくぽのことを、だれよりも、いちばんに…………あいしてる…………あいしてる、から」
どこまでも、いっしょに、いきたい。
それが、願い。
それが、答え。