春色を纏うルカは、森に住まう女ノ神の中でもっとも女性らしく、もっとも華やかな存在だ。
色彩もそうだが、身に纏う雰囲気が違う。
基本的には愛欲を司る神である、彼女だ。肌のすべてを布で厳重に覆い隠していても奔放さまでは隠せず、豊かな表情とも相俟って、非常に華やかな印象となる。
その彼女の色が、微妙にくすんで見えた。
しょちぴるり
第4部-第3話
「ミクが、出てきませんの……」
色だけでなく表情も冴えないまま、ルカはぽつんとつぶやいた。
「冥府に篭もったまま、ちっとも出てきませんの………」
「それは……」
森の中、大木の根元にひとり座っていたルカだ。
日課の散策の過程で見つけたカイトとがくぽが近づくと、すっかり意気消沈してくすんだ色となった彼女は、そう理由を説明した。
冥府の女王であるミクと愛欲を司る女ノ神であるルカとは、よく行動を共にしている。
ただしそれは、ミクが地上にいるときの話だ。
いくらルカが神で、ミクと仲が良くても、冥府には入れない。
死者の国である冥府と、生者の国である地上とを自由に行き来することが出来るのは、冥府の女王であるミクだけの特権なのだ。
以前に訊いたとき、ルカはそう説明してくれた。
――ミクが冥府に篭もってしまったら、会うことなど出来ませんわ。冥府は、あくまでも死者の領土。いかな神といえど、自由な行き来は出来ません。それが赦されているのは、女王たるミクだけです。
そのときもひとりきりだったルカは寂しそうに言ったが、すぐに悪戯っぽく瞳を輝かせ、ふふふと笑った。
――でもミクは、頻繁に会いに来てくれますの。なんだかんだ言って、寂しがり屋さんですのよ。だからあたくし、ちっとも寂しいことありませんの。だってあたくしが寂しいって思うより先に、ミクが寂しくなって、会いに来るんですもの。
がくぽは、そういうものかと思っただけだ。
自分ならば片時でも、カイトの傍を離れられないが――よしんば離れたとしても、一日と開かずに不安と寂しさで、音を上げそうだ。
そうとはいえ、神と人間の寿命はあまりに違う。
人間が寂しいと思う期間を、神の寿命と等価に照らし合わせれば、間隔としては同じなのかもしれない。
ところが、ルカが寂しくなるより前に寂しくなってしまうはずのミクが、ここしばらく冥府に篭もりきったまま、出て来ないのだという。
神は互いを仲間としても、そうそう深く交流を持たない性質だ。
会わないまま季節が過ぎることなど、あまりに当然――
季節は夏だ。北の夏は短く、他の地方の夏ほど暑いわけでもない。
それでも花は盛りと咲き誇り、地上は生命力に満ちて輝き躍動している。
その中でルカはひとり、先に秋を迎えたかのような色合いを帯びていた。髪の色も瞳の色も、華やかさを失ってすっかりとくすんでいる。
「どれくらい会ってないの、ルカ?」
たまごを腹に抱いたカイトに訊かれ、ルカはすんと鼻を鳴らした。伏せていた瞳を上げて、正面に座るカイトを見る。
カイトと、カイトを膝に抱いて、それとなくあやすように体を撫でているがくぽを。
二人ともごく心配そうな表情でルカに対しているが、べったり触れ合ったまま離れる様子もない。おそらく二人には、こうまでべったりくっついてじゃれ合っている意識が、すでにない。
寄り添うことも触れ合うこともあまりに当然で、いちいち意識を回すようなことではなくなっているのだ。
「十日ほどですわ」
「十日………」
ルカの答えにがくぽは意外さを覚え、つい、素直に瞳を見張ってしまった。
短い。
――と言えば、失礼だろう。ルカはこうまで消沈しているのだから。ましてやがくぽはと問われれば、カイトと離れて十日どころか三日と堪えられる気がしないのだ。
しかし以前に訊いて、なんとなく想像した『神が会わないでも平気な期間』と比べると、ひどく短い。
人間であるがくぽからすると、永遠と同じほどに生きるのが神だ。
人間が会わないで寂しさを感じる期間と、神のそれとを比べたなら、――
十日会わずにいて『寂しい』と消沈するなら、人間と同じだ。関係によっては人間よりなお、寂しがりだ。
「とーか………」
カイトがつぶやき、たまごをきゅっと抱いたまま上目で考え込んだ。
がくぽは考え込むカイトのこめかみにくちびるを落としてから、くすんだ色の女ノ神に向かって首を傾げてみせる。
「これまでに、こういったことは?」
「それは。………たまには、ありましたけど」
長い生だ。これが初めてということはないだろう。答えは当然だ。
ルカは顔を上げたものの言い淀み、くちびるをもごつかせた。
「………ありましたけど。最近は、全然………。こんなに長いこと、現れないなんて………」
おっとりしていても明瞭に話すのがルカだが、今は口ごもり、どもりつっかえながらようやくそう言う。
がくぽも困惑したままくちびるを引き結び、膝の上のカイトを見た。まだ上目で考え込んでいる。
その腕に、大事に大事に抱かれている、たまご。
ミクは恩人だ。非力なたまごを守る、これ以上ない祝福を与えてくれた。
案じている身にあまり不安を投げかけたくもないが、がくぽはこれまでにミクとの付き合いの経験が浅い。
ルカの相談に乗るにしても、判断材料が少な過ぎる。
「なにか冥府で問題が起こっていたとして――こちらから、それを察知する方法などは?」
「それは」
さっと強張ったルカの表情に、がくぽはやはり申し訳ない心地に駆られた。
反応を見れば、答えにされる前にわかる。
冥府の混乱を察知する方法はないか、もしくはないに等しいのだ。
「……っでも、地上は静かですわ。そうでしょう?もし冥府でなにか起こったとして、ミクの力が及ばなくなっているなら、地上に亡者が溢れ出します。でも、そうなっていないのですから………っ」
慌ててルカは続けたが、あまり救いにはなっていない。
それでは手遅れにならなければ、ミクの安否が判明しないということだ。助け手があればなんとかなったかもしれないときに、こちらはまだ、冥府の異変を察知出来ない。
なんとかならなくなり、女王が斃されたときにようやく、冥府の異変に気づく――
「んーっとね」
くすんだ色だったルカがどんどんと萎れ、枯れ色にまで染まりそうになった頃。
ずっと考え込んでいたカイトが、ようやく声を上げた。
ルカはぱっと顔を向け、彼女につられて枯れ色になりそうだったがくぽも膝の上を見る。
カイトはいつものように、にっこりと明るく笑った。
「うたと花の神たる<しょちぴるり>の名において、断じる。<冥府は平穏にして安寧。死者は眠りから、未だ醒めない>」
「ぁ………」
ルカはあからさまに安堵した顔になったが、がくぽは首を傾げた。カイトの言葉を疑いたくはないが――
「カイト殿」
「ね?いいきれた」
「………」
微妙な空漠を浮かべて見つめるがくぽに、カイトは気負うこともなくにこにこと笑う。
「冥府がヘンなことになってたら、ヘンなことになってないって、いいきれないもの。おれの<名>にかけていいきれたから、ヘンなことになってないんだよ。ミクはだいじょーぶ」
「ああ、カイト………!」
ルカはごく素直に、感謝の表情だ。
神はその<名>に懸けて発言するとき、偽りごとを告げられない。
その偽りごとは、神が事象を理解しているかしていないかが、判断の基準とはされない。
理解できずに理屈が不明でも、そもそもまったく知らないことだったとしても、名に懸けて言い切れることは、まことのこと。
いくら正しいと信じていたとしても、言い切れないことは、偽りごと。
神であるルカにはそれで十分らしいが、人間であるがくぽには一瞬では納得し難い。
納得し難いが、カイトの名に懸けられた言葉で、ルカも納得した。ならばそれで――
「まあ、いいです」
「んっ!」
「ぅふっ」
カイトの言葉に異を唱えるとしても、こちらにはそれこそ根拠がない。がくぽは偽りごとを平気で口にする人間で、真実と偽りの区別を厳密に定められている神ではない。
一言で思い切ったがくぽに、まだくすみがちなものの、華やかさを取り戻しつつあるルカがくすりと笑った。カイトも満足そうに頷いて、まるで猫にでもするように首を撫でるがくぽをうっとりと見る。
「でね、がくぽ!『とーか』って、どれくらい?」
「…………………」
「あら………」
まさかの部分が理解されていなかった。
カイトの無邪気な問いに開いた口を、ルカはぱたんと当てた手のひらに隠す。
そこの理解が及んでいなかったからといって、先の言葉の効力がなくなるわけではない。がくぽがちらりと窺ったルカはごく穏やかな顔で――どちらかといえば、愉しげだ。
なにが愉しいと言って、古き神であるカイトが、ごく簡単な日数すら理解出来ていなかったことではない。
せっかく取り戻した表情を、再びすとんと空漠に落としたがくぽが、どう答えるかを愉しみにしているのだ。
「がくぽ?」
「そうですね」
カイトは自分の守り役が、『むつかしい』話においても強いということを、疑いもしていなかった。
確かに強い。
少なくとも、カイトよりは強い。
ただ付け加えるなら、その『むつかしい』話を、カイトにも理解出来る平易な話に置き換えることは、まったく得意ではないのだ。
ましてや日数などという、こうまで簡単な問題を、さらにどう噛み砕けというのか。
表情を空漠に落としたがくぽは、たまごを抱くカイトの両手を取った。
「ぁ、っわっ!」
慌てるカイトの体の向きを変えてたまごが落ちないよう、諸共にくるみこみ、がくぽは取ったカイトの手を自分の手と重ねて広げさせる。
「この指の数、日が昇って沈んでを、くり返したのと同じです」
「へえ!って、んぁっ?!わ、ぁ、ひゃぁんっ!」
感心したように頷いたカイトの指を持ち上げ、がくぽはぱくぱくもぐもぐと、口に含んでしゃぶった。
膝の上でカイトが身悶えるのを、それとなく押さえてたまごが転がり落ちないようにする。たまごにも気を配りつつ、がくぽはカイトの指を食むのを止めない。
人目も気にせずじゃれ合う二人を眺め、ルカは両手で上品に口を覆い隠し、笑った。
「本当、見せつけてくれますわね、あなたたちときたら!たまごちゃんがどちらに似たとしても………きっと、ひどく愛情深い子になるに違いありませんわ。まったく、どんな子が生まれるやら………!」