違うと叫ぶ。
世界はひたすら狂ったように、違うと叫ぶ。
違うちがうちがうちがうちがうちがうちがう………――
しょちぴるり
第4部-第12話
神経を掻き毟られながら、気を抜けない相手と対していた。
不利だ。
がくぽの歴戦の剣士としての勘は、冷静にそう告げた。
真正面から当たれば、隠密衆よりも剣士である自分に分がある。普通の隠密衆なら、十分に撃退可能だ。
キヨテルは違う。
普通ではない――若頭を任じられるほどの手練れだ。そのうえに、がくぽの手に殊更に通じている。
互いに修行時代から、事あるごとに仕合ってきた結果だ。キヨテルは隠密衆としては突出して、剣士の手に通じている。
がくぽもまた同じだが、だからなおのこと、断じられた。
今の状態で、キヨテルに抗しきることは無理だ。
疲弊の募り方は尋常ではなく、削られていくのは体力とともに、それを補い無理を利かせる精神力だ。
体力が多少削られたところで、そんなものは精神力で補う。
しかし精神力が削られたなら、体力では補いきれない――
「………す………ふ」
がくぽは呼吸法をくり返して精神力を保ちながら、気配を探る。
背後に庇うのは、カイト――生涯を賭して愛し抜き、守ると誓った相手。
剣の主であり、己の半身。
神なる身に不遜だとしても、カイトはすでにがくぽの半身だ。定めは諸共に、生涯を傍らに添い遂げる伴侶。
僥倖にも、カイトもまたがくぽをそう思ってくれている。
己の半身、定めは諸共に、生涯を傍らに添い遂げる伴侶。
定めは諸共に、だ。
がくぽが倒れれば、カイトも倒れる。
キヨテルが連れ去るかどうかに関わらず、がくぽが倒れたところで、カイトは後を追う。
二人が心を通じ合わせた結果、奇跡的に宿った新しいいのち――たまごの中の、未だ生まれぬ子供とともに。
背負うのは、なにより愛しい相手と、その相手との間に育まれたいのちの、二つ。
重い。
重くておもくて――がくぽは、笑う。
幸福に。
繋がれる、鎖される、縛られる。
主もなく、綿毛のようにふらふらと各地を彷徨った己が、こうして地に足をつけて、しっかりと立っている。
地に根差して、生きている。
地に抑えつけられる重みの、たとえようもない幸福感――
「………ふ……っ」
「………がくぽ」
思わずこぼれた笑みに、表情は見えなくとも気配で察したカイトが、不思議そうな声を上げた。
大事に大事に抱かれた、たまご。
大事に大事に抱く、カイト。
たまごはがくぽとの間に出来た子供で、つまりは神と敵する人間の血を引いている。
それでもカイトは、なによりも大事にたまごを抱き、愛おしみ、守る。
がくぽとの間に出来た子供だからだ。
未だ善悪定まらなくとも、がくぽとの間に出来た子供だから――
背後に守って戦える己は、なんと幸福な定めの剣士かと思う。
たかが世界が叫ぶ違和感――たかが掻き毟られる神経。
たかが、だ。
「す……っ」
くり返す呼吸。
不利だ。わかっている。
わかっているが、そのうえで己に命じる。
負けられない。
勝てと。
「ふ………っ」
吐き出したところで、対するキヨテルの姿が陽炎のように揺らいだ。来る。
わかるから、腰を落とした。ぐらつくのは、腹に力が入っていない証だ。
まだ修行を始めたころ、師匠たちに厳しく言われたことを思い出す。
――腰を『落とす』ことと、『落ちる』ことは違う。ぐらつくのは、腰が『落ちて』いる証左だ。腹に力が入っていない。腹に思いを溜めろ!
「す………っ」
吸う。
キヨテルの姿は揺らぎ、幻のように薄けていく。
何度も何度も、対した。幼いころから覚えた技はすべて、幼馴染みにぶつけた。相手も同じだ。すべてぶつけられた。
秘匿が信条の隠密衆であっても、言い切れる。すべてと。
だからわかる。
まだ来ない。あと少し、あと少し――
「ふ………っっ?!」
意識が逸れたことを、自分でも致命的だとは思った。
不利な状況下で、覆すためには途切れない集中力が必要だ。
だが、がくぽの意識は逸れた。
視界の端、己の傍らに現れた存在に。
だめだと思ったが、完全に目が『彼ら』を見た。意識がキヨテルを離れ、『彼ら』に向かった。
――違うちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがうちがう…………………
世界が叫ぶ。
一ツ体に、双ツ心と双ツ性、双ツ頭を持った、異端の子供神。
異端を異端だと、激しく糾弾する。
「………っ」
体勢を整える暇などない。
これまでになく激しく叫ばれる違和感に、掻き毟られる神経は視界を闇に落とし、呼吸を圧し、体を捻じ曲げる。
意識の端に、キヨテルが動いたことを察した。
抗しきれない。
おそらくキヨテルの今の狙いは、守護の術を掛けられたたまごではなく、それに守られるカイトでもなく、立ち塞がるがくぽだ。
間違いなく、急所を狙ってくる。
避けえない――
ふらつきながら、がくぽの沈む視界は傍らに立つ子供神を見つめる。
北の地方独特の、成人を迎えていない子供が着る貫頭衣姿だ。
風習的に、子供の頃に男と女の別をつけないための衣装は、だぼついて体の線がわかりづらい。その目的ままに、彼らが『どちら』なのか、一見では判別がつかない。
覗く手足の骨の細さに、筋肉の弱さに、ただ子供が子供なのだと、非力な身なのだとわかるだけだ。
日の下で見る髪は、ようやく肩に届く程度の長さだった。色は、日の光を写し取った黄金――瞳は猫の碧眼。
以前、一度だけ日の下で、未だ揺らがぬ存在の彼らを見た。
美しいと、思った。
口には出さなかったが、美しい色を纏い輝く、美しい子供たちだと。
神の判断基準に照らすなら、一見して美しいと断じたものは、善きものだ。
異端ゆえに総意を持って存在を禁じられた彼らは、――善きもの。
だが今、日の下に現れた姿はひどくくすんで揺らぎ、不安定だった。
先の景色が、透けて見える。
存在を禁じられた世界に、割り込めなくなっているのだ。殊更に強い意識の一部のみが現れている姿か、もしくは意識を乗せきれない、単なる影身。
理由はわからない。きっかけは推測できる。
しかしそこから、理由を推し量ることは出来ない。
ここまで長きに渡って<世界>に見過ごされて来た子供神が、今になって完全に弾かれようとしている理由は――
「リン!!レン!!」
「っっ」
絶対に己の急所を突きこんで来るものだと思っていた幼馴染みが止まり、だけでなくそのくちびるから、聞いたこともないほどに悲痛な声が迸った。
瞳はがくぽの傍ら――子供神を見つめている。
眩む視界のせいではなく歪むキヨテルの顔を不思議に眺めてから、がくぽは思い出した。
冬の間、キヨテルは子供らと『遊んで』いたと言った――そもそも雪に鎖される北の地方で、キヨテルと子供神とがどこにいて、どんなふうに『遊んで』いたかなど、さっぱりわからない。
けれどキヨテルは楽しそうに言った。そろそろ懐いたから、捕まえて国に連れ帰ろうとしたと。
ことの善悪はともかく、キヨテルは楽しそうだった。
隠密衆が覗かせる感情など、九割が偽りだ。残りの一割は、相手を嘲るための。
それでもがくぽは、キヨテルが楽しそうだったと、言う。
幼馴染みは性格に難が多く、屈折具合は面倒以外のなにものでもなく、すでに害悪そのものだ。
忌々しく断じながら、同時にがくぽは思っていた。
キヨテルはきっと、いい父親、家庭人となるだろうと。
イクサに生き、戦地を渡り歩いて来た己を、決して父親になどなれない、家庭人となることなど無理だと断じたように、キヨテルは反対だと。
がくぽとの相性は最悪なキヨテルだが、がくぽの年の離れた弟には懐かれていた。実の兄には遠慮して笑いも出来ない弟だったが、キヨテルには無邪気に甘えた。
公主もそうだ。
幼い公主は、キヨテルがお気に入りだった。キヨテルは公主ががくぽのことをお気に入りだったとやっかむが、そうではない。
公主にとってキヨテルは、もっとも気安い用人であり、師であり、『兄』だった。
キヨテルもまた、幼い公主を単なる主以上に、慈しんで対した。
愛情を注ぎ、甘やかすだけではない。ならぬことはならぬと、厳しく叱ることも躊躇いなかった。
愚図る子供に理を説く手間を惜しむこともなく、聞き分ければ大仰なほどに歓び褒める――
隠密衆がいくら感情の制御に長けていたとしても、ああまで子供の面倒を見ることは無理だ。
キヨテルの性格の難は難として、しかし彼は子供を愛し育てる素養に恵まれていた。
未来を担う彼らを正しきに導くための、深い情愛の心を持つことが出来る――
だからなおのこと、がくぽはわからなくなる。
悪しきとは、なんぞと。
がくぽは幼くして重圧に晒される公主に、愛想笑いを見せることも出来なかった。慈しむ思いを抱けなかったからだ。
幼い弟は、ひとりきりでがくぽの傍に寄ることを嫌がった。兄の瞳は冷たく、その技量だけを図ったからだ。
キヨテルは違う――
「リンっ!!レンっ!!」
張り裂けるような感情を乗せて呼ぶ声は、透ける体に届かない。
一ツ体に双ツ心と双ツ性、双ツ頭を持つ異端の子供神――少女神リンと少年神レンは、どちらがどちらとも取れない薄けた表情で立ち、揺らぎながらがくぽを見ていた。
いや、違う。
その背に庇われる、カイトを。
「………」
たまごを抱くカイトのくちびるが、空転する。
つぶやこうとした言葉は、声にならない。
カイトの瞳は、がくぽとキヨテルが確かに映す幽玄の子供神を映さない。
焦点は明後日に合い、困惑に揺れてたまごを抱きしめる。
――
子供神のくちびるが動き、届かない声をこぼす。
痛みに歪む表情がカイトを見つめ、くちびるはひたすらに届かない声を、言葉をこぼし続ける。
『やくそく』
がくぽの沈む視界は、なんとかくちびるを読み取った。それもこれもすべて、子供がそれだけをくり返して言っていたからだ。
やくそく――約束。
以前も、彼らはそう言った。
たまごが生まれる前、まだがくぽとカイトが本当には思いを通じ合わせていなかったときだ。
寝静まる夜の最中に現れた彼らは、そうつぶやいてカイトの腹を撫で、消えた。
そのときカイトの腹には、たまごを宿した不可思議の花の痣があった。
彼らの行動がきっかけとなり、もろもろあった挙句にがくぽとカイトは本当の意味で思いを通じ合わせ、たまごが生まれた。
「………っ」
がくぽは奥歯を軋らせ、捻じれた神経に奪われる動きの自由を掻き集め、子供神とカイトとの間に体を滑り込ませる。
剣を構えることは出来ずとも、せめて全身で子供神とカイトの間を阻んだ。
まったく意味のない行為だと、わかっていても。
「が、くぽ………」
「っっ」
カイトが掠れた声で呼ぶ。全身で庇われても、なにから庇われているか、わかっていないだろう。
届かない言葉をこぼし続ける子供神は体を揺らがせ、手を伸ばした。
表情をこれ以上ない痛みと苦しみに歪めながら、悲鳴も苦鳴も世界にすり潰され弾かれて、響かない。
ただ、手を伸ばす。
がくぽ――その背後の、カイト。
カイトが抱く、たまごへと。
――ヤクソク。
「っっ!!」
「っぁっ!」
幽玄の子供神の手ががくぽの体をすり抜け、庇うカイトへ、その抱くたまごに触れる直前。
冥界の女王によって、すべての悪しきが触れることを禁じられたたまごは、世界の誰も触れることが出来ない異端の子供神を感知し、弾き飛ばした。
迸った火花と炸裂音は激しく、背後に庇ったがくぽですら、眩しさに目を眇めた。
「リン!!レン!!」
弾かれてそのまま掻き消える姿に、キヨテルの絶叫が轟く。
消えると同時に世界は違和感を叫ぶことを止め、唐突な解放にがくぽの体は大きく揺らいだ。地面に手をつくことがなかったのは、単に東の剣士として脊髄に叩き込まれた反射からだ。
膝をつくな、手をつくな、ついたときが死に時と思え。
くちびるを噛み締めてなんとか堪えたがくぽだが、息つく暇もなく、背後から響いた不吉な音に背筋を凍らせた。
どさり、と。
言葉に直すなら、そんな音だ。
なにか、――誰かの、倒れる音。
誰かなど、背に庇った相手は、一人しかいない。
「っカイト!!」
正気を失うほどの恐怖とともに、振り返ったがくぽの背後。
懸命に庇ってきたカイトは、たまごを抱いたまま青白い顔で、意識を失っていた。