しょちぴるり
第4部-第13話
「……………痛い」
粘つく闇の中、彼女はつぶやく。
瞳を開いても、そこにあるのは闇だけだ。
粘ついて、冷たく、いのちすべてを否定する闇。
「…………痛い、な」
闇を総べる女王たる彼女は、つぶやく。
硬い石の寝台に横たわったまま、手を挙げて額を押さえた。
冷たい手。
まるで死者だ。
石の寝台はそのまま、死者の寝台でもある。
冷たく凍え、体温のすべてを奪う、寝台――
「……………あれから、幾年経った」
横たわったまま、彼女はつぶやく。
手は冷たい。
神の手は総じて冷たいが、彼女の手の冷たさは意味が違う。
命を吸う、奪い取る、不吉の冷たさだ。
強固に結ばれた縁を断ち切り、すべての情を切り離す手。
死者の国、冥府の女王。
世界のすべての不吉を治める、絶対の神。
冷たく粘つく闇の中、ここには存在しない地上の碧をその身に宿す彼女は、天を睨んで拳を握る。
「見つけた。――いや、思い出した。冥府の女王、すべての不吉を総べる<みくとらん>は」
軋る奥歯の隙から漏らし、彼女は炯々と瞳を光らせた。
世界に兆す不吉。入りこんだ異物。過去の失敗。
すべてすべて、思い出した――彼女に課せられた、彼女が自分自身に課した、役目と誓いと、諸共に。
広大にして荒ぶる冥府を治めるには、あまりに華奢な拳。
届かない天へと伸ばしたそれを睨みつけ、彼女は一語一語、区切るようにして己へと呪いを吐く。
「<みくとらん>は、強くなった。あのときよりずっとずっと、ずっと――強くなった。今度こそ、出来る」
天へと向けて吐き出す言葉はすべて自分へと降り返り、彼女の体を心を縛る枷となり、絶対の命令となる。
冥府の女王が自身に掛ける、逃れること能わぬ呪い。
退路を塞ぎ、目を背けることも赦さず、彼女は己に呪いを課す。
「いや。『出来る』じゃない。やる。今度こそ、今度こそ……完全に、完璧に、完膚無きまでに。今度こそは――」
粘つく闇に呑みこまれながら、白く異彩を放つ拳を開き、彼女は手のひらを見つめた。
いのち吸い取る、奪い去る手。
どんなに強固に結ばれた縁でも断ち、切り離し、隔絶する手。
愛おしいものに、愛おしいと触れることも出来ない、手――
けれどそれであればこそ、出来ることがある。それであればこそ、彼女にしか出来ないことが。
「ボクは冥府の女王<みくとらん>。すべての不吉は、<みくとらん>の配下にある。たとえ創生の全能神であろうとも、不吉であるなら<みくとらん>の配下。配下に負ける、劣るボクじゃない」
彼女は己に呪いを吐きこぼし続ける。
すべての『不吉』は、彼女の配下。
すべての『不吉』が――
***
「どうして」
夜の闇の中、深い森の奥、春色を身に宿す華たる女ノ神は愕然としてつぶやいた。
震えながら、手のひらを見る。
愛欲を司る彼女が、彼女の名に懸けて与える祝福。
祝福と裏腹の呪いであり、試練であり、なによりも恋人たちの幸いを祈り守り、育む手。
その手が犯した、罪。
「どうして、忘れて――いいえ」
震える手を握りしめ、彼女はくちびるを噛んだ。
忘れたことが、問題なのではない。
『忘れた』のは、一族の総意だった。
犯した罪も生じた悲しみも、覚悟も決意もなにもかも、諸共に。
すべて忘れて封じこめることが、一族が下した決定であり、総意だった。
だから、忘れたことは、問題ではない。
問題なのは、『思い出した』ということ。
忘れることを、一族の総意として決定したにも関わらず、思い出した――
「思い出して、しまった」
記憶の綻びは、急激だった。
時が十全に満ちるそのときまでは、厳重に封じて蘇らないはずの、記憶が。
それ自体が存在の縁となる、神の記憶が――
「時間が」
「時間がないわ」
喘ぐ彼女の声に重なったのは、歪んで軋む声。
はっと顔を向けた愛欲の女ノ神は、華たる面を苦悶に歪めた。
「時間がないの」
傍らに立ったのは、炎纏う女ノ神。
母神亡きあと、一族の先を照らすべく、常に炎を纏い輝く古き姉神。
常に明朗と背を伸ばして立ち続けた彼女は、骨を軋ませ肉を歪め、背を撓ませていた。
力強く一族を牽引する声すらも掠れて淀ませながら、瞳に灯る炎だけが変わらず、轟と燃え盛る。
まるで、最後のひとはな――
息を呑む妹神に、姉神は素っ気なく告げる。
「おまえが犯した罪は、あたしが犯させたもの。気にするんじゃないわ」
思い出した。
鮮やかな瞳に無残な姉神の姿を映しながら、愛欲の女ノ神はくちびるを噛む。
思い出した――
「貴女っていうひとは」
詰る声が、涙に濡れる。
「どうしてそう、いつもいつもひとりきりで、なにもかも!」
責められて、返る声は素っ気なく、隠しきれない限界と終わりを滲ませた。
「時間がないわ、もう」