Episode00-鳥啼く声す-03

ソファの感触は現実空間とあまりに違う。空間を創り出しているオラクルが、本物のソファを知らないからだ。

数値上のデータを突き合わせ、平均に均し、合理的な判断のもとに置かれた演算モデル。

現実空間を演算に組みこんで感覚を構築してしまうオラトリオが座ると、どうしても違和感が這い登ってくる。だからといって、空間のすべての演算を引き受けられるほどの余裕はない。

「オラクル」

これ、まるでベッドイン。ベッドじゃなくてソファだけど。

制止しようとした声が、呑みこまれた。

繋いだ手から、感覚が蕩けだす。重なり落ちてきたオラクルのからだと触れた部分から、熱が生まれる。いつも感じているヒートストレスとは違う、心地よささえある甘い熱。

じん、と痺れが走り、オラトリオは息を呑んだ。

痺れはからだじゅうを覆い、覆われた痺れから熱が生まれる。

くすぐったい。

もどかしい。

知っている限りの言葉を当てはめたが、どれも微妙に違う。

息が上がる。

熱が上がる。

壊れてしまう!

「オラトリオ」

耳朶に、やわらかな声が吹きこまれた。

「おびえないで」

怯えてない。

負けん気で言い返そうとした咽喉が詰まって、声帯が震える。

なんということだ、なにより大事な武器である声帯が使えないなんて。

「オラトリオ、おねがい」

やわらかな声が、いつになく甘く囁く。

声を聞いているだけで、からだが跳ねた。

苦しいほどに熱が生まれ、頭が茫洋と霞んでいく。上に覆い被さっているはずのオラクルとの境目すら危ういほどに、感覚が蕩けて膨張し拡散していく。

ああ、廃棄処分になって分解されているときって、きっとこんな感じだ。

ちらりと掠めた考えは、ひどく蠱惑的にオラトリオを誘った。

廃棄処分される――恐怖と背中合わせの、解放への欲求。

存在が消える恐怖と、消える恐怖から解放される歓喜。

「オラトリオ」

相手の息が上がっていくように感じた。

そんなはずはない。

オラクルは呼吸をよく理解していないから、演算に取り入れていない。熱が上がれば呼吸も上がるなど、理解の範疇を軽く超えて想像もつかないはずだ。

「…オラトリオ」

それでも甘やかな吐息の幻想はこころを盛大にくすぐった。蕩けだして境目もあやふやな手を伸ばし、上に重なるオラクルのからだを抱きしめる。

抱きしめた瞬間、オラクルは震え上がって甘く哭いた。

なんという声。

残響に浸り、オラトリオはうっとりと息を継ぐ。

なんという声。

まさに天上から降る神の声。

もっと、声を。

もっと、わたしにことばを。

迷いを打ち消し、道を指し示す、ひかりを。

手を伸ばし乞うと、遥か高みで笑う声。

「おまえこそがわたしのひかりなのに?」

答えようとした。

応えようと。

だが言葉が生まれるより先に、熱く蕩けたオラクルに包みこまれた。

鋭敏に尖った凶器をやさしく収める鞘のように、オラクルはオラトリオのすべてを包みこみ、呑みこんであやした。

堪えようのない烈しい熱が膨張し、からだを灼き、焦がれる思いにオラトリオは絶叫し、激情を解き放った。

***

「っ」

びくり、と大きく震え、オラトリオは我に返った。

からだが硬直しきって動かない。咽喉が張りついて、呼吸の演算がうまく働かない。

「…っ」

瞬間的に恐慌状態に陥るこころを宥め、ゆっくりと感覚を手繰り寄せる。

時間をカウントしてみれば、驚異的なことに確かにマイクロ・セカンド内の一瞬のできごと。

これが、オラクルの――スーパーコンピュータ<ORACLE>の演算能力。

世間知らずで鈍くさい相棒の、秘められた内側。

一事あれば、自分が操ることになるかもしれない世界。

「う~」

荒れる呼吸を宥めようとする自分の上に完全に倒れこんで、未だ手を繋いだままのオラクルが小さく呻いた。

「覚悟してたけど…」

苦しげに言葉を紡ぐ。その手が強張ったまま、オラトリオの指を締めつける。

「オラトリオ、おおきい…」

計算できるはずもないから、これは自分の穿ちすぎだ。

もどかしいほどにゆっくりと、強張るオラクルの指から自分の手を解放し、オラトリオは熱の上がったような気がする相棒の背を撫でた。

「…きついか」

耳朶を食むように訊くと、オラクルの解放された手はオラトリオの胸に縋りついた。

「…へいき。私が頼んだのだから」

言葉ほどには平気そうではなく、オラクルは苦しげに顔をしかめてオラトリオに擦りつく。襟の広いローブから、負荷を示す赤いうなじが覗いている。

計算できるはずもないから、これは自分が穿ちすぎなのだ。

オラクルの背を撫でながら、オラトリオは天を仰ぐ。

救いようがない。

天井知らずの自分の欲望は、未熟さを加速させる。

こんなときには重みを感じたいと、密かに願う。

からだの上にいるのに、その分の荷重をまったく計算することがないオラクルは、抱きしめている感触が嘘のように重みがない。

荷重を素直に計算した場合、自分にかかる負荷がどれくらいかもわかっているが、それでも。

その負荷を感じたい。

繋がる前と比べて、あまりにも軽くなったストレス分、せめてオラクルが確かに存在しているのだという証が欲しかった。