Episode00-鳥啼く声す-05

ケーキを切り分けるという概念がない管理者は顔を輝かせ、丸のままのケーキにざっくりとフォークを差しこんだ。

嬉々としてケーキを口に運ぶさまはあまりに無邪気で、愛らしい。

しばしオラクルを観察してから、オラトリオもケーキにフォークを刺した。

分厚く塗られたホイップクリームの下にはみっしりと詰まったチーズがある。濃厚なチーズの味は、重みすら感じるほどだ。

「なあ、これ作ったの誰エモーションじゃねえだろ」

何気ないふうを装って訊くと、無邪気なオラクルはあっさり首を縦に振った。

「うん。エモーションがカルマにいくつか作ってもらったから、そのお裾分けだよ。エモーションは、いちごしょーとけーきを貰ったって言ってた」

「やっぱりカルマか」

ここまで煩雑なプログラムを形成できるほどのスペックは、エモーションにはない。ましてや、はりぼてではない現実そのものの食感のケーキを再現することなど、電脳一筋のお嬢さんにできる技ではない。

出てきた名前は妥当なところで、驚きもなく、その過程も理解した。

「すっかり家事ロボット化してるよなあ。市長やるより向いてんじゃねえ?」

軽口を叩きながら、紅茶を含んだ。

熱過ぎずちょうど良い温度に冷めた紅茶は、甘いケーキに合わせて少し濃いめに淹れられたアッサム。

舌に纏わりつく濃厚な甘みをさっと流され、口の中が生き返るようだ。馥郁たる香りはやわらかにこころに届き、疲れを癒す。

座り心地の良いソファ。

甘いケーキに、おいしい紅茶。

こころづくしのもてなしだ。

今までの<ORACLE>には存在しなかった。

だが、それだけではない。世界を構築しているすべてが。

「…甘えてんなあ」

ぽつり、つぶやきがこぼれた。

世界の改変を、オラクルがオラトリオに断ることはないし、逐一報告することもない。たまに下らないこだわりを得意そうに主張することはあるが、いつもいつものことではない。

世間の進歩に合わせて世界を改変していくことは、人間が呼吸をするようなもの。

オラクルにとっては、あまりに当たりまえのこと。

だが、今回の改変は――。

「甘やかされてるよなあ」

「ん?」

最後のひと欠片を口に含んだオラクルが、きょとんとオラトリオを見つめる。

なにも主張しないそれが、余計に。

泣きそうな心地で、オラトリオは笑った。

見た目には、なにも変わらない<ORACLE>。冷たい電脳図書館。

だが、すべての演算が一から構築し直されているのを感じる。

より、現実に即したものに。

より、オラトリオの感覚に沿った現実に。

そんなものはオラクルには不要な改変だ。決してボディを持つことがない彼にとって、現実を模すことの意味はすべて。

「…うまかったか」

「うん?」

おいしかったよ、と首を傾げる片割れに、オラトリオは笑った。

静かで安定したオラクルの感情波。

得意そうなところもなく、押しつける感覚もない。彼にとってオラトリオのために身を裂くことは、あまりに自然で。

「俺は、ちょっと甘かったかな」

「…そうかもね」

わずかに上目使いになってなにかしらのデータを検めたらしいオラクルが、同意する。

オラトリオはフォークを放り出すと、格段に心地よくなったソファに背を預けた。帽子を取り、顔の上に乗せる。

そのコートの裾が、引かれた。

「待ってまって」

「なんだ、仕事か?」

休ませろよ、とぼやく口調を作ると、オラクルは首を横に振った。

オラトリオの手を引いてからだを起こすと、ソファから立ち上がらせる。

そのまま手を引いて、執務室から永遠に続く本棚の果てに、ちょこなんと作られた見慣れない扉の前へと連れて行った。

「プライヴェート・エリアを作ったんだ。休むならここ」

開かれた扉の中には、キングサイズのベッドが備えられていた。

オラトリオの規格外のからだすら鷹揚に包みこむ特大サイズだ。特注以外のなにものでもない。

呆然と見つめたあと、黙って部屋に足を踏み入れた。

ベッドに倒れこむと、スプリングが心地よくからだを受け止める。

マットは、硬すぎずやわらか過ぎず、適度な弾力。

羽根布団がふんわりと膨らんで、からだを包みこんだ。

吐息がこぼれそうになって、堪えた。

意味はない。そう、こんなものに意味はない。

それでも。

「布団の上に寝ちゃだめだよ、オラトリオ。それ、からだの上に掛けるものだろう」

「俺らが風邪引くか」

言い返す額に、オラクルの手が触れた。ひんやりとしたそれは、労働を知らないやわらかな感触でオラトリオを撫でる。

「やっぱり、クッションを敷き詰めたほうが良かったかな」

わずかに滲む後悔の響き。

そんなものが必要か?

オラトリオは笑う。笑って、オラクルの手を振り切ると、布団の上で大の字になって目を閉じた。

「これでいい」

言ってから、違うと思った。

「これがいい」

「…そう」

リンクを通して流れてくるオラクルの感情。喜んでいる。

おまえはほんとうにどうして。

言いたいことはいくつもあって、そのどれもを言葉にできなかった。

深呼吸をくり返し、波打つ胸を鎮める。

繋がっているとしても、言わなければ。

伝わっていても、言葉にしなければ。

「ありがとう」

つぶやいた声はあまりに小さかった。だが、オラクルが笑う気配がする。

「おやすみ、オラトリオ」

冷たい手がオラトリオの額を撫で、乱れた前髪を掻き上げる。開かれた額に、やわらかなくちびるの感触。

こんな習慣はデフォルトにないはずだから、またテレビかなにかを観て影響されたなと思う。

おまえはほんとに影響されやすい。

毒づくが、満たされるこころは誤魔化しようがなかった。

静かに気配が遠のき、扉が閉まる音がする。

言いたいことがたくさんある。思うことも山のように。

意味はない。こんなものに意味はない。

そう言い聞かせながら、どうしても堪えきれずに涙が一粒こぼれた。

苦しさに涙したことなら、数えきれない。

こんなふうに、よろこびに胸を満たされてこぼれる涙は知らない。

「甘やかすな、俺を甘やかすな、オラクル」

唱える言葉が裏返しであることは自分でもわかった。

自分がオラクルを甘やかさずにはおれないように、オラクルもまたオラトリオを甘やかすことに躊躇いはなく。

世界で唯一の絶対的な味方。

唯一絶対の価値基準。

「おまえは…」

つぶやきは、埋もれた。

すべてがオラトリオにやさしく組み直された世界は、疲弊したこころをどうしようもなく安息の眠りへと誘う。

せめてもの足掻きで体内に目覚ましをセットして、オラトリオは誘われるままに眠りに沈んでいった。