Judy knocked & knocked-03-

「ところでいちゃつくなら夫婦の寝室に行ってくれないと俺の行き所がないわけだが」

「…貴様…」

くちびるをくっつけたまま、がくぽが低く唸る。

そのがくぽがくちびるを放して、背後に立つマスターに咬みつくより先に、カイトは首に回した手に力を込めた。

「…っ」

虚を突かれて離れられないがくぽのくちびるにより深くキスをしてから、カイトは長い髪ごと、旦那様の頭を胸に抱いた。

「マスター、ご用事ですか?」

輝くように微笑んで訊く。がくぽが腕の中で微妙に暴れているが、押さえつけて放さない。

攻防がわからないはずのマスターだが、気配でそれとなく察しているのだろう。吹き出しかけて、歪む口元を押さえた。

「ご用事らしいご用事はないな。単におやつの時間だと思っただけなんだ」

「ああ、そうですね」

壁掛け時計を見やれば、三時を五分過ぎている。確かにおやつの時間だ。

仕事場ではどうか知らないが、家にいるときのマスターは、三時のおやつを楽しみにしている。

楽しみにしているといっても、コーヒーを一杯飲みながら、軽いものを一口二口つまむだけなのだが。

「今日はなんでしょう」

「奏がクッキーを焼いたって言ってた。おまえにはクッキー入りアイスを作って冷凍庫に入れておいたって言ってたから」

そこまで言って、マスターは堪えきれずに座りこんだ。呼吸困難に陥って肩で息をしながら、抵抗らしい抵抗もできぬままに無言で弱々しくもがくがくぽと、そうやってがくぽを堅くホールドしているカイトを指差す。

「…どうする。食べるのかカイト」

声が笑いに震えている。

あくまで華やかな笑顔のカイトは、無慈悲に旦那様の髪を鷲掴みして引っ張った。鍛えられない部分を掴まれて、がくぽの首が呆気なく仰け反る。

「かい、とっ、んんっ」

抗議の声を、カイトは自分のくちびるで塞いだ。容赦なく髪を引っ張り続け、自分より力の強い体を絨毯の上に押し倒す。そのまま、馬乗り状態で深いキスを要求した。

抵抗するべきなのか受け入れるべきなのか、盛大に迷っているがくぽの手は、無意味に彷徨う。

古風な「日本男児」である彼は、マスターであれだれであれ、他人がいる前でこういった行為をすることに、ひどく恥じらいと抵抗があった。下手をすると、なんでもない接触すら慎重になる。

カイトのほうはまったく逆で、ギャラリーを気にしない性質だった。

もともとが他人への関心が薄く、そこにだれがいようと空気のように扱うカイトだ。

さすがにマスターを空気扱いはしないものの、「旦那様」を与えたのがマスターだ。こういうことも許容されて然るべき、というのがカイトの言い分だった。

「だめだ笑い死ぬ」

妻を撥ねつけることなどできないが、マスターに見られたままで続行することもできない。二律背反に苦しむがくぽに、無情なマスターは腹を抱えて笑い転げた。

「カイトっ」

「おやつでしょう?」

「?!」

わずかに離れた瞬間に、赦してくれ、と情けない悲鳴を上げた旦那様に、カイトはくちびるを舐めながら微笑んだ。

艶やかに濡れるがくぽのくちびるを音を立てて吸い、体を起こす。

呆然とするがくぽを見下ろし、古代の戦女神のように猟奇的な悦びを、その表情に閃かせた。

「旦那様。おまえなに奥さん怒らしてんの」

過呼吸に陥りそうなくらいに忙しく呼吸を継ぎながら訊いたマスターに、がくぽが潤んだ瞳を揺らす。

床に寝転がったまま惑う視線を投げかけるがくぽに、カイトは嫣然と笑みを返した。馬乗りになった腰を、わずかにずらす。

「…っ」

刺激に、がくぽの顔がしかめられる。

半年前にはなにひとつ知らなかった奥さんに、あれやこれやをいいように教え込んだのはがくぽだ。今や奥さんはがくぽの好む仕種も、弱い刺激も知り尽くしている。

「ああ笑った笑った。じゃあ俺おやつにするから。おまえたちは寝室に行って続きやんなさい」

「貴様は新卒中学生向け礼儀作法セミナーへ行って、デリカシーを学んで来い!」

「新卒中学生ってどんな存在だ」

半身を起こして叫んだがくぽに、マスターは呆れたように首を傾げた。

立ち上がって、キッチンとの境にあるカウンターに行く。そこには小皿の上に載せて、手作りのおやつが用意されていた。

三十路男のマスターのおやつにと用意されたのは、粒チョコとオレンジピールで、丁寧に顔の造形まで施された、かわいらしいジンジャーマンクッキーが二欠けだ。

マスターは上に掛けられていた埃避けのレースペーパーを除け、岩肌にも似たクッキーの触感を愉しむ。カウンターに放り出してあるマグカップに、保温ポットからコーヒーを注いだ。

カウンターにふたつ据えつけてある椅子の片方に座り、再びジンジャーマンの形をなぞる。

「頭から食うべきかそれとも足か手か。奏もなかなか悩ましい仕事をするようになったな」

「貴様が先に悩ませるから逆襲されるのだ」

「がくぽ」

楽しげなマスターに咬みついたがくぽの頬を、カイトがやわらかく挟みこむ。素直に向いた顔を、不満げに睨んだ。

「…わかった。俺が悪いのだな…」

「がくぽが悪いんですか?」

肩を落としたがくぽをさらに落胆させて、カイトは甘えるようにたくましい体に抱きついた。

「マスター、一口で食べればいいんですよ」

そして、まだジンジャーマンを矯めつ眇めつしているマスターに、得意げに言う。

マスターは「エゥレカ!」とでも叫びそうな顔になった。

「なるほどそうか」

「はい、そうです」

無邪気にカイトは頷き、マスターはジンジャーマンを丸ごと口の中に押しこんだ。

いくら三十路男とはいえ、マスターはそれほど大柄というわけではない。顔は平均から見ると小ぶりで、口も小さかった。

対してジンジャーマンも、上品な口に一口で食べられることを想定された大きさではなかった。

顔の形を盛大に変えて、ひどく苦労してひとりめのジンジャーマンを噛み砕いたマスターは、どうにかえづくこともなく飲みこむと、コーヒーを啜った。

そのくちびるから、小さなため息がこぼれる。

「カイト。悪かった」

「マスター、悪いことしましたか?」

問い返したカイトに、マスターはがくぽのように肩を落とすこともなく笑った。

「した。無闇とおまえを怖がらせて不安にさせた。確定するまで待てばよかったのに待てなかった」

数え上げるマスターの言葉はカイトにとって、対象が曖昧で意味不明だ。

抱きつかれたがくぽが首を回し、マスターを振り仰ぐ。口を開こうとして、止めた。

代わりに、自分にしがみつくカイトの体を抱きしめ、肩に顔を埋める。

「だけどなカイト。嘘は言ってない。それがどう結実するかによっては確かに俺はおまえの調声を一からやり直す。だが結実の行方によってはおまえは俺ひとりではたどり着けない高みを見せてくれるだろう。だから過渡期である今言えるのは悪くないの一言なんだ」

落ち着いたマスターの声には、先ほどの迷いがない。少し時間を置いたことで、頭の中が整理できたのだろう。

見つめるカイトの顔からずれて、マスターの指は虚空をなぞった。傍にカイトがいたなら、頬をこめかみをなぞっていただろう、その動き。

笑って、マスターは手首を振る。

「悪くない。実際悪くない。こんな変化は望んでもいなかった。俺は愉しい」

「貴様、それでは悪役のようだぞ」

渋い声で指摘して、がくぽはカイトの髪を梳いた。

こんなマスターと、ふたりきりで三年も過ごした彼の心中が思いやられる。カイトがマスターを「→頭のおかしいひと」で無理やり括って収めた理由もよくわかろうというものだ。

自分のような最新型ですら読み切れない不安定な言葉を、旧型で物堅いプログラムであるカイトに浴びせたら、下手をすれば致命的なバグを生み出さないとも限らない。

「ようだ、ではないな。貴様は悪役だ」

「そういう旦那様だって奥さん怒らしたまんまだってわかってるかな」

軽く指摘されて、がくぽは苦虫を噛み潰したような顔になった。

「…謝るとも」

「ふたりで寝室でな。さっさと行け。甲斐性を疑われる前に」

軽く言ったマスターは、残りのジンジャーマンを取ると、躊躇いもなく頭を齧り取った。丁寧に咀嚼し、礼儀正しく味わう。

「がくぽ、おやつです」

「…そなたな…」

生真面目に訴えて膝から降りたカイトに、がくぽは眩暈を覚えて額を押さえた。

マスターの嗜好によってうたうことに特化し、生活能力皆無となったカイトは、アイスを冷凍庫から出してくることもできない。

スプーンの場所も知らないし、皿に盛ることもできない。

必然的に生活能力に溢れた旦那様の出番となるのだが、今のこの状況で、出動を命じられるとは予想もしなかった。

眩暈と頭痛と戦うがくぽの顔を覗きこみ、カイトは小さくキスを贈った。もう一度、今度は密やかに囁く。

「がくぽ。『おやつ』ですからね?」

「…」

最初のころはともかく、最近となれば、こういったカイトの態度を読み違えるようながくぽではない。

わずかに瞳を見張り、それから、妙にまじめな顔でジンジャーマンクッキーを齧っているマスターを見やった。

ネズミかモルモットに目覚めたマスターは、クッキーをいかに細分化できるかにご執心だ。

「…『おやつ』、だな」

「はい」

がくぽは立ち上がり、座って見つめるカイトの手を引いて立たせた。

「努力義務でいいか」

訊いたがくぽに、カイトは首を横に振った。

「おやつの時間を過ぎては困ります。クッキー入りアイスが待っているんですから」

「…」

すげなく言われたことに、がくぽは一瞬、天を仰ぐ。

「…そなたも、どこかのセミナーでデリカシーを学んでみないか…?」

力無く、つぶやいた。