カイトが微笑む。たおやかに、緩やかに。

だが、その湖面のような瞳に翳す感情は、少しもたおやかではなく、緩やかでもない。

ひどく挑戦的で、挑発的だ。

The Key Of The Kingdom-01-

「がくぽ。じっと見ているだけなら、傍に来てください。いっしょにうたいましょう?」

カウンターに据えつけられた椅子に座るがくぽに、絨毯に座ったカイトが手を伸ばす。

リビングの真ん中に座したカイトから、がくぽに寄ってくることはほとんどない。こうやって誘って、がくぽが寄ればうれしそうに手を取るし、寄らなくても大して気にしない。

「…」

起動して、半年だ。

当初あったいざこざも、がくぽの高い学習能力によって、ほとんどが解決できるようになった。

今はもう、カイトの言葉にされない訴えを読み違えることはないし、彼がこぼすすっ飛んだ言葉の発射点と着地点も見極められるようになってきた。

小さないざこざが起こっても、今ならマスターに頼ることもなく、がくぽの努力によって解決可能だ。

小さないざこざならば。

「がくぽ」

「そなたがうたうのを聴くのが、良いのだ」

「そんなことを言って」

カイトが笑う。瞳を細めて、愉しそうに。

だが、がくぽが読み違えることはない。

ただ愉しいだけではない、駆け引きを仕掛けられている。

初めは、自分の少しばかりの意地からだった。

なにもかも好きなように振り回されるのが、わずかに腹立たしくて。そう、少しばかりの意趣返しのつもりだった。ほんとうに、ほんの少しの。

それが、半年も経って。

気がつけば、カイトとの間に微妙にして無視できない、緊張を生む原因にまで成長した。

どこかで、軌道修正できたはずだ。

がくぽはこの、天女然とした妻にべた惚れなのだ。大抵のことは受け入れるのに抵抗がない。

だから、どこかで思い切ればよかった。

求められているのは、ただ一言だと、わかっているのだから。

どんなふうな些細なきっかけでもいい。ただ一言、ただ一言…――

が、どうしても言えないままここまで来て、今となってはもう、どんなきっかけがあったら言えるのか、さっぱりわからない。

求められたら、口にすればよいとは思う。思うが、いざ求められると、声帯が閉じてしまうのだ。

その「一言」だけが、どうしても出てこない。

こころの中では、うるさいほどに叫んでいるというのに。

まるでバグでもあるのではないかというほどに、どうしてもどうしても。

「では、なにかリクエストしてください。あなたが好きなうたをうたいます」

「…」

微笑むカイトに、背筋が凍える。どこまでも優しくたおやかに微笑んでいるというのに、その背後にある威圧感が半端ではない。

起動当初、ハウスキーパーである奏が、カイトが笑顔を向けるたびにやたら怯えた素振りを見せたのを至極不思議に思っていたが、今になってわかる。

カイトは怒った顔を見せない。だが、怒るのだ。笑顔で。あくまで優雅に、淑やかに。

そして今、カイトはほぼ常に、怒っている。

いくら求めても、旦那様から与えられない言葉のために。

頻繁に仕掛ける駆け引きのことごとくを無に帰されて、敗北することに。

おとなしく従順に見せて、本質はどこまでも気高く誇り高い天女さまだ。

自分から折れるなどということは思いもつかないだろうし、思いついても矜持が赦さなそうだ。

そんなところも含めて、すべて自分の妻だ。そうであることを赦している。

だから、がくぽが折れればいいのだ。折れるになんの抵抗があろう。そのためにカイトのこころが離れることを考えたら、矜持も誇りもどぶに捨てられる。

捉まえておくためなら、どんなことでもしよう。

と、思うのに。

「そなたが自由にうたっているのが、いちばん良い。ただ俺のことを想ってうたってくれるなら、それがすべて、俺のためのうたになろう。俺はそれで十分だ」

躱してしまった。

案の定、カイトの笑顔がわずかに翳る。それでも、慣れていなければ、うれしそうな笑顔に見えただろう。

思わず椅子から立ち上がり、リビングの真ん中に座るカイトの傍らへ行った。

見上げる頬へと手を伸ばし、撫でる。心地よさげに細められた瞳が、凄絶な怒りを孕んでがくぽを見つめている。

たおやかな手が、頬を包むがくぽの手に重なる。そのまま、手首へとたどる、指の動き。

「…カイト」

「だめです」

手を引こうとしたがくぽに、カイトは低く命じる。

掴んだ手首を引き寄せ、強張る指にくちびるが触れた。くちびるで細長い指をたどりながら、掴んだままの指で手首の内側をくすぐる。

「…頼む、カイト…」

「なにをです?」

これが、すっ呆けて言っているならともかく、カイトは本気でわかっていない。

言葉に詰まるがくぽに、ただ凄絶な怒りを向ける。拒絶するのか、と問うその瞳に、抗しきれない。

葛藤に、プログラムが絶え絶えになる。

ふたりきりならもちろん、抵抗しようとは思わない。怒れる妻の求めるまま、体を与えよう。

しかし今は、ふたりきりではないのだ。キッチンに――。

「あのぉ、お取込み中大変すみません、恐縮です、あとで地獄詣りでもいたします」

「…っ」

低姿勢ながら確かに声を掛けられて、がくぽの回路は一瞬飛んだ。

普段なら、カイトが無体を強いてくるときには気配を消して存在しないように振る舞う、有能にして理解に溢れたハウスキーパー、奏が、どういうわけか今日は、足音を忍ばせながら背後に立っていた。

そのうえ、声を掛けてくるという無謀ぶり。

「どうしましたか?」

回路が飛んで応えられないがくぽに代わり、相変わらず指に口づけたままのカイトが、微笑んで奏を見つめる。

その笑顔に引きつりながら半歩下がり、しかし思いとどまって、奏は手に持っていた携帯電話を揺らした。

「その、今、ぼっちゃまからご連絡がありまして。本日、若さまとごいっしょに、こちらに来られるそうです」

「…」

珍しいことに、カイトは即応しなかった。ただ、がくぽの手首を掴んでいた指に、わずかに力が篭もる。

「僭越ながら申し上げれば、そろそろ大燦会の季節です。おそらく、そのことで来られるのではないかと…」

「…そうでしょうね」

これまた珍しく、カイトは気難しい顔になって考えこんだ。その間も、がくぽの指に口づけたままだ。

どうにか回路が復旧したがくぽは、そんな奥さんをこれ以上怒らせることがないよう、細心の注意を払って、くちびるから指をもぎ離した。

縋られるような指までは離せず、指を絡めるように手を繋ぎ直すと、腰を下ろす。

「なんの話だ?」

何食わぬ顔で背後を振り返ると、不思議そうにカイトを眺めていた奏は、申し訳なさそうに微笑んだ。

がくぽが人前で、妻と馴れ合うことが苦手だと知っているのだ。だからこそ、普段はこれでもかと気配を殺して仕事をこなすのだが。

「ぼっちゃまというのは、若さまの弟君のことで」

「それは覚えている。父親は旦那様、母親は奥様、祖父は大旦那様で、祖母が大奥様だろう」

詳細を知るには至らなかったが、マスターが名家の出だとは聞いた。会社をいくつか経営していて、さらに奏の一族を、使用人として本宅に囲っているということも。

あのマスターを見ていると、とても格式ある家の出とは信じられないのだが、そもそもマスターは異端だということも聞いた。

才能があるからこうして自由を赦されているが、それも一族の中には反対派が多く、本宅の中に囲っておくべきだという意見が多勢を占めるのだという。

「大燦会というのはなんだ?」

訊いたがくぽに、奏はわずかに首を傾げた。おそらく、がくぽにも理解しやすい言葉を探しているのだろう。

自身も鏡音シリーズというボーカロイドのマスターである奏は、彼らにとってもわかりやすい説明というものを常にこころがけてくれる、稀少な人間だ。

「有り体に言ってしまえば、社交パーティですね。『燦会』と言われるものは、その中でも、とりわけ伝統が長く、格式の高いものです。そのために、ご臨席なさる顔ぶれも生半なものではありません。どんな業界であっても、最後に物を言うのは人脈ですから、顔つなぎのための出席は欠かせません。普段は旦那様やぼっちゃまだけがご出席なさるのですが――年に一回開かれる、『大燦会』と言われる規模の大きいものにだけは、若さまもご出席なさるんです」

「…あれをそんな場に出して大丈夫なのか」

思わず危惧がこぼれた。マスターに対してはまったく信頼がないがくぽだ。

対して、マスターこと、若さまに心酔しきっている奏は、その美麗な眉を厳しくひそめた。

「若さまが普段お出にならないのは、ひとえにご面倒だからです。禁止されてのことではありません。若さまの人心掌握術を舐めてはいけませんよ。どんな高慢ちきだろうが、阿呆だろうが、狙った人間はだれも逃がさない、見事な捕縛っぷりなんですからね」

「…」

狙ってもいない貴様も立派に釣り上げとるしな…。

こころの中だけでつぶやき、がくぽは未だに考えこんでいるカイトを思わしげに眺めた。

「それで?」

「…そのお席には、カイトさんをお連れになるのが、若さまの通例なんです」

「…」

目を見張って振り返ったがくぽに、奏が困ったように眉を下げる。

「『燦会』というもののそもそもの趣旨が、お金持ちが自慢の道楽を見せ合う席ですからね。壺や盆栽を持ち寄る方もいらっしゃいますが、そうやって、ご自身が手塩にかけた『才能』をお連れになる方も多いんです」

あからさまにがくぽが眉をひそめ、奏は慌てて携帯電話を持ったままの手を振った。

「あの、ご心配なさらなくても、下衆な会ではありませんからね。多少は見世物的意味合いもありますけれど、物笑いの種になるようなものを連れて行けば、ご自身の評価も、引いては会社の評判も落ちますから。皆さまこれぞというものをお持ちになられます。どちらかというと、誉れなのですよ」

宥めるように言われ、しかし、がくぽは愁眉を解かない。

誉れだとしたら、どうしてカイトがこんな気難しく考えこむのだろう。

繋ぎあった手が、軽く引かれる。がくぽの指を再びくちびるに当てて、カイトは瞳を閉じた。

「今度の燦会には――マスターは、俺を連れて行かないかもしれません」