B.Y.L.M.

ACT8-scene14

なにが衝撃なのだろう。

カイトにはそこが、もっともわからなかった。

なにがこれほどまで、立ち直り難いまでの衝撃で、自分は『こう』なってしまっているのだろう。

ただ生きているだけ、思考も、身動きのすべても止めながら、カイトは戸惑う。

視界には、ただ色彩があった。光があり、影がある。つまりすべてのものがあるが、ひととして知覚していたすべてが、ない。

花の知覚だ。花の世界に堕ちこみ、嵌まって、身動きが取れなくなっている。

それもそうだ。カイトは花であり、花とは地に嵌まり、動かないものだ。

最前、昼の青年もどこか呆れたように、言ったことがある。

――根を抜き、ほいほいと歩き回るような花の話を、お伽噺にも聞いたことがありますか?

あれは確か、カイトの足が本格的に動かなくなったころだ。どうしてと、狼狽えて訊いたカイトに、昼の夫は実に軽い調子で、無情にもそう、答えたのだ。

見た形はどうであれ、花として咲き開いたカイトの足はすでに、『根』だ。意味を変えている。

となれば、動かないのは至極当然、必定のことと。

どうであれと言うが、だから見た形は、ひとの足のままだ。『根』と変容していない。

『花』に詳しくないカイトの戸惑いこそは、至極当然のことだというのに――

さすがに酷いと、少しばかりむくれたカイトに、青年は自らの態度の誤りに気がついたのだろう。

けれど謝れない性質だ。だからとこのまま、カイトの気分を害したままでもいたくない。なにかしら、取り返したい。

それで青年はことさらに雄を香らせて寄りつき、カイトの頭を眩ませた。当時はまだ飢えが残っていたから、覿面だ。

甘やかな口づけに始まって、がくぽは自らを削ってカイトの腹を満たし、有耶無耶に誤魔化しきった。

そしてそういった態度というのは、このときのみならず、ごく日常的なものだった。

青年はとかく媚び、甘ったるい雰囲気でカイトを惑乱させ、有耶無耶にことを誤魔化して過ごした。

こういった点では、夜の少年のほうがまだ誠実だったと、カイトは思う。謝れないのは同じだが、有耶無耶に誤魔化すこともしなかったし、ことさらに媚びることもなかった。

ただ、くちびるを噛んでうつむき、固まる――

ほどくことの面倒さを考えると、どちらもどちらだった。負けず劣らずというもので、優劣などない。

思い至らせたことに直前の考えを翻してそう結論し、それにと、カイトは考えた。

それに、根を抜き、ほいほいと歩き回るような花の話なら、あったではないか。

王の花だ。『花』の始祖だ。

始祖が大地から根を抜き、焦がれたひとのもとへほいほいと歩き行けばこそ、今がある。

その後の時代、王の花は砂漠でしかなかった西方の各地を花樹で満たしつつ、ほいほいと歩き回ったようだし、――

もちろん『ほいほいと歩き回った』という記述など、どこにもないのだが。

史書にはただ、王の花が初代の王とともに国を巡ったとだけ、ある。

王の花がついて、ともに巡っていた相手が国の初めの王と成り、ともに巡った地が国土となったと。

どうやって巡っていたものか、方法の詳細な記述はないから、実際はわからない。

もしかしたら今のカイトががくぽに抱かれ、どこへでも連れられるように、王の花もその、時の王とやらに抱えられ、あちこちと巡ったのかもしれない。

その王はもちろん、王の花が愛おしんだ伴侶だろう。なによりも誰よりもと愛おしみ、根づいた『大地』だ。

でなければ、抱えて移動などさせないし、――

愛おしい相手がそうして労を尽くせばこそ、砂漠のさなかであっても花や樹を呼び、彼が休むときにはこころゆくまで休めるよう、王の花も力を尽くした。

そちらのほうが、カイトの花としての感覚からすれば、理解できる。納得もいく。

「……………………………………………ん?」

なにを考えていたのだったかと、カイトは珍しくも自らの思考に追いつけず、しばらく空漠を晒した。

空漠を晒し、カイトは色彩の世界を眺める。光と影の世界だ。花の世界――

すべてのものがあって、うつくしく、やさしく、あたたかな世界。

夫がいない世界だ。

夫のいない世界。

夫が、――夫、は、

「なぜ」

カイトは、つぶやく。

なぜ――なぜ、なぜ、なぜ?

どうして自分は、ここに、こうしているのか。

いったいどうしてこうまで、立ち直り難く衝撃を受けて、考えることもままならず、身動きすら取れなくなって、ここにいるのか――

先の、口づけだ。戦いに赴く前、カイトからがくぽに与えた。

王の花としてのありったけをこめ、カイトは夫に口づけた。

夫を南王から守らんとして、南王が与える呪いから夫を守らんとして、与えた口づけだった。

王の花だ。花のなかでももっとも強く、色濃く、前代神期の始祖の力を還す。

その、ありったけだ。全精力であり、全霊力だ。

南王がどれほど人智を超え、計り知れず強かろうと、王の花の力は確かに作用した。夫への想いが強ければ強いほど、募れば募るほど、いや増して勝った。

そしてまず初めに、長の歳月に渡って夫の身を蝕み、苛んで苦しめ続けた、すでにその身に巣食っていた呪いから、払った。

――体質です。

日の出と日の入りとを境に成長する速度が違うということを、夫はそのひと言で片づけた。

夜も昼もだ。まるで疑っていなかった。一般的なものでなくとも、ことに特異なことでもないと、そういう。

納得できなかったのは、カイトだ。夫の体が目の前でつくり直されるさまを見て、なお、違和感が拭いきれず、腹にわだかまった。

なにかがおかしい』と。

本能が訴えたそれを、見切ったものを、抑えこんだのは、理性だ。

場所は南方であり、がくぽは南方人であり、挙句、南王の子だった。

西方の、ひとでしかない感覚で納得がいかないからといってあり得ないとし、南方の地で、南方人を否定することほど、愚かなこともない。

いのちが始まった地と言われる原初の森を持ち、神期の血を遺す旧い氏族を抱えるのが、南方だ。すべて含めて、南方人だ。

ひとのみの住まうひとの世界、ひとの国たる西方の常識では、まるで計れない。

西方においてあり得ないことは、南方においてほとんど、あり得る。

むしろあり得ないことのほうが、ない。

なにかのとき、あり得ないと反応することのほうが、あり得ない。すべてのことが、あり得るからだ。

それが南方であり、南方人であるからだ。

ましてやがくぽはなかでも、人智を超えるという意味で『魔』の冠まで与えられたような南王の血を引いていた。

なおのこと、『あり得ないことがあり得ない』。

カイトの理性はそう判断し、本能が訴えた、『ひとではない』花として覚えた違和感を、不快感を、腹の奥底に呑みこみ、押しこめてしまった。

結果カイトは、理性によって誤った。あり得ないことはあり得ないのだから、『あり得ない』と。

理性だ。本能ではない。王の花だ――

常態の花と違い、王の花は理性を得てしまった。なにより焦がれたひとの傍らにあるために、見た形だけでなく内もまた、ひとに寄せたのだ。

挙句カイトは王太子として厳しい教育を受け、ことに理性を磨いて育った。

花であっても異端の『王の花』であることからもまた異端なほど、カイトの理性は強く、本能と拮抗し得たのだ。

本能というものは言葉で説けない真実を掴み、見抜いて、やはり明確な言葉では訴えられないと知っていて、であればこそ言うことは注意深く拾ってやらなければならないと、カイトはよくよくわかっていたというのに。

それでも、落とした。

通常であればもう少し、考えただろう。けれど落とした。

身に訪れた変化があまりに大きく、多かったのだ。

まるで想像もしなかった同性相手の『妻』という立場もだし、そもそもの住まいや暮らし、さまざまの状況――なにより、自らがひとではなく、『花』だということ。

どれが花としての知覚であり、ひととしての知覚であり、花としての判断であり、ひととしての判断であるのか――

本能も理性も惑乱しながら、新しい環境を学び、読み取り、馴染むことに必死だった。

これでもう少し時が経ち、落ち着いたなら、もしかしてカイトはがくぽの『体質』がそうではなく、『呪いである』と、はっきり見切れたかもしれない。そうしたなら、いわば『専門家』でもある当人と相談し、どうすべきか、ともに方策を考えることもできただろう。

けれど結局、時は与えられなかった。

なにかがおかしい』という本能の警鐘が、理性に呑まれても抑えきれなければ、募る想いを告げたいカイトの咽喉は閊えた。

閊え続けて、告げたい想いを喰らい潰し、腹の奥底の底へと押しこみ続けた。

なにかがおかしい』ままの相手に、もっとも本能的なこころを与えるのは、あまりに危険だからだ。

それでも日々、募り募る夫への想いが溢れこぼれて、こちらのほうこそがもはや留め置くに危機的となれば、自らの掻き鳴らし打ち叩く警鐘も振りきって、ようやく想いを告げようとした。

その日の、そのときに――

思わぬことから、呪いは払われた。

払ってしまった。

南王が末の子に与えた、長の歳月に渡って心身を蝕み、苛んで苦しめ続けた、おぞましい呪い――

なにを思ったか、南王は自ら胎を痛めて産んだ末の子の、夜と昼の成長を分けた。

夜はそのまま、自然に任せて成長させ、昼にのみ手を加え、無理やり時間を早めていたのだ。

毎日まいにちまいにち――

がくぽがどれほど痛み苦しみ、もがき、疲弊しきって生きてきたことか。

先にはいずれ、自らを産んだ親に喰いきられて死ぬというさだめを抱え、どうしてさらに生きている間も毎日二度、必ずこうまでの激痛に晒され続けなければならないのか。

がくぽは、知らなかった。ほんとうに、知らなかった。

ただ自分の体質ゆえのことで、南王という最強の種と、最弱の種たる人間の父親とを掛け合わせたがための弊害のようなものであって、誰かが故意に謀ったがためのものではないと。

違う。

体質ではなかった。夫は謀られたのだ。

いずれ長じたなら自分を喰いきる気の親に、南王に、呪いをかけられた。

「なぜ――」

どうして、そこまでするのか。

カイトはまるで、自らがそうされたように――自らがそうされる以上に、より激しく、強く、手もつけられないほど、憤りを募らせる。

最弱のと謗り、嘆き、踏みつけにして、まだ足らずに、どうしてそこまでするのか。

自らの胎を痛めて産んだ、末の子だろう。愛情はいや増しこそすれ、慈しんで甘やかすことのあれ、どうしてこうまで過酷な仕打ちをするのか。

人智を超えた、人智で計れない、人智と相容れない――ために、『魔』の冠を与えられたのが、南王だ。

理解することも、共感することも、許容することもできない。

過ぎ越して諦念とともに、ひとは南王へ『魔』の冠を与えた。

無力感と絶望感と、なによりも強いつよい拒絶と忌避と抵抗とを露わとして、『神』ではなく『魔』の冠を。

――そうやって抑え難く憤りながら、カイトは立ち直れない。固まって、身動きが取れない。

「なぜ」

なぜ?

なぜ――なぜ、なぜ、なぜ。

なぜ……………――

永遠にくり返されるような問いの、その先。

先のさきのさきの、さらに先のさきのさきの……………――

「っ、っっ!」

怏、おう、と――

咽ぶカイトに慰めといたわりが降り、やわらかに抱きくるまれる。

呪いは払われ、偽りは消えて、カイトは夫を『取り戻した』。南王の呪いを跳ね返し、夫を解き放ってやったのだ。

なにを悔いることがあろう、なにを嘆くことがあろう、なにを――

花の、大地の、同胞の慰めといたわりに、カイトは拳を固めた。地を、叩き伏せる。一度。拳はそれ以上、上がらない。上げられなかった。上げる気力もなかった。

「それでもあれもまた、私の夫だった!!」

叫ぶ。

――ようやく、言えた。

衝撃の理由を、立ち直れないまでの悔恨の理由を、カイトはようやく声として、発することができた。

実のところ、それがほんとうに声として発されていたか、わからない。それで構わなかった。これは独白であり、声を必要としない同胞らへの訴えであったからだ。

カイトは滂沱と涙を流しこぼしながら、ようやく大声で、胸を張り裂き、叫ぶ。

「それでもあれも含め、私の夫だったものを!!」

――『私の夫』というのは、誰のことで?

茶化すようだった、青年の問いが蘇る。未だ半日も経ていない、つい今朝のことだ。

問われたときのカイトの驚きは、口で言い表せない。

同時に、そう口にした青年の苦渋の想いを、ようやくこぼされた懊悩の欠片を、そのとき即座に拾ってやれなかった自分の愚かさもまた、口で言い表せるものではない。

なにをきっかけにかは、知らない。知らないが、きっとカイトのためだ。

花たるカイトがいて、本能的に呪いを嗅ぎ取って忌避するカイトと暮らし、過ごすなかで、カイト自身は意識もしていない、なんの気もない言葉や態度の端々から、きっと青年は気がついたのだ。

思い至った。

もしかして自分は、『偽り』なのではないかと。

それまで信じて疑わなかったものが、諦め受け入れていたものが、あり得ないことなどあり得ないのだからと言い聞かせてきたものが――

敏い夫だ。聡明で、よく見て、よく気がつき、よく判じた。きまめで気が利く。こまかなことを拾っては、カイトがいっそ呆れるほど、気を回した。

夜になれば安らいで穏やかに過ごすカイトが、昼になると浮つくことを、なかなか安らげないことを、どれほど苦悩しただろう。

呪いが妨げとなってうまく根を張れず、不安定に陥っては揺らぎ、実際の体でもって不足を補おうと懸命に縋るカイトを抱きしめるたび――

そのたびに思い知らされ、どれほど傷つき、絶望したことか。

戦いに赴く夫へ、カイトはその力になりたい一心で、夫を喪いたくないがために、王の花としての力のすべてを尽くし、与えた。

覚えている最後の顔が、口づけの前、輝くようなあの笑みであれば、よかった。

まるで日の光を映しとったような、眩くて見ていられないほどの、それでもずっとずっと見ていたいほどの、あのすばらしい笑みが、最後の顔であれば――

くちびるを離したとき、青年は驚いた顔だった。あまりに大量の、強大な力を吹きこまれたのだ。

驚いて――

歪んだ。

苦痛に、気も狂わんばかりの激痛に、けれどなにより、絶望に。

南王のかけた呪いが、王の花の力に払われる。呪い、そう、昼の成長を不自然に歪め、時を早める。

がくぽの昼の顔、青年であること、青年たる人格をこそ。

全身を捏ね上げられ、つくり直される激痛に悶え転がり、堪えきれもせずに苦鳴を上げながら、昼の青年は絶望しきっていた。なにが自分に起こっているのか、行われているのか、この結末を、悟っていたのだ。

そのために絶望し、――諦念とともに、笑った。

ああやはり、偽りか、と。

ゆるされないのか、と。

諦めきった絶望の笑みでカイトを見つめ、声にならない言葉を最期に、昼の青年は喪われた。

見たくもない、考えたくもない、立ち直り難い衝撃――世界を拒み、閉ざさずにはおれない、その理由。

ひとであっても受け入れ難いことであるが、カイトはひとではなく花だった。情が強い。

ひとよりよほどに情が強く、ときに唖然とするしかないほど苛烈で、潔く、いのちを尽くして悔いもない。

そのあまりに強く深い情を与えた相手を、想い募らせ尽くさんとした相手を、まさか自らの手で潰えた。

声が、声となっていたか、定かではない。構わなかった。カイトはただ、吼えた。轟と、轟々と、――

「あれも夫であるのにあれもまた、私の夫であったのに!!私をもっとも愛し、慈しみ、必要としてくれた、夫であったのに!!私をもっとも愛し、慈しみ、必要としてくれた、私の夫を私の夫の半身を――」

狂乱し、滂沱と流れる涙を止めるすべも知らず、カイトは叫ぶ。喚く。啼く。

「私が殺した!!」

カイトは天を仰ぐ。

視界は色彩だ。光があり、影がある。すべてのものがあって、うつくしく、やさしく、あたたかい。

けれど夫はいない。

喪われてしまった。喪ってしまった。自らの考えなしのために、短慮のために、浅はかであったがために!

「ゎ、たし――わた、し、が……私が、私は、私の手で、私の力で、夫を殺した。私が、私こそが、私の夫を、殺した――」

喘ぎ、自らの罪を認め、受け入れて、カイトは呻いた。

「私が、もっとも愛おしみ、慈しみ、求めた夫であるというのに――『あれ』で夫は、私の夫であったというのに」

半身を、欠けさせてしまった。

半身を、奪ってしまった。

喪わせて、しまった。

それも、あんな手酷い絶望を与えて、ひとりきり、かなしいままで、報いもしてやらないうちに。

怏、おう、と――

狂い乱れて泣き叫ぶ子に、取り返しもつかないほどの傷を負ってしまった子に、大地が、同胞が、轟き震える。

誰もなにも、間違えていないはずだ。

偽りが明かるみとなり、呪いは払われ、道は正された。

それでいったいどうして、こうなるものか――

問われたと、カイトは受け取った。問いであり、答えであると、カイトは理解した。

青年とともに失われた光が瞳に宿り、カイトは奥歯を軋らせた。

呑みこみきれないものを呑みこみ、堪えきれないものを堪えきり、抑えきれないものを抑えきって、吐きだす。

「あれらが、――あれらは、あれらで、私の夫だった。あれらこそが、私がなにより愛する、唯一の夫だ」

絞りだし、カイトは拳を握った。上げる力もない、ただ爪だけが深くふかく、皮膚に食いこむ。

「私に夫を、かえせ」

それは、声になった。