なんだか、『全部うまくいく』というのは、ひどく難しいことのようだ。

カイトは記憶に過去と今とを行きつ戻りつさせながら、小さく肩を落とす。

がりくった道

2-7

がくぽが記憶を失った。

それはがくぽの過失に因らず、彼はむしろ被害者だ。たとえば失った記憶がすべてではなく、カイトと出会ってから恋人として過ごした期間だけだとしても、別に狙ってやったことではない。

事故だ。

がくぽは被害者で、がくぽこそ、こんなふうにして恋人との記憶を失くしたくなかったはずなのだ。

そうやってがくぽが記憶を失って、恋人関係を解消し――

紆余曲折があったものの、また募った想いを通じ合わせ、恋人と成ることができた。

記憶が戻ったわけではない。これからも、がくぽの記憶が戻ることはない。

そういった類の、記憶の喪失事故だった。

人間ではない。ロイドだ。戻る記憶と戻らない記憶の線引きは明確で、基準が揺らぐことはない。たまさかの偶然に、可能性が垣間見えることはないのだ。決して。

がくぽの記憶が戻ることはない――初めにカイトを口説き、カイトの初めての男であった、その瞬間の記憶は。

それでもいいと、カイトは思うのだ。少し寂しい気分があることは認めるが、どのみち『モトサヤ』、また恋人と成ったのだ。結果がすべてだ。

それでいい。

はず。

なのに。

「………ぅまく、いかな………」

「うれしそうな顔をしなさいって、言ってるわね、あたしはいつも!」

「んっ!!」

撓る鞭のような声に打たれ、カイトは呻いた。もちろん、声に打たれただけが原因ではない。実際の衝撃もある。

住居とするマンションの2階にあるダンス用スタジオの片隅――力なく床に座りこんで休憩もどきを取っていたカイトの頭を、半ば潰す勢いでメイコが上から抱えこんできたのだ。

ところでメイコの胸は、女声ロイドの中でも豊かな部類に入る。単純な女性と見た場合でもそうだ。

そして今はダンス練習用に薄着で、つまりなにが言いたいかといえば、男声であるカイトの頭をメイコは臆面もなくその豊かな胸で挟み撃ちにしているということだ。

カイトは男声だ。メイコは女声で、胸が大きい。大きな胸でカイトの頭を挟み撃ちだ。

うれしそうな顔を――

「だれのための曲だと思ってんの?!こんだけの美女美少女に美少年まで取り揃えた夢ハーレムの旦那さま役なんだから、あんたもうちょっとうれしそうな顔してなさいって、これ何度目?!」

「い、っぱい!」

カイトの頭を豊かな胸で挟みこんだ上で伸し掛かり、さらには撓る鞭に似た声音で畳みかけるメイコの問いだ。単純にうれしい顔をするのも、多少の難が認められる。

とはいえ抗議は後だ。カイトはとりあえず、己に可能なだけ素早く、メイコからの問いへ回答を放った。

具体性に欠けること甚だしく、これをして回答と認めるかどうかは相手次第だが、相手はメイコだ。

「そうね。『いっぱい』よ。あたしに『いっぱい』言わせておいて、まだ身に沁みないんだわ、あんたって子は!!」

「ごむ、っぎゅ!」

――回答とお認めいただけたうえで続くお叱りに、カイトは謝ろうとした。が、叶わなかった。掛かる体重を増やされ、堪えも利かず潰れたのだ。

機械部品入りとはいえ、ロイドの中でも体の柔軟性が高めであることに、これほど感謝したことも――結構、たくさん、頻繁に、ある。特にメイコといるときだが。

ちなみにカイトの柔軟性を試して鍛えてくれる次点はがくぽだが、その理由はメイコを相手にしたときとは違う。詳細は省くが、しかし柔軟性の高さには感謝しきりだ。

「やわいわね!」

「ぅうう………」

反省の色もなく言ってのけながら、メイコはカイトを抱き起こす。起こした頭は再び胸に抱えこまれた。

カイトもカイトで、馴れというものがある。ことに振りほどこうともせず素直に頭を預け、むしろ顔を上に向けることでさらに胸に埋まった。

「めーこ」

見つめて呼ぶと、メイコはあからさまに眉をひそめる。ダンス練習だからと軽めに、リップクリームだけを塗ったくちびるが開いた。

「カイトのくせに余計なこと考えてんじゃないって言ってるでしょ。どうせ考えたってろくなものじゃないんだし、あんたなんかなんにも考えないで、ほえほえ甘やかされてたらいいのよ。考えるのなんかボケナスにヤらせておいたら十分だわ。あれは『考える』の変態よ。悩むのが趣味で生きがいでゴラクなんだわ。それであんたは甘えるのが仕事で役目で存在意義ってもんなのに、ひとの仕事で役目で存在意義にまで足突っこもうとするから、回るものが回らなくなるんじゃないの」

口早に、連射式の銃が如くの勢いで吐き出され、カイトは瞳を瞬かせた。

瞬き、首を傾げる。片耳がやわらかな胸に埋まり、カイトは再び瞳を瞬かせた。

顔を上げ直し、忌々しそうな表情で見下ろしてくるメイコと目を合わせる。

「めーこ。おぶら」

――実のところ、単語を並べただけでも意思の疎通というのは十分に図れる。図れた。

カイトが並べた端的にも過ぎる単語から意を汲み取ったメイコは、頭を抱く胸を殊更に張り出した。だけでなく軽く上体を揺さぶり、その感触を強調までしてくれる。

「新発売のスポーツブラよ。どうよやわらかいでしょう、ナマ乳と変わらないでしょうだからちょっとはうれしそうな顔しろって言ってんのよ、カイトでも男なんだから!」

「んー。『んへ』?」

「愛想笑いするな、このヘタクソっ!」

「ぷぃいーーー………っ」

――この手のいわゆる『逆セクハラ』はあまりに日常と化していて、正直、カイトとしては反応のしどころやしようがわからない。

しかし『とりあえず笑う』はだめなようだと、伸し掛かる角度を変えたメイコの胸に顔面を塞がれてもがきつつ、カイトは思考の片隅でメモをつくった。

そうとはいえ、このメモを活用する日が来る気はしない。以前にもつくったような気がするからだ。

だからこの手のことは日常なのだ。いつでもこうだ。ということは以前にもきっと同じようなことで同じようなメモをつくって、しかしてやはり活用されないから今また怒られて――

『記憶を失くす』ことなど、カイトには大したことだとは思えない。

それがたとえば恋人の存在そのもの、恋人に関する全記憶であったとしても――

大したことだろうか。

こうして続いていても日々、忘れていることなど山のようにある。

忘れて気がつかず、あるいは気がついても思い出せないようなことなど、数え切れないほどいっぱい。

そんな旧型同士の、出発点と着地点が見えない、ために自発的には終わることがないじゃれ合いを止めたのは、同じく豊かな胸を持つ女声型ロイド、巡音ルカ――ルカだった。

「一寸、メイコ。貴女ったらどうしてそう、乱暴なんですの?」

ルカはカイトの顔を胸埋めの刑に処していたメイコを嗜めつつ、傍らに座った。

ただし単に『座る』には終わらない。ルカはカイトの右腕を取って抱きこみ、やわらかな体を殊更に密着させてくる。

前述したように、ルカもまた、豊かな胸を持つ。そしてメイコと同じく、ダンス練習に来た今日の衣装は薄物で、無防備だ。

言うならカイトだとてマフラーはしていないし、コートも着ていない。上に着ているのはダンス練習用の、肌に吸いつくようなシャツ1枚、いわば薄物同士というもので、さらに互いの感触が近くなる。

しかしてルカは、恥じらうことも躊躇うこともない。カイトの右腕は、ルカの胸にきれいに挟みこまれた。

だけでなく、体は必要以上に密着しているのだ。右半身がやわらかさに埋まっている。

その状態で、ルカは呆れたように眇めた目をメイコに向ける。仄かに尖らせたくちびるを開いた。

「慰めたいのであれば、もう少しやりようというものがありません?」

「カイト相手に?」

「………心底から疑問もないようですわね。なにを可愛らしい顔をしていますの」

「はあ?」

呆れきって首を振ったルカに、メイコは意味がわからないと眉を跳ね上げる。

ルカは構わない。顔ではなく頭を抱えこまれる形に変わったカイトの表情を見て、絶望的だと瞼を落とした。

抱えこんだ腕を引き寄せるように、ルカはカイトの肩に頭を預ける。

「カイトもカイトですわ………メイコの言いように、疑問がありませんのね。反論もありませんのね……」

「んっ」

ため息のようなぼやきに、カイトは正直素直に頷いた。ルカの首が重なる絶望に落ちる。

しかして日常だ。

すぐさま立ち直ったルカは顔を上げ、触れ合いそうなほど近くからカイトの瞳を覗きこんだ。陶然とした色を浮かべて、微笑みかける。

「それでなにを悩んでますの、カイト……ああいえ、わかっていますわ。関係が結ばれた以上、貴方が抱える悩みは常に、恋人に絡むことですわ。で、カイト。今度はどう暴走しましたの、あの暴れん棒の竿だけ屋鷹揚な貴方でも堪えきれないような無体を強いたということでしたら、詳細をつまびらかに微に入り細を穿ってお聞きしたうえで、あたくしがお灸を据えてやりましてよ?」