My Lover is killed Me-03-
電脳空間にそびえる白亜の宮殿、人類の叡智の結晶とでも言うべき電脳図書館<ORACLE>。
いつ来ても威容に圧倒されるその門を潜り、エモーションはできるだけ気配を殺して、ここの主が居座す執務室へと向かった。
気配を殺したところで、中に入った時点でここの主にはすべて筒抜けなのだが、そこはそれ。
気分だ。
そっとそっと進み、執務室の扉に手を掛ける。ほんの少しだけ開くと、中を覗きこんだ。
居る。
いつもどおり、カウンターに向かって仕事をしている。ひとりだ。
それもそうで、彼ひとりでなければこんな冒険ごっこは成り立たない。
敏い守護者がいたなら、「なんの悪戯中っすか、お嬢さん?」などと声を掛けられて、すぐにも暴かれてしまうだろう。
不正アクセスには敏いが、正規アクセスに関してはひどく鈍い管理者相手だからこそ成り立つゲームだ。
とはいえエモーションだとて、悪意からこんなことをやっているわけではない。
きちんと理由がある。
「…」
息を殺して見つめ続けること、どれくらいだろう。
展開していたウィンドウすべてが閉じられた。まっすぐ伸びていた背が撓んで、緊張が緩んだことを示す。
カウンターを見つめ続けていたオラクルの顔が、どことなく彷徨い。
「オラトリオ」
つぶやかれる。
否、つぶやきというにはあまりにはっきりとした声音。確かに目的を持って、相手がいるからこその語感。
しばしの沈黙ののち、空間に小さな歪みが生じ、小さなデータを排出した。
「にょにょにょ~」
なんとも情けなくなる微妙な鳴き声とともに現れたそのCGは、猫とも狸ともつかないマヌケなキャラクタだった。
ぽこんと飛び出したおなかといい、まるっこいばかりで役に立たなそうな手足といい、完全に愛玩用だ。
いつものエモーションなら、「かわぃいいいい!!」とでも叫んで飛び出して行き、頬ずりしていただろう。
だが、今日の彼女には完全に目的があり、いくら胸がうずうず騒いでも、飛び出したりはしなかった。
一層息を潜め、オラクルを見つめる。
「オラトリオ」
CGに向かい、オラクルはこれでもかというほどに甘い声を上げた。広げた腕に、『オラトリオ』がゆったゆったと傾ぎながら、不安定な二足歩行で向かっていく。
大層のろまだが、キャラクタ慣れしているエモーションにはわかった。
あれでいて、走っているのだ。全力疾走だ。
「にょぉ~」
甘え声を上げ、『オラトリオ』はオラクルの腕の中に飛びこむ。オラクルは小さなからだをぎゅうと抱きしめた。
「オラトリオ」
呼ぶ声は甘い。本物のオラトリオを呼ぶときにも似ているが、なお一層甘いように聞こえる。
おそらくこれは、本来ならエモーションが聞くことはない、ふたりきりのときの特別な声音だ。
「オラトリオ」
「にょ~」
オラクルはただただ、名前を呼ぶ。全身が砂糖に浸されていくような甘い声で。
呼ばれるたびに、オラトリオとは似ても似つかない『オラトリオ』が、マヌケな鳴き声を上げて応える。
「オラトリオ……………オラトリオ」
甘い声は切ないほど痛々しく、オラトリオの名前だけを呼び続ける。
小さなキャラクタを抱きしめて、ひとりきりで、謳い続ける。
女性プログラムとして卓越した感性を持つエモーションには、わかった。
これは、オラトリオすら聞くことはない、オラクルのうただ。
ただひとりきりのときにだけ奏でられる、だれも聞いてはいけないうただ。
否。
奏でられてはいけない、「寂しい」と哭く<ORACLE>のうただ。
「…」
兄に頼まれてやったこととはいえ、自分のしたことのばつの悪さに、エモーションは項垂れた。
そっと扉を開き、静かに執務室に入る。その足取りは蹌踉として、処刑台に向かう罪人にも似ていた。
「ごきげんよう、オラクル様」
「…」
そっと声を掛けると、オラクルは一瞬、驚いたように目を見張った。
しかし、無意識下においてすべての訪問者を管理している彼だ。すぐさま、エモーションの存在を掴んでいたことを意識に上げて落ち着いた。
「やあ、エモーション。今日はどうしたの?」
無垢な子供のようなオラクルは、エモーションの訪問を純粋に喜んで立ち上がった。
その腕の中には『オラトリオ』が大切に抱かれている。秘密の行為に没頭していた疾しさは欠片もない。
「お察しの通り、A-E<EMOTION>ELEMENTAL/ELECTRO‐ELECTRAですわ」
「うん?」
ばか丁寧に挨拶されて、オラクルはきょとんと首を傾げた。
そのオラクルに、エモーションは叱られる寸前の子供の顔で頭を下げる。
「悪いとわかっていても、いたしてしまうA-E<EMOTION>ELEMENTAL/ELECTRO‐ELECTRAですわ、オラクル様。後悔しても遅いんですのに」
「…うん?」
オラクルには意味がわからない。
彼はエモーションがずいぶん前から来ていたことも、一か所で止まっていたこともわかっている。だが、彼女が『覗き』をしていて、自分が『覗き見られて』いたことについては、理解が及ばないのだ。
だから、エモーションの懺悔は唐突過ぎてついていけない。
しきりと首を捻るお人好しの管理者に、エモーションは弱々しく笑った。その腕の中に抱かれている『オラトリオ』へ手を伸ばす。
「オラクル様。いつでも、オラトリオ様がいっしょですのね」
「…うん?」
「にょぅあ~」
頬をつつかれて、『オラトリオ』が嫌そうに身を捩る。その様子に笑って、オラクルは一際強く『オラトリオ』を抱きしめた。
「『これ』は、オラトリオ様ですのね」
念を押したエモーションに、オラクルは雑音色の瞳を瞬かせ。
「うん。オラトリオなんだ」
これ以上ないくらい、しあわせそうに微笑んだ。