プライヴェートエリアは普段、穏やかな間接照明の中、キングサイズのベッドが鎮座ましましている。
眠るときには照明はわずかに暗くなるが、完全に消えることはない。
オラトリオが暗闇を嫌うからだ。
My Lover is killed Me-06-
だが、今、プライヴェートエリアは様相をすっかり変えて、真っ暗闇に沈んでいた。ベッドも照明もなにもない。
暗闇だけがあり、そこに沈むようにして<ORACLE>の主人格、オラクルが膝に顔を埋めて座っている。
足を踏み入れて、オラトリオは苦笑した。
天地左右の別すら失われている。
床面を意識して創り出さないと、まるで宇宙空間にでもいるような振る舞いになりかねない。
「オラクル」
怯えさせないように、ゆっくりと近づく。
オラクルは微動だにしない。小さく小さくうずくまって、世界のすべてを拒絶する子供のようだ。
「オラクル」
「オラトリオ」
声が返ってくる。
否、返ってきたわけではない。
それは放り投げられただけ。
返らないことを前提に、ただ耐えきれずに吐き出される苦しいこころ。
反響し、残響が空間を揺るがす。
オラクルは微動だにしない。
「オラトリオ」
ひとりきり、謳われるうた。
「オラトリオ…」
「にょぁ」
オラクルの腕の中で、耳障りな雑音が応える。
哀切なる声が吐き出され空間を揺るがすたびに、切り裂くように叩き潰すように上がる邪音。
吐き出されたものすべてを台無しにして、閉じこめる、――響かせないための、雑音装置。
だれにと言えば、だれでもなく、オラトリオのために。
「オラクル」
うずくまる背に、手を置いた。
冷たいからだを撫でる。わずかに走る震え。
背中を辿り、首を撫で、隠された頬へと差しこんだ手には、ひたすらに冷たさだけがある。
排熱量が多くて常にヒートストレスの只中にいるオラトリオのための、温度設定。
「…」
差しこんだ手で、オラクルの顔を持ち上げる。
素直に上げた瞳は、痛みに沈んで瞬いた。偽りの水を流すことすらない、オラクルの雑音色の瞳は、ただそこに浮かぶ色だけが激しくこころの裡を表す。
「泣くな」
囁きながら、目尻にキスを落とした。触れたぬくもりから、ようやく誘発される涙。
キスの痕から流れる雫に、オラトリオは笑った。
「そんな大層なこっちゃねえだろ。ただ、俺のことが好きだって、それだけの話じゃねえか」
「…オラトリオ」
ぽろぽろ、涙をこぼしながら、オラクルが掠れた声を上げる。
「にょ~」
腕の中の『オラトリオ』が、応えて鳴いた。
オラトリオは苦笑し、オラクルの腕の中から『オラトリオ』を取り上げる。
わずかに抵抗したものの、素直に渡したオラクルは、オラトリオと『オラトリオ』をじっと見つめた。
「おまえはちょっと遠慮してな」
「にょ」
わかっていない『オラトリオ』が、暗闇に溶けて消える。
データを消したわけではない。プライヴェートエリアから押し出しただけだ。
オラクルにもそれはわかったはずで、なにか言いたそうにはしたものの、盛大に泣かせることにはならなかった。
こぼれるに任されている涙を掬い、オラトリオは微笑みかける。
「気にすることねぇんだ。そんなの、男冥利に尽きるってもんで、大した負担になんかなりゃしねえんだよ。むしろ、俺って愛されてんだなって、うれしくなるだろう」
冷たい頬は泣いてもあたたまることも赤く染まることもない。
不自然なほどに白いまま、だからまるで彫像が泣いているようでもあって。
「うそだ」
「嘘じゃねえよ」
否定に、即座に応える。腕を伸ばして、硬いからだを抱きしめた。
ひんやり、冷やされていくからだ。
熱を吸い取り、ストレスを宥めて、恐怖に震えるこころを慰めてくれる。
出会ったときから、ひたすらに優しい相棒。
己の境遇を嘆くこともせずに、ただ自分のことだけを気遣ってくれた。否、今ですら、気遣われることばかりだ。
凶悪なほど無邪気に言葉をこぼすくせに、ほんとうに言ってはいけないことは決して言わない。
否、言ってほしい我が儘すら、負担になることを恐れて言わない。
笑って、しあわせだからなにも要らないと言い切る、その強さが、いつでも眩しい。
いつでも、悔しい。
「俺はおまえの守護者なんだぜ。必要とされて、求められたら、それがなによりしあわせなんだ」
囁きながら、泣き濡れる頬にくちびるをつけた。そっと、流れる雫を舐め取る。閉じられた瞼へと舌を這わせて、止まらない涙を啜った。
「応えきれなくて、おまえを苦しませていると思えば、確かに苦しい。おまえに求められているのに、全部与えてやれないと思えば、身を裂かれるようだ。おまえが寂しいと泣いているなら、俺のこころも泣き叫ぶだろう」
それは真実だ。
彼を守るために、健やかたらんために創られた自分は、彼が悲しめば、恐れれば、それを激しい痛みとして感じる。
耐えがたい苦痛は、オラトリオを苛み追い込むだろう。
だが、同時に。
「でもな。そこまでおまえに求められているんだ、必要とされているんだと思えば、天にも昇る心地になる。おまえがそうまで俺のことを想っているんだと、俺のことでそんな想いをしているんだと思えば、俺はだれになにを言われるより、強く確かに勇を得る」
「…」
暗闇の中で、オラクルの纏う色だけが、きらきら瞬いている。
これが自分の指針。
迷い多く、常に惑う自分を導き続ける光。
オラトリオは笑って、静かに見上げるオラクルに口づけた。くちびるから境界を融かす。
触れた手の感触も曖昧になり、隠すもののなくなったこころが、オラクルの前に捧げられる。
「触ってみろ。嘘じゃないことがわかるだろう」
声でなく告げたオラトリオに、硬かったオラクルのからだがやんわりと融けだした。
冷たさがぬくもりに、ぬくもりが熱さに変わり、捧げられたこころを包みこむ。
不快さとは縁遠いその熱に、オラトリオは空間を震わせて大笑した。
「触れてもいいのは、おまえだけだ。オラクル、おまえだけが俺のすべてに干渉していいんだ」