左手の婚約者:05

「…っていうか、出来るようになってないじゃん!!」

「そんなことないもん!」

部屋に入って来たとたんにキレて叫んだ明人に、額に氷嚢を乗せた剛が怒鳴り返す。その顔が赤いのは、快感ゆえでもなく、照れてでもなく、高熱を発しているがゆえだ。

結局あのあと、若さに任せて突っ走った明人が我に返ると、剛はぐったりしていた。

そのぐったり具合が尋常なものではなく、明人は後始末もそこそこに親へとヘルプコールをする羽目になった。

適当に誤魔化された話を聞いても、事態を正確にそれと察した明人の親は、大変冷静に剛の主治医を呼んだ。

そしてさらにこの主治医も大変冷静に若さの暴走を認め、大変冷静に明人をからかった。

いわく、基礎体力が違うのだから、そうそう無茶はするなよ、と。

自分の親に、剛の主治医、そして今さっき、剛の親にまでさんざんに若さをネタに弄ばれた明人は、年頃の少年の常として、怒り心頭に発していた。

それというのもこれというのもすべては!

で、あの怒声だ。

いいからいいから泊まってけ、と大人たちに薦められるままに剛が横になっているのは、明人の布団だ。

一応、シーツも布団カバーも新しいものに付け替えたし、換気もしたので、事後のあれこれは残っていない。

「前だったらほんのちょっと触るのも無理だったんだよ?!
興奮したら即アウトだったんだから、これだけ出来るようになったのすごいんだからね!!」

きいきいと叫ぶ剛の熱は、三十九度を超えている。腕には点滴が繋がれていて、しかもこれはあと何回か付け替えて新しい薬を注入し続けなければいけないらしい。

ここまで苦しめるつもりではなかった明人としては、反省を通り越して、逆ギレしたいところなのだ。

「だからって言って、毎回こんなんなってたら怖くて触れるわけないでしょ!」

「毎回なんてなんない!」

部屋の隅っこに座って不機嫌に言う明人に、起き上がる力もない剛はそれでも強気に叫ぶ。

「体力がないだけだもん。運動らしい運動なんてほとんどできなかったし、ご飯もあんまり食べられなかったし。でも、先生ちゃんと言ったもん。
これから三食きちんと食べて、運動もちょっとずつやったら、高校卒業するまでにはふつうの人みたくなれるって!」

それは聞いた。それぞれの親から、からかわれつつ、そういうことだから大目に見てやって、と。

だが、そういった予備知識もないままに無茶をする羽目になったのも、肝心の剛がまったく制止しないうえに説明しないからだ。

そんな隙がどこにあった、という自分の所業は棚に上げて、明人は鼻を鳴らした。

「一回だったら、だいじょうぶだもん。一回だったら、こんなふうになったりしないもん。一回だったら、う…ふぇ」

「…」

ぐす、と洟を啜る音に、明人は頭を抱えた。

そうしながら、剛はしつこく、一回いっかい、とくり返している。

つまり、何度も何度もやってしまった自分の若さが悪いと。

「悪かったよ、どうせ若いよ青いよ、僕は!」

そっぽを向いて叫んだ明人に、剛はぐずぐずと洟を啜った。

「あきとぉ…」

熱っぽい声に呼ばれて、明人は耐えきれず、しおしおと剛の枕元へ行った。

布団に埋まる剛は、頬ばかりが紅く、そのほかの肌の白さはほとんど透明といっていいほどだ。

そんな状態で、剛はのろのろと手を上げ、明人の服を掴んだ。

「一回だけだったら…だいじょうぶ、だからぁ…」

「…」

ここに至って、ようやく明人は理解した。

剛は恨み節を垂れていたのではない。おねだりをしていたのだ。

これに懲りずに、自分に触ってくれと。

今、物凄く苦しくて辛いはずなのに、そんなことを言える剛がすごすぎて、明人は呆れ半分、感心半分にため息を吐いた。

そのため息を勘違いして、剛が眉間に皺を寄せて考える。

「――舐めるだけだったら、たぶん…、一回じゃなくても、だいじょうぶだよ…?」

「…」

なにを言っているのだ。

もしかして、ほんとうに明人のつーくんは頭が悪いかもしれない。

確かにやらせたのは自分だが、そう何度もお願いしようとは思っていなかった明人は、裏腹な体が疼くのに小さく舌打ちした。

下ほどではないが、口も気持ちよかった。

吐き出したものを苦労して呑みこみ、得意そうに笑う剛はこのうえなく魅力的だった。

「…あきとぉ」

年下の婚約者に甘えることを恥とも思わない高慢な彼は、苦しい息の下で懸命におねだりする。

人としての良識をそれなりに持っている明人は、ごほ、と咳払いし、厳然と告げた。

「まあ。そのときはお願い」

所詮は欲望に塗れた青少年である。

次を約束してくれた明人に、剛の顔が輝く。

そのくちびるに軽いキスを落とし、明人は傍らに腰かけてため息を吐いた。

「なにはともあれ、早くよくなってよ。つーくんが苦しいと、僕も苦しいよ」

「…ん」

神妙に頷く剛の髪を梳き、明人は枕に頭を並べた。

「僕のせいでつーくんが苦しいとか、ほんとやだ。
…それもこれも、つーくんがちゃんと説明してくれなかったせいだからね」

「…」

「なに、体力が戻るまでは僕に会わない作戦とか。高校卒業するくらいまで掛かるんでしょうその間に僕が心変わりしちゃってたらどうするの。
青少年舐めないでよ。
もうつーくんのこと知らないって、恋人とかつくっちゃってたら、つーくん体力取り戻しても意味ないじゃん」

日本に帰ってきても音沙汰なかったのは、体力がない状態で会いたくなかったからだと聞かされた。

もっと元気いっぱいになって、ふつうの人と変わらない状態になってから、会いたかったのだという。

今のように深窓のご令嬢も真っ青のか弱さでは、元気になって帰ってくる、という約束に反するから、と。

律義さもプライドの高さも認めるが、もう少し考えてほしい。

明人としては、生きている限りは剛を待つつもりだったが、青少年には罠が多いのだ。自分から飛びこまないように気を付けはするが、なにがあるかわからないのが人生。

まかり間違って「間違って」しまったらどうする気だったのだろう。

しかも、日本にいるとわかっていて、あの家にいるとわかっていて、三年間、どうやって会わないで行くつもりだったのか。

さらに極めつけにマヌケなのが、同じ高校に入ったことだ。

いくらなんでも、ご町内で、同じ高校で、三年間顔を合わせないのは無茶だ。

「…だって、我慢できないもん」

「は?」

掠れた声で、つぶやかれる。顔を上げた明人を、剛は熱のせいだけでなく潤んだ瞳で見つめた。

「六年間。ずぅうっと、ずぅうっと、次会ったら、抱いてもらうんだって考えて、がんばってきたんだよ。
次会ったら、明人に体中触ってもらうんだって、明人の体中触るんだって、ずぅうっと、ずぅうっと、それだけ考えてたんだよ」

「…はい?」

「明人は全然考えてないみたいだったけど、俺は六年前から、そればっかり考えてた。
帰ったら、明人とセックスするんだって」

それは、確か最中にも言っていた。

セックスできる体になりたかったと。

だがしかし、六年前?

「…つーくん、十一歳…」

「明人は九歳だよ」

剛は鼻で笑った。どこか自嘲めいている。

「したくてしたくて堪んなかった。明人があんなにしっかりしてなかったら、たぶん、とっとと押し倒してヤってたと思う。九歳じゃ、ろくに役に立たないだろうけど。
でも、それならそれで触るだけでもいいし、触ってくれるだけでもいいから」

熱に浮かされての譫言だろうか。そうだったらいいと思う反面、こんな譫言は怖すぎるとも思う。

当時の明人といえば、ただ、お花のようにきれいなつーくんが無邪気に好きだった。キスするとどきどきしたが、そのキスは口と口を合わせるだけのおままごとキスだ。

たまにつーくんは、なんとも言えない顔で明人のくちびるを舐めたが、…もしかしてあれが、発情していたとかいうだろうか。

呆然と黙りこむ明人を見ずに、剛は眉間に皺を刻んで目を閉じた。

呼吸が荒い。

苦しいのだろう。

「手紙はうれしかったけど、明人が俺のこと全然そういうふうに見てないってわかるみたいでいやになった。へこむんだよ、読むと。
あれしようこれしようって書いてあるけど、そっち方面は全然でさ。愛してるって書いてあっても、友達扱いみたいで、だんだん耐えられなくなった」

「…だれが読むかわかんないものに、そんなあけすけなこと書けないよ、つーくん…」

顔を起こし、明人は吸い飲みを取った。渇いたくちびるに宛がうと、かすかに咽喉が動く。

自分で自分に感心した明人だ。

つーくんの看病は久しぶりなのに、きちんと感覚を覚えている。

小さく息を吐き、剛は目を開いた。困った顔の明人をじっと見る。

「でも、俺はいやだった。明人に合わせて、当たり障りないこと書くのも。
だって、したいからわざわざ明人から離れたんだし、したいからあそこでがんばってるのに。
いちばん甘えたい明人に、いちばんわかってほしい明人に、いちばん嘘を吐くなんて」

「…」

どこまでも律義だ。それでもいいから繋がっていたいと思うのがひとの常ではないだろうか。

少なくとも、明人はとにかく繋がっていたかった。なにかしら縋る縁がなければ、永遠に別れるような気がして、不安で堪らなかったのに。

「会ったら、絶対我慢できないんだ。今回だって結局、我慢できなかった。
明人が触ってくれるかも、抱いてくれるかもって思ったら、ちゃんと説明しなくちゃとか、セーブしなきゃとか、全部」

「…どれだけ僕のこと好きなの、つーくん」

呆れたようにつぶやいて、明人はまた枕に顔を並べた。

霞む視界で天井を睨む剛の瞳は高潔で、そんな疚しいことばかりで頭が埋まっているようには見えない。

そう、昔から、剛はとにかく高潔で、凛としていて、その記憶ばかりが鮮明で、疚しいことを考えるようになった自分がひどく汚いもののように思えたものだ。

「クソ親父に嵌められさえしなけりゃ…ああ違う、クソ親父ズに嵌められなけりゃあ…」

「はいなに、つーくん?」

急に口汚く罵った剛に、明人はぎょっとして顔を起こす。

瞳を閉じた剛は、ひどい渋面だった。

「俺は帰国したことを明人に言うなって、親父どもに言ったんだ。これこれこうだから、って説明までして。あいつら、わかったって言ったんだぞ。なのに、結局言ってたじゃねえか…。
しかも、同じ高校なんて…」

「ああ、それはマヌケだよね。後出しで受けておいて、僕と同じとか」

「親父に言われたんだよ。親父の知り合いが理事してるから、通院とかいろいろ融通つけやすいからって。
ちゃんと通えるか自信もなかったから、親父の言う通りにしてやりゃあ…」

「…相変わらず、親のこととなるとけちょんけちょんなんだね、つーくん…」

明人も、今の高校は親に薦められたのだ。

実は、いくつか受けた中の、別の高校に通おうとしていた明人に、締切りぎりぎりになって、こっちのほうがあとあとおまえの人生にとって都合がいいから、と。

意味はわからなかったが、金を出すのは親だ。

もうひとつの高校にそれほど未練があるわけでもなく(そもそもそのころ、高校自体がどうでもよくなっていた)、明人は深く考えもせずに進路を変えたのだ。

おそらく親は、遅れて受験した剛の合格発表を待っていたのだろう。

つまり、二家共同で、子供たちを嵌めていたことになる。

剛とは違い、明人はそれをどうこう思わない。

いつまでも離ればなれで寂しい想いをしている子供を見るに見かねたのだろうし、誘惑の多いお年頃の子供たちが、青春の暴走に任せて道を踏み外すことを恐れもしたのだろう。

結果的には明人は満足だ。

こうしてようやくつーくんが帰ってきてくれた。

すぐそばで、その姿を見られる。触れることも、会話することもできる。求めることも、求められることも、与えることも、与えられることも。

「…僕はよかったよ。会いたかったんだ」

「俺はちゃんと触りたかったの」

強情に言い張って、剛は疲れ切って黙りこんだ。会話することも体力を消耗するのだ。

きつく眉根の寄った、苦悶する額に明人はくちびるを落とした。

「つーくんが望むなら、なんでも叶えるよ、僕は。だからとにかく、今はちゃんと休んで良くなって。
快気祝いに、また、舐めさせてあげるから」

「…」

ぱち、と瞳が開かれる。じぃいっと音がするほど凝視されて、明人は微笑んだ。

「舐めるだけなら、なんとかなりそうなんでしょ?
まずはそこからね」

まずはそこから、の出発点が間違っているような気はしたが、剛が求めているのはこっちだろう。

積もり積もった欲求不満が解消されたら、仲良く手を繋いで歩いたり、道端でキスしたりすればいいのだ。

渇いたくちびるにキスを落として、ざらつくそれを舐めた。息が熱い。

「まずは良くなってよ。…なんにもできないじゃん」

「…」

剛が笑った。

瞼が落ち、表情が苦悶に歪み、浅く熱い呼吸がくり返される。

熱に乗って立ち上るのは、焚き染めている香の匂いと、消し切れない薬の臭い。

鼻腔いっぱいにその香りを吸いこみながら、ようやく明人は実感した。

明人のつーくんが、帰ってきた。

明人の元へ。

FIN