聞こえるか聞こえないか、あえかな音。

扉をノックされたような、引っかかれただけのような、かすかで儚い――

Love My Nightmare

「………?」

布団に入り、今まさに寝に落ちようとしていたがくぽだが、耳聡く音を拾い上げた。

暗闇の中で訝しく瞼を開くと、自室と廊下との境、襖扉に顔を向ける。

がーくーぽー……」

入って来た声もまた、ノックと同じく聞こえるか聞こえないかの、あえかなものだった。

部屋の主の返答を待たずして、そっと開かれた襖から忍んで来たのは――

ねちゃったー………?」

「カイト」

こそこそこそっとかすかな声でささやきながら、襖を閉めたカイトはぺたぺたと布団の傍にやって来る。

がくぽは軽く身を起こすと、枕もとに置かれた小さな照明を点けた。

布団の傍らに座り込んだのは、紛うことなくカイトだ。きちんとパジャマも着ていて、寝る準備万端整っている。

布団から出ることなく、軽く身を起こしただけのがくぽは、わずかな訝しさと共にカイトを見た。

「………どうした?」

カイトは今日、もう少し新曲の譜面をさらいたいと言って、他のきょうだいと同じ時間にはリビングから引き上げなかった。

がくぽが付き合わなかったのは、カイトが一人で譜面をさらっていたわけではなかったからだ。

傍にはマスターがいて、カイトは彼女と、ああでもないこうでもないとやっていた。

がくぽとのデュオ曲でもない。

仕事となると途端に豹変するペア、カイトとマスターがこうなると、『若輩』のがくぽに口を挟む隙はなかった。

だからおやすみのキスだけして、がくぽは先に自室へと――

多少こまごました用事を片付けてから布団に入ったので、カイトがすぐに追いかけてきたというわけではない。

とはいえ、先に引き上げたがくぽを追って部屋にまで入って来るなど、ひどく珍しいことだ。

「んへっ」

なにかあったのかとやさしく訊いたがくぽに、カイトはひょっと肩を竦め、悪戯っぽく笑った。上目になると、しばしなにかを考える間が空き――

「えっと、ぅん、あのねっ。がくぽのとこに、『よばい』に来てみたっ」

「夜這い…………」

あっけらかんと放たれた言葉をくり返し、がくぽは笑うカイトを眺めた。

仄明かりに浮かぶカイトの笑みは、迫る暗闇に負けないほど明るい。いつもと変わることもなく――

「…………えっと、…………め?」

「いいや」

すぐに応えてもらえないことで、心配そうに首を傾げたカイトに、がくぽはようやく笑みを刷いた。軽く体を起こしただけで入ったままの布団をめくり、軽く揺らす。

「来い」

「ふひゃっ!」

笑って招かれ、笑みを取り戻したカイトは、いそいそと布団に潜りこんで来た。

カイトがきちんと布団に入ったところでがくぽは枕もとの照明を消し、自分もまた、中に潜る。

横たわった体にカイトも擦りついてきたが、がくぽからも抱き寄せてやった。

「んー………♪」

「………」

ゴキゲンな鼻声を漏らして胸元に擦りつくカイトに笑い、がくぽはわずかに体を離すと、前髪を掻き分けて額にキスを落とす。

くちびるの感触にぱっと上向いた顔に、やわらかなキスの雨を降らせた。

「ん、んひゃっ…………ふひゃっ」

「よしよし」

「んっ」

くすぐったさに身を捩って笑うカイトを抱きしめ直し、がくぽはその頭に顔を埋めた。あやすように、宥めるように、ぽんぽんと背中を叩く。

「………」

カイトは黙って、がくぽの胸に顔を擦りつけた。落ち着く場所を探すように、抱いた体はもぞもぞと身じろぐ。

がくぽは小さく笑うと、抱きしめる腕にわずかに力を込めた。

「朝まで、こうして抱いていてやる。ずっと傍にいてやるゆえ――安んじて、眠れ」

「……………」

吹き込まれた言葉に、カイトの動きがぴたりと止まった。

しばし沈黙があったが、寝落ちたわけではない。

ややしてカイトはがくぽに縋りつく指にきゅっと力を込めて、胸にすりりと顔を擦りつけた。

ただし先までの、どこか癇症にも思える動きではない。甘えるねこに似たしぐさだ。

「………わかる?」

「進歩したものだと思うぞ」

問いに、がくぽはからかうように答えた。

「去年までは、自分から動きもよれなかったろう。今年はお主自ら、俺のところに忍んで来たのだ。ずいぶんな進歩だと思うぞ」

「んー………」

あくまでもからかうような、軽い声音で続けるがくぽに、胸に埋まったままのカイトは納得しがたいように唸る。

首を傾げるような動きがあって、がくぽはカイトの背中に置いていた手を後頭部へと移した。さらりと短い髪を梳きながら、くすぐるように後頭部を撫でる。

「それとも、マスターに言われでもしたか俺のところで寝ろと」

「んーんっ。言われてない。もう遅いですから、寝ましょうかーって言われただけ」

胸に埋まったままぷるぷると首を振って答えて、カイトはひょっと顔を上げた。

闇の中、かすかに映るがくぽの笑みをじっと見つめる瞳は神秘を帯びて、ねこそのものだった。

「………その前に、『カイトさんもう、ご自分でしなきゃいけないことがわかってますから、大丈夫ですよね』って、言われたけど」

「………らしい言いようだ」

がくぽは笑って、カイトの後頭部をくすぐった。

マスターの言い方は、どうとでも取れる。

いっしょに譜面をさらっていたのだから、うたの解釈はもう、自分が手伝う必要もないだろうと言ったとも、もしくは――

「俺、進歩してる?」

ぽつりとこぼされたカイトの問いは、不安と期待に揺らいでいた。進歩していればいいと願いながらも、自分ではとてもそうとは思えずに。

がくぽが家族となる以前から、カイトは『ある時期』になると、精神がひどく不安定になる癖を持っていた。

自分では意味もわからない、理屈も不明なその揺らぎは、過去に『カイト』が自分で自分に初期化をかけてしまった日の前後に襲ってくるという。

ロイドが自分で自分に初期化をかけるという前代未聞の事態は、プロトタイプである『カイト』にのみあった、プログラム上のバグゆえの事故だったらしい。

今ではそのバグも取り払われ、カイトがいくら『うっかりミス』をしたところで、自分で自分に初期化をかけてしまうようなことは起こらない。

そのときに『カイト』がどれほど恐怖を覚えていたとしても、初期化をかけた以上、なにが残っているわけもない――

しかしカイトは毎年、その日の前後にひどく揺らぐ。

去年までは、カイトは自分から動けなかった。誰かが気づいてやるまで、ひとり揺らぎの恐怖に浸りこんでいるだけだった。

今年は違う。

こうして自分から、不安だとがくぽに縋りついてきた。

自分から。

それがどれほど、大きな一歩であることか――

「している」

やわらかな声音で、けれど力強くがくぽは言い切った。

揺らぐこころと揺らぐ声、そして夜闇に定かには見えなくても、きっと揺らいでいる青い瞳――

すべてを抱きしめてくるみこみ、守るように。

「………ふひゃっ」

眠り込みそうなほどの間を空けて、カイトは納得の笑いをこぼした。ぎゅうっとがくぽにしがみつき、ねこのようにすりりと擦りつく。

抱く体から力が抜けてようやく解け、がくぽに預けられた。

「ぁのね、がくぽ」

「ああ」

「今度、またね。あのね。………『よばい』しても、いい?」

「…………」

安堵にほどけて、笑いながら落とされた問い。

胸に埋まったまま擦りつくカイトを抱き、がくぽはその後頭部をやさしくやわらかに撫でた。

愛おしいひと。

強くて、弱くて、つよいひと。

なにより誰より、愛おしくて守りたい、大切なひと――

「そうだな。今度は本当に、『夜這い』してくれ」

「ほんとに?」

わずかに力を失ってこぼされたがくぽの言葉に、カイトは無邪気に首を傾げた。

がくぽは笑って、カイトが眠りに落ちるまでずっと、赤ん坊相手にでもするようにあやし続けた。