ふしゅ、と情けなく空気の漏れる音。
「あ…」
カイトは瞳を見張って、小さな瓶を見つめた。
そろそろまずいかな、とは思っていたけれど――
「どうしよ…」
途方に暮れてつぶやき、カイトはからっぽの瓶を情けなく振った。
FEELING MAKER
なんだというのだ。
普段からにこやかとは言えない顔をはっきりと渋面にして、がくぽは考えこむ。
どうも、カイトに避けられている――ような気がする。
少なくとも、朝起きたときは普通だった。朝食のときも――仕事に出かけるために別れるまで、いつもと変わったことはなかった。
それが、個別の仕事を終えて、家に帰って来たら。
微妙に、なんだか、距離を空けられている――ような。
なんというか、カイトの態度が、不自然なのだ。どこかそわそわして、落ち着かなくて。
けれどそれはがくぽの前だけで、ほかの家族の前ではいつものカイトだ。少なくとも見ている限り。
がくぽの前でだけ、カイトの様子は不自然で、ぎこちなく、そしてできれば関わりたくない、とでも言うようにそそくさと。
「…なんかさ?おにぃちゃん、おかしくない?」
ダイニングのテーブルに向かって悶々と考えこむがくぽの元に、とうとうミクがやって来て訊いた。その手には、メイコの秘蔵っこの日本酒の瓶と、猪口がある。
向かいに座ったミクは酒を注ぐと、その猪口をがくぽに差し出した。
「めーちゃんから」
「…………なんの陰謀だ!」
一時、問題を忘れて戦慄したがくぽに、ミクは肩を竦める。
「なんか、そうやってるがっくんが自棄酒かっ食らってたら、すごくおもしろい画になるからって」
「…」
素敵なお姉さまだ。
記憶を持っていようがいまいが、彼女にはなんの障りもないような気がする。
ありがたさの余りに涙がこぼれる心遣いに感謝して、がくぽは猪口を受け取ると、ちびちびと舐めた。
「なにやったか、心当たりないの?」
「あったら、疾うになんとかしている」
「それもそうだよね………がっくんだもんね…」
意味ありげなミクの言葉にも、がくぽは動じない。今はそれどころではない。
カイトだ。
なにを、避けられるようなことをしたのか――
避けられるのが怖くて、もはや彼がいるリビングに近づけなくなっている、現状。
「あ、ミク姉、邪魔」
「なんですと?!」
ダイニングの戸口からかん高く甘い声が無体なことを言って、ミクは振り返った。
携帯電話を構えたリンが、がくぽを狙っている。
おそらくは素敵お姉さまに、撮って来なさいとでも言われたのだろう。まさしく至れり尽くせりだ。
リンの様子で背景を察したミクは、それ以上なにか言うことなく、素直に立ち上がるとダイニングから出た。
「…貴殿らな……」
「あ、それそれ!いいよ、がっくがく!最高!」
頭痛を堪えて眉間に手をやったら、かえって煽った。かしゃかしゃと、軽快なシャッター音がする。
「…」
いよいよもって諦めというよりは悟りの境地に近くなって、がくぽは酒瓶を掴むと猪口へと傾けた。
「わーwwwwこれ、動画のほうがいいかな!」
「うん、そっちのほうがいいと思う。でも、ケータイだと画質悪いよね。せっかくこんないい画なんだし」
「あ、じゃあ、ちゃんとカメラ持って来る!」
所詮は悪魔な妹たちだ。
明るい声で携帯電話をしまい、リンは背中を向ける。
だが、ふと思い出した顔で立ち止まると、ミクを振り仰いだ。
「そういえば…あのさ、ミク姉。ミク姉が持ってるんだっけ?あれ…。ええっと、ちょ、ちょーこ?ちょこーん?ええっと、ほら、おにぃちゃんにあげた香水、つくってくれたひとの連絡先!」
「ちょこ………………?………ああ、調香師?…どうだったかなあ。ケータイに入れたような、入れてないような……。それがどうかしたの?」
唐突な話題に、ミクがきょとりとしてリンを見る。リンは記憶を探るような顔で、天井を仰いだ。
「えっとね、おにぃちゃんに訊かれたの。連絡先知らない?って」
「おにぃちゃんに?なんで?」
「なんでって…。香水、終わっちゃったからじゃないの?」
「終わった?!」
リンの何気ない言葉に、ミクが大げさなほどにドスを利かせた声を出す。リンのほうがきょとんとして、姉を見上げた。
「終わったの、香水?!」
詰問口調で迫られて、リンは一歩、後ずさった。
「知らないよ…!でも、ふつう、連絡取りたいって言ったら、終わったから新しいのくださいってことじゃないの?だってあれ、おにぃちゃん用に特別につくってもらった、一点ものじゃない。あのひとに頼まないと、お店では売ってないでしょ?!」
口ごもりながらも懸命に答えたリンから顔を逸らして、ミクは天井を仰いだ。
「そっか…。終わっちゃったんだ……」
「そりゃそうだよ…。毎日使ってるもん、そんな量が多いわけでもないし、終わるよ…」
「そうだよね…。毎日使ってるんだもんね…」
つぶやき、ミクはダイニングを振り返る。
黙々と酒を呑んでいるがくぽを見やり、かわいらしい顔を複雑に歪めた。
「毎日使ってるんだから…ねえ」
妹たちの会話はロクなものではないと学習しているがくぽは、ミクの言葉を聞いていない。
ミクは人差し指を口に当て、きりりと噛んだ。どうするのがいちばんいいかを考える。
どうすれば、いちばんおもしろいか…。
「まあ、いいや。とりあえず、おもしろ映像見られたから、今日はそれで」
「ミク姉?」
さばさばした口調で言うと、ミクは再びがくぽの傍らへ行った。胡乱そうに見上げるがくぽに、にっこり笑う。
「あのさ。今度おにぃちゃん見かけたら、ぎゅーって抱きしめついでに、におい嗅いでみて。それで、香水終わっちゃったかどうか、訊いておいて」
「あのな…」
ミクの言いようだと、がくぽはカイトを見かけるたびに抱きしめているようだ。実際にはそんなことはまったくない。
慣れてはいても、堪えようもなく起こる頭痛にがくぽが眉間に手をやるのに、ミクは笑顔のまま肩を竦めた。
「それで解決するから」
「なに?」
現金に顔を上げたがくぽに構わず、ミクはダイニングから出た。
不可解の文字をひらがなで顔に張り付けている妹の肩を抱くと、歩くように促す。
「まあ、ほんとに解決するかどうかは、そのあとの対応次第なんだけど」
つぶやきは、がくぽには届かない。
「…抱きしめて、においを嗅いで、香水が終わったか訊く。…と、解決する?」
残されたがくぽは、胡乱な顔でミクの言葉を復唱する。
いつもどおり、悪魔な妹に弄ばれている感が芬々だ。だがとりあえず、香水が終わったかどうかだけは訊いておこうと決める。
訊いておいて、と言われたものを訊かないでおくと、あとでなにをされるかわからない。
決めたところで酒に戻ったがくぽは、しばらくしてダイニングに顔を覗かせた相手に、瞳を見張った。
「あ、ほんとに呑んでる…」
「カイト殿」
呆れたのか感心したのかわからない口調でつぶやいたのは、問題のカイトだった。
なんとも言えないふうにがくぽを眺めてから、笑顔になる。
「ちょっと待ってて。今、おつまみ用意するから!」
「いや、カイト殿…」
そんな気遣いされても。
だが、がくぽがなにか言うより早く、カイトはエプロンを取ってキッチンへ入ってしまう。
どうしようか躊躇ってから、がくぽは立ち上がった。
キッチンへ向かうと、カイトは常備してあるナスをまな板に並べていた。
「カイト殿」
「ふわっ」
声をかけると、驚いたように身を竦めて振り返る。どこまでも驚いた顔で見上げられて、がくぽは首を傾げた。
「そう、気の入ったものをつくらぬでもいい。なんでも、ひとり寂しく酒を食らっている画を撮りたいだけだそうだから」
「え…」
きょとんとしてがくぽの言葉を吟味してから、カイトは笑う。
「ああ…うん。なんでこんなとこで、ひとりで呑んでるの?リビングでめーちゃんと呑んであげたら、喜ぶのに」
「…」
カイトがいるから、リビングには行きづらかったのだ。
ついでに、酒は自分で持ちこんだのではなく、おもしろ映像のための『善意』の差し入れだ。
ほわほわ笑うカイトに説明するうまい言葉が見つからず、がくぽは束の間俯いた。
それから、思い切ってキッチンに足を踏み入れると、カイトへと手を伸ばす。
「ほえ?!」
逃げようとする体を強引に引き寄せて、胸に抱きこんだ。首元に顔を埋めて、においを嗅ぐ。
「………香水が、終わったのか?」
「…っ」
腕の中で、カイトの体がびくりと引きつった。
「あ、その…っ」
「っ」
狼狽えた声を上げたカイトが、強い力でがくぽの体を跳ね返す。それだけでなく、後ずさって距離を取ると、俯いて首元を撫でた。
「えと………うん。終わった」
「…」
抱きしめた。においを嗅いだ。訊いた。
とりあえず、ミクに言われたことは一通りやったが、それになんの意味があるのか未だにわからない。
そのうえ、まったく解決した気もしない。
「……それが、どうかした?」
常になく困ったような笑顔で訊かれて、がくぽは眉をひそめた。
どうしたもなにも、ミクに言われたままにやっただけなので。
「いや…」
首を振ってから、言い淀む。
困ったような笑顔のカイトの瞳に、なにか揺らぐ感情が見える。ひどく、弱々しく、怯えるような。
カイトの抱える感情はわからない。けれど。
「……そのわりに、相変わらず甘い香りなのだな、と思うてな」
「え?」
カイトが揺らぐ瞳を見張る。
なにかおかしなことを口走っている、と自分でも思いつつ、がくぽは肩を竦めた。
「毎日つけているゆえ、香りが染みつきでもしたのか…。変わらず、甘い香りだ。いや、いつもとは違うのだが…とにかく、甘い香りがする」
「え…」
瞳を見張ってがくぽを見つめて、それからカイトは自分の手首を鼻に持って行く。
「…してるかな、そんなにおい…」
「香りなどというものは、自分ではわからぬものではないか?」
「それは…」
首を傾げるカイトへと、がくぽは一歩踏み出す。気がついたカイトがまた下がって、それから、首を振ると毅然と顔を上げて、自分からがくぽへと近づいた。
「変なにおい?」
神妙に、お伺いを立てる。
差し出された手首を掴んで体を引き寄せ、胸の中に抱きこんで、がくぽは首筋に顔を埋めた。
「…変ではない。甘くて、いい香りだ」
「…」
黙って、カイトが軽く身を引く。複雑な顔で首元を撫でると、戸惑うようにがくぽを見つめた。
「…おかしいか?」
「ううん…。変じゃないなら、別に…」
言い淀む。
その顔が、なにかしらの葛藤と闘って。
「…きらいじゃない?」
ぽつりと訊かれて、がくぽは花色の瞳を見張った。
どうしてそんなことを気にするのだろう。どうして、そんな、気弱な顔を。
それでは、思い違いしてしまう。カイトは――
「…悪くない」
どうにかこうにか、答えを返す。
その甘い香りが好きだ、と素直に言えればいいのだろうが、咽喉に絡んで言葉にならない。
「カイト殿の甘い香りは、悪くない」
だから、くり返す。
遠回しな、『好き』の言葉を。
黙っていたカイトが、ふにゃ、と笑み崩れた。
「ん、そか…。そっか」
「ああ、っ」
頷いたカイトは、いつもどおり、明るい笑顔でがくぽに抱きついた。ぎゅ、と一瞬抱きしめられて、すぐに離れる。
「あのね、肉ナスつくってあげる!あと、…」
「いや、だから…」
そう、気の入ったものをつくらなくても。
言い淀むのは、カイトの笑顔があまりにきらきらしいせいだ。どうしてか、ひどく弾んでいる。
ここまでやる気なものを、無碍に断るのも気が引けるのだが。
「とりあえず、浅漬け食べて待っててね!」
「…ああ」
冷蔵庫から、常備菜であるナスの浅漬けを出すカイトに、がくぽはいろいろ諦めて、ダイニングテーブルへと戻った。
なにがなにやらまったくわからないのだが、なにかが解決した手応えはある。
姉妹たちには悪いが、愉しい晩酌になりそうだ。
手際よくキッチンで立ち働くカイトを眺めながら、がくぽは緩んだ口に猪口を運んだ。