飛び上がって駆け寄り、がちゃぽは深月に抱きついた。

「ぬししゃま、ぬししゃま!」

「えええええ…………?!!」

ツッコミどころがあり過ぎて、リンとレンは素直に引きつって仰け反った。

だが今、いちばん問題なのは――

Peter Piper Picked a...-03-

「……」

深月は無言で、がちゃぽを見下ろす。

がちゃぽの顔はサンデーを食べていた名残りで、チョコレートとクリームまみれだ。

その顔を、スーツに擦りつけている。

そこらの量販店で買ったものではない。ブランドものの、さらにいうとオーダーメイドだ。

「やっべ」

つぶやいたレンが表情を険しくして腰を浮かせるのと同時に、深月はため息を吐いた。

ポケットからハンカチを取り出すと、がちゃぽの頭を掴む。

「どういう顔をしている、おまえ」

「ん!」

「げふっ」

素直に吐き出したのは、リンだ。少女として、出してはいけない擬音を出している。

苦々しい声音ながら、今までロイドに向けていることを聞いたことがないやわらかさで言い、しゃがんだ深月はがちゃぽの顔を拭う。

「あいしゅたべてたちょことね、にゃにゃばとね、みかとね」

「慌てるな。落ち着け」

「ぬししゃまにもあげゆ!!」

「ひとの話を聞かんな……」

手を引っ張られ、深月はおとなしくがちゃぽに付いて行く。

音を立てて場所を空けたロイドたちの奇異の視線を気にすることもなく、深月はがちゃぽが座っていた場所に目をやった。

飛び出した勢いでグラスは倒れ、サンデーは無残に床にこぼれていた。

「………ふぇ」

がちゃぽの瞳が潤む。深月は再びしゃがみこみ、そんながちゃぽの顔を覗きこんだ。

「倒したのは、誰だ?」

「………がちゃ……」

「どうして倒れた?」

「………とびらして…けっとばした……」

「そうだな」

「んくっ」

洟を啜りながら答えたがちゃぽは、そこで耐えられなくなって、深月の首にしがみついた。

「あいしゅぅ………っ」

「慌てるなと、常日頃言ってるだろう。だからおまえに泣く権利はない。泣く前に、つくってくれた人に謝れ。せっかくつくってくれたものを、おまえは無駄にしてしまったんだぞ」

「ふぇ……っ」

「ちょ、ちょっと、ミキ……」

洟を啜るがちゃぽに穏やかに理を説く深月に、引け腰のリンが、一応声を掛ける。

しかし当然のように無視して、深月は首にしがみつくがちゃぽを抱き上げると、マスターたち人間の集まるカウンターへと歩いて行った。

「ほら」

「………んっ」

奏の前に立った深月に促され、がちゃぽは涙に潤む顔を上げる。

揺らぐ瞳で奏を見つめると、洟を啜った。

「あいしゅ、ごめにゃしゃ………」

「え、いえ、そんな……っ」

震える声で、しかし確かに奏に向かって謝る。

気圧されていた奏は、慌てて首を振った。

「仕方のないことですよ。私は構いませんから……」

「ごめにゃしゃ……」

「あの、いえ、ほんとに……」

弱り切って、奏は深月を見た。平静な顔の深月のほうは、謝ったがちゃぽの頭をやさしく撫でる。

「ちゃんと謝れたな。良く出来た」

褒めてから、気弱な表情を晒す奏へ顔を向ける。

「悪いが、奏。材料がまだあるなら、もう一度つくってもらえるか。あと、後始末を」

「承りました」

途端に頼れる家政夫の顔になって頭を下げた奏は、再び困惑した顔を上げた。

「それから、ぼっちゃま。おズボンを……」

「ああ。適当に替えを頼む」

「はい」

頷いて、奏は踵を返した。

深月は首にしがみつくがちゃぽの頭を撫で、震える背中を軽く叩く。

「ほら、新しいのが来る。泣いてもいいが、食べられる余力は残しておけよ」

「んんん………っ」

むずかる声とともに、がちゃぽは顔を上げた。未だに涙は滲んでいるが、それでも笑みを浮かべる。

「ぬししゃま、だいしゅき……っ」

「ああはいはい」

おざなりに頷いた深月に、がちゃぽはますますうれしそうな顔になって、笑う。

「だいしゅき、ぬししゃま……!」

堪えきれずに爆笑したのは、「ぬししゃま」の兄だった。

凍りつく空気を掻き乱して、腹を抱えて笑う。ロイドたちはむしろ、とっておきのホラーを見た顔で、そんな若さまと、深月を見ていた。

とはいっても、カイトは含まれない。

常人には理解不能の札を貼られた天女さまは、二つ目のサンデーを片づけることに熱中していた。

「兄貴、椅子の上で馬鹿笑いするな。落ちるだろうが」

深月の申し立てる苦情は、なにかが違う。

兄の方は爆笑でにじんだ涙を拭いながら、そんな弟を手招いた。

「触らせてくれ。俺まだそれに触ってない」

「そういえばそうか」

「バカ様……っ」

熊が小さく悲鳴を上げる。

構うことなく深月は兄に近づき、伸ばされた手にがちゃぽの顔を触れさせた。

「……っ」

「俺の兄貴だ。これが『目』なんだ」

「……」

瞬間的に震えたがちゃぽに、深月は端的に告げる。

途端にがちゃぽは普通の子供のように素直に目を見張り、顔を撫でられるのを不思議そうに受け入れた。

「みえゆの?」

「訊くなら逆だろ。まあいい。見えるぞ。ひと月前よりだいぶましな顔になった。美味いもの食ってるか」

「ん。おいしーもにょ、いっぱいたべた」

「そうだな。肌のつやが違う」

「あとね、おふよはいってね、あわあわとか、ばちゃばちゃとかした」

「そうか。愉しいな」

「ん。ねんねもすゆの。ぽんぽんたのしーの」

「いいな」

「ん、いーの!」

顔を撫でられながら、がちゃぽは得意そうに笑う。

若さまも笑うと、がちゃぽから離した手を軽く振り、呆然としている友人の頬を叩いた。

「安心したか」

「どういう魔法だ………!」

ほとんど項垂れて、熊は呻く。

若さまは肩を竦めた。

「おまえ気がつかないのか。ミキの俺への世話の焼き方って異常だろ。それを子供に向けるともれなくこうなる」

「うーわ、まじかるまじっくきもちわるーいー」

「相変わらずだな、熊助………本音が駄々漏れだ」

兄の友人の態度に馴れている深月は、怒るでもなく、そうつぶやくだけで終わらせる。

若さまはそんな友人に、邪気のない笑顔を向けた。すでに三十路なのだが、そうするとひどく幼い印象になる。

「まあ一般的な子供に向けるとむしろやばいんだが………。このちんまいのだと帳尻合うだろちょうどいいと思ってな」

そして言っていることは、少しも無邪気ではない。

熊は洟を啜った。

「俺は涙目だ」

「奏タオル!」

言いつけられて、床の掃除をしていた使用人は端然と振り向く。

「雑巾しか手元にありません」

「じゃあそれで」

「いいわけあるか、この似たもの主従!」

叫んで、熊は深月を見た。

正確には、抱かれているがちゃぽを。

さっき、奏に声を掛けられたときには、まったく以前に逆戻りしていた。

なのに今、『マスター』とはいえ『人間』に違いない深月に抱き上げられて、さらに『マスター』以外の人間に触られて、それでも無邪気な子供に見える。

なにより、がちゃぽの手が深月に縋りついて、離れない。『マスター』に――

「ミキがいないとまだダメなんだけどな」

「おかげで、どこでもそこでも子連れだ。仕事が捗るぞ、兄貴」

仁王の笑顔を向けた弟に、兄はやはり、無邪気な笑顔を返した。

「そうか。いいことしたな俺。感謝の気持ちを込めて……」

「嫌味を嫌味と受け取れ、兄貴!」

「わかったわ!」

突如、リンがエウレカを叫んだ。

震撼する表情で己を抱きしめ、深月を見つめる。

「ミキって、真性だったのね……………!!」

「貴様は相変わらず………!!」

リンに向けた表情は、いつもの深月だった。ロイドを見下し、蔑む。

その態度に、がくぽも深く頷いた。

「成程。真性だ」

「貴様ら………っ」

深月は唸って、歯を軋らせる。

「ぬししゃま?」

「『しんせい』って、なんですか?」

問う声が重なり、深月はまずいものを突っこまれた顔になった。

そして、俗世に疎い天女を妻に持つ旦那様も。

「いやあのな」

しどろもどろに言い訳を探すがくぽに、リンが身を乗り出す。

「カイトさん、真性っていうのはね!」

興奮のままに説明しようとするリンに、がくぽは声を裏返すほどに慌てた。

「待て、リンカイトにおかしな知識を吹きこむな!」

「それもそうね!!」

即座に身を引いたリンの脇から、レンが小さくつぶやいた。

「変態ってことだよ」

「れーーーーーーんーーーーーーーっっっ!!」

「あぎゃーーーーーーっっっ!!!」

がくぽが鬼の形相を向けると同時に、レンはリンによってバックブリーカーを掛けられた。

「ああもう………」

主家で、主の前だ。何度も言うが。

奏は雑巾で涙を拭う。

「なるほど」

「カイト」

頷いたカイトに、がくぽはレンに向けていた顔を、慌てて奥さんへと戻した。

しかし誤魔化しを吐くより先に、カイトは不思議そうに瞳を瞬かせる。

「今さら実感したんですね?」

端然とした奥さんの言葉に、がくぽは項垂れて床に手を突いた。図らずも土下座状態だ。

「カイト………そなたに情けを問うのは何度目だ………」

「そういう細かいことは、あなたが数えてください」

つれなく言って、カイトは壮絶にいやそうな顔で見つめる深月と、抱かれて不安そうにしているがちゃぽを見た。

「泣きますよ」

「っ」

がちゃぽを差して言われ、深月は渋々と視線を外した。

不安そうながちゃぽの背を叩き、きつく抱きしめてやる。

「アイスが食える程度にしておけよ」

「………ん」

泣くなとは言わない。

洟を啜りながら笑って、がちゃぽは深月に擦りついた。