Simple Simon Says...-03-
リビングの床に、がくぽが大の字となって眠っている。
うたう、と言っても、起動して五日目のがくぽはまだ、うたえる曲が少ない。それでもカイトなら、同じ曲を何度もさらったりするのだが、そういう性格ではないようだ。
ひと通り知っているうたをうたうと、あとはカイトひとりにうたわせて、自分は横になってしまった。
そして気づけば、熟睡だ。
確かに昼下がりのリビングはあたたかくて、眠気を誘われるのもわかるが。
「…」
なにが愉しいのだろう。
自分で自分に疑問符を付けるカイトだ。
がくぽが寝ていることに気づいてからこちら、その寝姿から目が離せない。
きれいだ、と思う。
絨毯の上に散らばった紫色の髪は光を反射して、宝石でつくった糸のようにも見える。
長い睫毛も、通った鼻筋も、引き結ばれたくちびるも、すべてが最高の造形美を誇っている。
デザイナーはよほど面食いだったか、完璧主義者だったかのどちらか、あるいはその両方だろう。
美人は三日見れば飽きるというが、もう五日も経つというのに、がくぽを見ていて飽きるということがない。
むしろ、もっとずっと見ていたいという願いばかり強くなる。
「…」
知らず伸びていた手が、がくぽの頭を撫でた。
艶やかな髪は見た目だけでなく、触り心地も最高だった。上質のシルクを撫でているような手触りに、カイトは陶然となって瞳を細める。
起動して二日目にはマスターに撫でられて牙を剥きだしていたがくぽは、最近では迂闊にマスターに近寄らなくなった。
呼ばれると渋々行くだけで、相変わらず触られると全身の毛を逆立てて抗議する。
だからなんだか、こうやって触れることには躊躇いがある。あるが、触れてみたい――
それも、一瞬のことだった。
「あ…」
「…」
あまりにも寝覚めよく瞼を開いたがくぽと目が合い、カイトは慌てて手を引っ込める。
大の字のまま微動だにしないがくぽは、しばらくカイトを凝視し続けた。
「触れたいなら、触れればよい」
ややして放り投げられた、突き放す声の調子に、カイトは胸の前で拳を握った。
「でもあなたは、触れられるのが好きではないでしょう」
「だれがそんなことを言った」
感情の抑揚が読み取れない声に、カイトはなぜか胸が締めつけられて痛くなる。
自分がなににこれほど、こころを掻きむしられているのか、少しも見当がつかないのが、余計痛みを増すようだ。
「だってマスターに触れられるのを、あんなに嫌がっているではないですか」
「…そなたな…」
疲れたようにつぶやき、がくぽは眉をしかめた。
しばらく頭の中で言葉を転がしているようだったが、やがてなんとも言えない顔になってカイトを見つめる。
「そなたは俺の妻だろう。夫の俺に触れる権利があるのではないか」
「…」
それは、自分が答えた言葉だ。
がくぽは夫だから、妻の自分に触れる権利がある、と。
言ったときは本気でそう思っていたのだが、いざ自分が言われてみると、なにか違和感があった。
だが、なにが違和感の正体なのかはわからない。
がくぽと過ごして五日、わからない気持ちばかりが増えて、膨らんでいく。
苦しくてつらくて、無闇と叫んで泣き出したい気持ちに駆られる。
駆られるが、結局、なにを叫びたいのか泣きたいのかがわからなくて、一歩を踏み出せないまま。
「そういえば、腕枕をしてやっていないな。どうせだから今やるか?」
黙りこんだカイトになにを思ったのか、がくぽは表情を緩めるとそんな提案をしてきた。
広げた腕を揺らし、軽い調子で横になるように促す。
「…眠くもないのに?」
どこか挑発するように、カイトはつぶやいた。
がくぽは動きを止め、天井を眺める。思わしげに眉をしかめてから、カイトにすらわかる作り笑いを浮かべた。
「では、そなたに膝枕でもしてもらうか?あいにく、俺はまだしばらく横になっていたい」
「…」
がくぽは旦那様だ。旦那様だから、妻のカイトに触れる権利がある。カイトの膝枕を要求する権利がある。(それは権利ではなくて、むしろ義務であるのではないか?)
頭の中で言葉が回り廻り、カイトは知らず顔をしかめて額を押さえた。
いやだ、とこころが叫ぶ。そんなのはいやだ――
だが肝心の、なにがいやなのかがわからない。
がくぽに触れられると思うと、体が震える。
胸が締めつけられて苦しくて、泣きたくなる。思いもかけない言葉がくちびるからこぼれそうで、とてつもなく怖い。
だからといって、触れられたくないわけではない。
むしろ反対だ。
触れられたい。
頭を撫でられるだけでは足らない、顔をなぞられるだけでは足らない、体じゅう、隈なくすべて――
「…カイト」
カイトには読み取れない感情を宿して、がくぽが身を起こした。
しなやかな腕が伸びて、繊細な指が頬に触れる…――
「さわらないでください」
拒絶の言葉を、カイトは笑顔で告げた。
痛みに歪み、今にも泣きだしそうな、不安定な笑顔で。
どうして笑うのか、わからない。こんなに痛くて苦しくて、それでもどうして笑うのか。
けれど、顔は笑う。引きつるように、怯えるように、作り笑いを。
「さわったら、だめです」
カイトは、全身でがくぽを拒絶した。