がくぽは果てしなく途方に暮れていた。

起動して一週間になろうとしているが、こんなことのくり返しだ。

Wee-Wee-Wee-01-

「…あれ、がくぽさん――ええと、がくぽさんですよね?」

マンションのエントランスでひとり黄昏るがくぽに、声をかけてくるひとがいる。

いかにも自分はがくぽだが、この問いかけは実に無意味な問いかけ方法だと思う。

がくぽは量産型のボーカロイドだ。同じ名前で同じ容姿の自分がごまんといる。

不測の事態が重なって小グレモードに入っていたがくぽは、声の主に冷たい視線を投げた。

「あ、ええと、そうか。その、若さまのところのがくぽさん、ですよね。と言いたいんですが」

視線から意味をくみ取り、若さま、ことがくぽのマスターのハウスキーパー、奏は丁寧に問い直してくれた。

「その、なにをしていらっしゃるんですか?」

「そういう貴様こそ、なにをしている?」

問いに問いで返し、がくぽは奏の背後を見た。

スーパーの袋を両手に提げた奏の背中には、黄色い頭がふたつ、生えていた。

よく似た容姿の少年少女のふたり組が、奏の背中に小さくなって隠れて、顔だけ覗かせているのだ。

がくぽに入っている情報から判断すると、このふたりはがくぽと同じボーカロイド、シリーズ鏡音リン・レンだ。

リンのほうは美青年を前にした少女の常で、顔中輝かせて期待満々にがくぽを見ているが、レンのほうは敵愾心を剥きだしで睨みつけてくる。

どうでもいいといえばどうでもいいのだが、ここに鏡音シリーズがいて、それが奏の背中に張り付いているという光景はそれなりに不思議だ。

敏い奏はがくぽの視線の意味に気がつき、少し照れくさそうに笑った。

「僭越ながら、私のボーカロイドです。リン、レン、ご挨拶して。若さまのところに新しくいらっしゃった、がくぽさんだよ」

促されても、鏡音シリーズは奏の背中に隠れたままだった。

よく似た顔を見合わせてせっつき合い、それからリンのほうが心持ち身を乗り出す。

「初めまして、がくぽさん。マスター奏のボーカロイド、鏡音リンです。お会いできて光栄です」

精いっぱいつくったおしとやか声で、鈴を転がすように可憐に喋る。

丁寧に挨拶してから、リンは奏を窺うように見上げた。わたし、えらいでしょうと褒められるのを待つ猫に似た表情だ。

背中に隠れたままとはいえ、挨拶ができたことは確かだ。

奏は微笑み返して、スーパーの袋で塞がっている手で、苦心して親指を立てた。

リンはさらに表情を輝かせ、得意満面の華やかな笑みをがくぽに向ける。

思わず和み、がくぽは小グレていたのも忘れて、表情を緩ませた。

それをおもしろくもなく眺めていたのが、レンだ。

きみも、と促されたレンは、がくぽに向けて思いきりあかんべをして、明後日な方向を向いた。

「もう、レン!」

リンが尖った声を出すが、レンはますます明後日を向く。

――冷静にいってかわいくない態度であるのだが、なにしろ、奏の背中に張り付いたままだ。

がくぽは吹き出し、そうするとますますこの少年を頑なにしてしまうだろうと気遣って、口元を押さえた。

奏がため息をついて、申し訳なさそうに頭を下げる。

「ああ、もう…。すみません、がくぽさん。いい子なんですけど、とにかく人見知りが激しくて」

「人見知りなんかしねえよっ!」

威勢よく吠えるのだが、とにかく奏の背中から出てこられない。

奏によく懐いているようだと判断し、がくぽは口元に笑みを残したまま、鷹揚に頷いた。

しかし次の奏の言葉で、再び渋面に戻ってしまう。

「私たちは買い物に行った帰りなのですが…。がくぽさんは、なにをしていらっしゃるんですかお困りのご様子とお見受けして、声を掛けさせていただきましたが」

「…」

確かに、ひどくお困りだった。

状況を思い出すだに、腸が煮えくり返りそうなほど、自分とマスターに腹が立つ。

「…帰れない、のだ」

「え?」

恥を忍んでようやくつぶやいたがくぽに、奏は鳩が豆鉄砲でも食らったような顔になる。リンとレンも、興味津々といった態で身を乗り出した。

ますますいたたまれない気持ちに陥りながら、がくぽは吐き出した。

「鍵が開けられぬで、部屋に帰れぬ」

「…」

起動して、一週間。

家の中だけで過ごすことにも気詰まりを覚えたがくぽは、外に出てみようと思った。

一応カイトも誘ったのだが、彼はやわらかく、しかし取りつく島もない態度で、行きたくないと撥ねつけた。

だから、がくぽはひとりで、初めて外に出た。

初めての外だから、そう遠出するつもりもなく、近所を軽く散歩して、戻って――

エントランスで、途方に暮れることになった。

警備の厳重なこのマンションは、エントランスでまず個人認証を行わないと、内部に入れないつくりだったのだ。

人間であれば指紋、声紋、虹彩などのいずれかを合わせればロックが解除されるのだが、ボーカロイドにそういった個人識別ができるものはない。

そういう場合のためにカードキーもあるのだが、これはスロットすればいいというものではなかった。暗証番号が必要なのだ。

そこまでの警備状態だとは露ほども知らなかったがくぽは、部屋の鍵だけ持って出てきてしまった。

だいたいにしてが、マスターはなにも言っていなかったのだ。

あの朴念仁は、ボーカロイドがひとりで外出する可能性を、まったく考慮に入れていないのだろう。

「ダセッ」

「こら、レン!」

これ見よがしに嘲笑い、吐き捨てたレンの頭を、奏が押さえこもうとする。

荷物がいっぱいのスーパーの袋を持っているせいで鈍い動きのそれは、当然のことながら避けられてしまう。

そのままレンは奏の背中から離れて、さらにせせら笑った。

「だってそうだろ、ダッセぇの!」

「レンがくぽさんはまだ起動して一週間で、しかも初めて外に出たんだからこれくらいのことでそういう言い方をしない!」

説教しながら追いかけようとした奏は、服の裾を引っ張られてたたらを踏んだ。

まだ背中に隠れていたリンが、奏を掴まえたままなのだ。だが、少女の表情は強気だった。

「そうよ、レン。あんただってひとのこと言えないでしょ引っ越して来て初めて出かけたとき、あんたなんか、入り方わかんないようってべそ掻いてケータイ掛けてきたくせに!」

「かかかかか、かいてねえべそなんかかいてねええええ!」

「なによ、リンがウソついてるってゆうの目ぇ真っ赤にしてたくせに!」

「わあわあわあわあああああ!!」

かなり気を悪くしていたがくぽだが、目の前の遣り取りを見ているうちに、なんだかレンのことが憎からず思えてきた。

鏡音シリーズの設定年齢は十四歳、まだまだ虚勢を張りたいお年頃だ。

特に少年の自尊心の高さたるや、相当なものがあるのに。

こうも容赦なくへし折られてしまっては、立つ瀬がない。

頭を抱えてうずくまったレンに舌を出してから、リンは言い合いの勢いを借りて、奏の背中から飛び出してきた。

笑いたいような痛々しいような微妙な表情で事態を見守っていたがくぽの腕を取り、エントランスの認証口へと引っ張っていく。

「だいじょうぶよ、がくぽさん。カンタンだもん、すぐ覚えられるわ!」

「あ、ああ」

レンに向けていたものとは一転して、華やかな少女の媚態を見せるリンに、がくぽは少々戸惑いながら、おとなしく引かれて行った。

「あのね、あたしたちボーカロイドは認証カードを、ここのスロットに通してから、暗証番号を入力すると開くの。でも今日みたいにカードを持ってないなら、ここの数字ボタンで部屋番号を入力して、インターフォンボタンを押すの。そしたら、部屋のほうにインターフォンが回るから、部屋にいるひとにキーを解除してもらえばいいのよ」

一息に説明して、リンはやりきった顔でがくぽを振り仰いだ。

「カイトさんいるでしょうだから今日の場合は…」

「…いや、カイトだからな…」

今、リンが説明してくれたようなことなら、見ているだけでがくぽにもわかったのだ。伊達の学習能力と情報解析能力ではない。

だが、実行に移すには大きな弊害があった。

部屋にいるのは、カイトだけなのだ。

「あ、ええと、リン。カイトさんだから、それは無理だと…」

「ふえ?」

奏がごく遠慮がちに口を出し、リンは不思議そうに、猫のような碧瞳を見張った。

「カイトさんは若さまから、インターフォンが鳴っても出るなって言われてるから。がくぽさんがそれやっても、出ないよ」

「ふえふえええ??」

疑問符を飛ばすリンに対し、奏のほうは苦笑顔で、そういうことでしょうとがくぽを見た。

「ほんと役に立たねえよな、あいつ」

レンが小さく吐き捨てる。

しかしがくぽが反応するより早く、飛んで行ったリンがレンの鳩尾に膝を叩きこんだ。

「カイトさんの悪口言わないでインターフォン出ないなんて、深窓のご令嬢みたいで素敵じゃない!」

「いやそれもどうだ…」

思わず小さくツッコむがくぽだ。

奏が深々とため息を吐く。

「すみません…。リンは、カイトさんの大ファンで。神秘的で謎めいていて、憧れのお姫さ…いえいえ、もとい、天女…あうう…」

「無理はしないほうがいいぞ」

おそらく家で最強なのはリンなのだろう。往々にして女の子は強いものだ。

苛立ちも忘れて、がくぽは同情心たっぷりに奏を慰めた。

結局マンションの中には、奏がロックを外していっしょに入った。

がくぽたちの家の分も食材を買ってきたという奏とともに、なぜかリンとレンも揃って、がくぽたちの部屋に付いてきた。

インターフォンを鳴らしても応答がないことは承知のうえで、奏は部屋の前まで来ると、とりあえずインターフォンを鳴らした。

鍵を預かっていても、「ノック」して入ることは彼の礼儀なのだという。

インターフォンを鳴らして自分の家に入るという不可思議な体験をしながら、部屋に足を踏み入れたがくぽの耳に、カイトのうたごえが届いた。

がくぽの苦労など知らない「天女」さまは、のびやかな声で「歓喜のうた」をうたっていた。