「カイトさん、こんにちはっ!あのあの、マスター奏のところのリンですっ。覚えてくれてますか?!」
「はい、覚えています。お久しぶりです、リン」
Wee-Wee-Wee-02-
がくぽに対するときとはまた違う、精いっぱいおとなびて見せようとするリンの媚態に、キッチンに立った奏が苦笑を漏らした。
「すみません、がくぽさん。さっきも言いましたけど、あの子、カイトさんが理想なんです。ああいうふうになりたいって憧れていて」
「それもどうなのだ…」
憧れのアイドルに相対した女の子そのものではしゃぐ姿に、がくぽも割りいれず、カウンターに据えつけてある椅子に座って、肩を竦めた。
足元には小ヤンキーがいて、目つきも悪く、今時珍しい不良座りを開陳している。
冷蔵庫に食材を入れていく奏は、手際よくお茶の準備も始めた。
「なんでも、おしとやかで、凛としていて、揺らがなくて、そこにいるだけで絵になるひとだと」
「べた褒めだな」
褒められて悪い気はしないが、それにしてもまさにアイドルだ。
いや、昨今、アイドルでもここまで褒められることはないかもしれない。
奏は苦笑を深めた。
「そうは言いますが、カイトさんを見たひとは大抵同じように言いますよ。独特の空気を持っていて、近寄りがたい…孤高を体現したような、中世のお姫様もかくやと。あ、いえ。その…まあ、そんな感じに」
「だから無理をするなと言うに。お姫様扱いは仕方なかろう。いくらなんでも、浮世離れし過ぎているからな、あれは。王子様とかナイトとかいう雰囲気ではあるまい」
「…そうなんですよね。ボーカロイドとはいえ、あそこまで浮世離れしている方も珍しいです。現実のものとは思えないとか、天女が地上に降りたらこんな感じかとか。使用人の中には、なにを考えているかわからなくて怖いと言うものもいて…あ――いえ、これは失言です」
奏が慌てて口を塞ぐ。がくぽの笑いが苦くなった。
その地上人には理解不能の「天女」を妻にした自分は、かなりの勇者か愚者か。
今のところ、愚者に軍配が上がりそうな気配なのだが。
つくづく厄介な育成をしたマスターだ。
そうしておいて、地上にひとり置いておくのは不安定過ぎるからと、がくぽを旦那様に宛がった。
ほかのだれかを宛がわれたところで納得できないが、自分に務まるのかどうかも最近のがくぽにはわからない。
悩ましく顔をしかめたがくぽの足元で、行儀悪く吐き出す声がした。
「あんなん、なにがいいんだ。澄ましやがって、お高く止まってさ」
「他人事ながら、貴様には学習能力があるのかどうかが心配だ」
短時間の付き合いとはいえ、がくぽにもだいたい、この少年の傾向が飲みこめてきた。
大して腹を立てることもなく、しかし黄色い頭を片手で掴むと、容赦なく締め上げる。
「妻のことを夫の目の前で腐すな」
「てめえら男同士だろ!妻とか夫とかばっかじゃねえの!」
実に気持ち良く常識論だ。
ここに来るまでに、リンにもそれとなく、自分たちが夫婦であることをどう思うか訊いたのだが、あの少女はとことん夢見る年齢だった。
「きれいながくぽさんと、美人なカイトさんが夫婦なんて、すてき!」
――と、概略すればそんなようなことを言い切っていた。
実際はもっと言葉を尽くして夢いっぱいに語っていたのだが、それを細大漏らさずに思い出すとログが荒れる。
夢見る十四歳の少女はおそろしい。
それだけは深くこころに刻みつけた。
お茶の用意をしていた奏が、渋面になってカウンターを振り返った。
「こら、レン。ほんといい加減にしろよ。がくぽさんのこころが広いのをいいことに、あんまり甘えるんじゃない」
「だれが甘えてんだよ!マスターおっかしいんじゃない!」
カウンターに組みついて吠えたレンの頭に、奏は容赦なくゲンコツを落とした。
だが威勢は長続きせず、小さく呻きながらカウンターの下に沈んでいくレンを情けない顔で見やって、握った拳に目を落とし、ため息をこぼす。
「ほんと、若さまのようにはいかないよなあ…」
がくぽには理解の範疇を超えているのだが、奏は、若さま、ことがくぽとカイトのマスターのことが好きらしい。
尊敬が高じて好きになったのか、好きが高じて尊敬しているのか、どちらかはわからないが、かなり傾倒している。
まあ、どちらがどちらでも、がくぽの理解の範囲外であることには変わりはなく、世の中には悪食というものがほんとうに存在しているのだなあ、という呆れ半分、感心半分の対象なのだが。
「マスターがなんだと?」
とりあえず、奏の容姿はそれなりにいい。昼ドラに出てくるヒロインくらいのレベルはある。
そのヒロインが(男だが)、昼ドラそのものに、ダメ男(マスターのことだ)に引っかかって薄幸ぶりを曝け出すのが、今のところ、がくぽの最大の娯楽だった。
水を向けると、基本的にひとが好い奏は、がくぽの性質の悪い笑みにも気づかずに表情を緩めた。
「私がボーカロイドを持とうと思ったのは、若さまとカイトさんを見ていたことが大きいのですが…。鏡音シリーズを選んだのは、きょうだいに憧れていたからなんです。私は一人っ子なものですから…。その、若さまには昔から、実の兄弟のように接していただきまして、あんな素敵なおにぃちゃんになれたらいいな、と…」
「…」
最大の娯楽なのだが、奏の話には騙りとしか思えないほどに美化されたマスターが出てくる。
この背中に走る悪寒をどうしようかと思う反面、癖になりそうなまずい予感も覚えるこのごろだ。
がくぽの奇矯な表情には気づかず、奏は悩ましいため息を吐いた。
「ですが、現実はなかなか。若さまは、私やぼっちゃまが悪さをしてもなにをしても、声を荒げたり体罰を振るったりすることは決してなかったんですが。私は気がつくと、今のように手が出てしまって」
「それは相手の性格にもよるだろう。弟のほうはどうだか知らんが、貴様のする悪さなどたかが知れていよう。対して、この小僧はかなり憎たらしい部類に入ると思うぞ」
「知った口聞くな、ちょんまげ!」
流れ的に慰めるようになったがくぽに、奏は目元を染めて顔を背けた。
悪態をついた黄色い頭を鷲掴みにしたがくぽが思わず腰を引く間に、小さくつぶやく。
「いえ、私とぼっちゃまに比べたら、レンなんてかわいいものです…。ただ、ちょっと意地っ張りなだけでしょう。命の危険はないし、警察のご厄介になるでもないし…」
「…」
奏は二十代前半の青年だ。そのわりには家事は完璧にこなすし、料理もかなりの腕前で、器量もいい。こういってはなんだが、いい奥さんになれると思う。
それが、これでいて荒れた十代を送っていた――とか言われたら、起動一週間で人間不信に陥りそうだ。
微妙に不信感を山盛りにして、不良座りしている小ヤンキーを見下ろす。
話しているリンとカイトを粘着質な目で見ていたレンは、視線に気がついて、うるさそうに顔を歪めた。
「おまえな、夫だとか主張すんなら、アレをちゃんと管理しとけよ」
「学習しない頭だな。機能不全か?」
下のほうにある頭を小突き、がくぽも「妻」を見た。
主にリンがひとりで盛り上がって話していて、カイトは微笑んで頷いているだけだ。「管理」するのどうのというなら、むしろリンのほうだろう。
確かにがくぽはカイトを「妻」だと公言しているし、カイトのほうでもがくぽを「旦那様」だと言ってくれるが、そもそも――。
「そろそろお茶にしましょうか。リン!お茶を淹れたから運んで!すみません、カイトさん。お茶を頂いたら、すぐに引き上げますから」
「えええ!やだあ!あたしもっとカイトさんといっしょにいたい!」
奏の言葉に、今まで精いっぱいおとなっぽく振る舞おうとしてきたのを振り捨てて、リンはカイトの腕に組みついた。
「隣にいても、滅多に会えないのよ!もうちょっといいでしょ、マスター!」
「あああこら!離れなさい、リン!人妻に気安く抱きついちゃいけません!」
普通、あどけない少女が人妻に抱きついたところで、出ては来ない注意だ。
だがこの場合の人妻はカイトで、カイトは男でリンは少女で。
「頭が痛くなるな」
他人事そのものの様子でつぶやいた「旦那様」は、ふと目をやったレンの表情に顔をしかめた。
病的、といってもいいような光が碧色の瞳を翳らせている。
レンは揺らぎながら立ち上がると、行儀悪く舌を鳴らした。
「すみません、カイトさん、聞き分けのない子で」
「ほんとだよな。男と見ればだれにでもほいほい付いて行くわ、媚びまくるわ、サイテーの尻軽でさあ」
焦って謝っていた奏が引きつった顔で、悪態をつくレンを見る。
レンの顔はどす黒く曇って、ひどい言葉に歪んでいくリンの顔も見えていないようだ。
「そうやってすぐかわいいぶって、だれにでも気に入られようとして、サイアクの売女。おまえみたいなのが好きっていう男がわかんねえ」
がくぽは静かに、椅子ごと体を引いてレンから離れた。奏はカウンターの向こうで頭を抱えている。
「どうせロリコンのへんた、っいっ!!」
「…」
なにも目に入らない様子で言い募るレンの頬を、足音も荒くやって来たリンが両手で勢いよく挟みこんだ。高い破裂音が鳴り響き、レンが我に返った顔で瞳を瞬かせる。
次にリンが取った行動は、周りの理解を超えていた。
「っいだっ?!」
頬を挟みこんだまま、リンはほとんど衝突としか言いようのない勢いで、レンにキスしたのだ。
一瞬で離れると、涙目でレンを睨む。
「あたしはほかにどんないい男が現れたってぜったいずっとレンのことがいちばん好きよレン以上のひとなんてぜったいいないのよあたしのいちばんも永遠もレンだけなのよそれなのにそれなのにそれなのに」
「り、リン」
句読点をまるで無視して言い切り、リンは両手を頭上高くで組んだ。
魅入られて動けないレンの頭に、組まれた拳が音速で落ちていく。
「そんなこと言うレンなんか、だいっきらい!!」