殴られたレンは、悲鳴も上げずに床に沈んだ。殴られていないがくぽと奏も、思わず顔を歪めて仰け反る。

痛いわけではないが、痛い。

Wee-Wee-Wee-03-

「ふ。ふえ、ぅええええええん!!」

泣き声とともに、破壊女王がリビングから飛び出して行った。

「…おい。生きてるか、小僧」

「…し、死んで、たま…っ」

おそらく衝撃でいくつか回路がショートしたのだろう。

がくぽの問いに、レンはノイジーな声で切れ切れに答え、生まれたての仔鹿のように震えた。

「可能かどうかわからんが……追いかけたほうがいいと思うぞ」

「わ、かって、んだ、よっ。ちょ、まげに、言われ、までも、ねえ!」

ほとんど感心する胆力で立ち上がり、レンは足音も荒くリビングから飛び出して行った。

奏が頭を抱えたままだ。

「すみませんすみませんカイトさん。お騒がせして申し訳ないです弁解のしようもないです」

そこまで謝ることもないと、がくぽは呆れてカイトを見た。

今の修羅場を見ていたとも思えない穏やかな笑顔で、カイトは首を傾げる。

「元気ですね」

奏の咽喉から、小さな悲鳴がこぼれた。

「すみませんすみませんほんと申し訳ないですごめんなさいもう二度と連れて来ませんから!」

「…」

今のカイトのどこに、そこまで怯える要素があったかわからない。

がくぽは困惑して、キッチンに沈みこむ奏とカイトを見比べた。

カイトはその笑顔のままなめらかに立ち上がると、リビングから出て行った。

リビングの主とでも名付けたくなるほど、日中はリビングから動かないカイトだ。

脈絡もなく出て行ったことに驚いて、がくぽは反射的に後を追った。

カイトは迷う様子もなく、がくぽとカイトの寝室に入る。

追って入ろうとして、がくぽは扉に体を付けた。

「レンはずいぶん、明後日なほうへ行きましたね」

穏やかな声は聞き間違いようもなく、カイトのもの。そして。

「…そうなの。あいつって、ほんと、口ばっかで…だめだめで」

応えた掠れ声は、リンだ。

外に飛び出して行ったものと思ったら、こんなところに隠れたらしい。困った少女だ。

「言うことだけ、立派で…っ」

語尾は、泣き声に取って代わった。聞いているほうが辛くなるような、悲痛な声で泣く。

がくぽは薄く扉を開いて、中の様子を窺った。

扉の近くで、リンが床に座りこんでいる。

カイトはその隣にいるが、慰めようとする素振りもなく、穏やかな顔でただ座っているだけだ。

普通に考えて、もっとも不適な人選がここにいるのではないだろうか。

がくぽは頭を抱えた。

戻ってこないカイトたちを気にしたのか、奏がキッチンから出てくる。扉に張り付くがくぽを見て目を丸くすると、漏れ聞こえる泣き声に事態を察して、顔を青褪めさせた。

「もうほんとにどうしたら…」

こっちまで泣いているような声でつぶやいて、奏はリンを連れ出そうとノブに手を掛けた。しかし、カイトが静かに手を伸ばして扉を押さえる。

やわらかに微笑んで、首を傾げて奏を見た。

凝固した奏は、ぎこちない動きでノブから手を放した。その顔は恐怖に強張って、白い。

この反応をどう考えたものか、とがくぽが悩んでいる間に、リンの泣き声が落ち着いてきた。

「ごめ、なさ、カイトさ。泣いちゃ、て。うるさ、くして」

「元気でなによりです」

「えへへ…」

取りようによっては皮肉とも取れる言葉を、リンはいいほうに解釈したらしい。小さく笑った。

扉の隙間から見る限り、カイトは不愉快な顔をしているわけでもない。フィルターを通して見れば、聖母の笑みにも見えるだろう。

案の定、リンには聖母の笑みに見えるようだ。

洟を啜りながら、声が夢見心地に霞んでいる。

「いい、な。カイトさん、は。がくぽさんと、仲良くて。ちゃんと、わかり合ってて」

「それはどうでしょう」

夢見る少女の発言を、カイトはやわらかな声音で、しかし容赦なく打ち砕いた。

虚を突かれた顔のリンに、微笑んだまま首を傾げる。

「俺はがくぽの言うことやることが、ほとんど理解できません。最近では、いっしょにいるのが怖いくらいです」

「…そんな、カイトさん」

微笑んでいるカイトに青褪めた奏の気持ちが少しわかって、がくぽは部屋の中から顔を逸らした。

お互い様だと思うが、やはりそう思われていたのだとわかると、それなりにこころが痛む。

部屋の中では、リンもリンなりにショックを受けているらしい。また声が泣きそうに潤んでいる。

「でも、がくぽさんは。カイトさんだって」

「リン、俺とがくぽは出会って、まだ一週間です。ボーカロイド同士であっても、そんな短期間でこころから理解し合えるということはありません」

カイトは迷いもなく言い切った。リンが大きく洟を啜る。

「マスターのことだって、こころから理解しているとは言えない状況です。三年いっしょにいてそれなんですから、一週間しかいっしょにいないがくぽのことなんて、異星人そのものとしか思えなくても当たりまえじゃないですか?」

思わず、がくぽのくちびるが緩んだ。

カイトの声には揺らぎがない。言葉は直球そのものだ。

部屋の中に視線をやると、湖面のような瞳と目が合った。

「理解できないので、怖いと思います。わからないからたくさん考えるし、空回りも多いから、疲れます。正直、どこかに逃げ出したい」

それは自分もだ。

そして今日は実際、逃げ出した。ふたりでいるのが気詰まりで、耐え難くて。

俯いて考えこんでいるリンには、カイトがだれに向けて話しているかわかっていないだろう。

カイトはがくぽの瞳を見つめたまま、言葉を継いだ。

「でも、楽しい気持ちもあるんです。知りたいと思う。わかりたいと思う。それはとても楽しいことです。わかることができたときの気持ちは、言葉では言い尽くせません」

そうか、わかりたいと思ってくれているのか。

がくぽはカイトに微笑み返した。

完全なる一方通行ではないとわかっただけでも、この先へと望みを繋げる。

「…ノロケだ。えへへ。そうでしょ?」

リンが笑ってつぶやいた。

その瞬間、けたたましくインターフォンが連打され、次いで、玄関の扉が激しく叩かれ、そのうえに絶叫が轟いた。

「マスターマスタぁああ!!」

「…あの子はもう、あとでお仕置きです…」

根暗くつぶやき、奏が玄関へ走っていく。

共用廊下で絶叫するという幾重にも迷惑な行為をしていたレンは、奏が扉を開くと、この世の終わりよりひどい顔で飛びこんできた。

「リンが、リン、どこにも、どうし、リンがいなくなったら、俺、リンに!」

「落ち着け、レン…」

呂律も怪しくなっているレンに、奏は深々とため息を吐く。

その奏の体を、部屋から飛び出してきたリンが押し退けた。

「みっともないわね、レンあんたってほんと、」

「リぃいぃいいいいン!!」

「んきゃっ?!」

格別の絶叫を轟かせて、レンはリンに飛びついた。勢い余って、リンは尻もちをつく。

そのリンにしがみついたまま、レンは恥も外聞もなく号泣した。

「嫌わないで嫌わないで嫌わないで捨てないで捨てないで捨てないで俺おれ、リンがいなかったらリンがいなかったらお願いおねがい、俺だけのリンでいて、俺だけ好きでいて、俺だけ」

「…もう、ほんとぉにレンはぁ…」

肩を落としてつぶやくリンの声が甘い。

なんだかんだといって、いいカップルなのだろう。奏はすっかり頭を抱えて、廊下にうずくまってしまっている。

「がくぽ、羨ましいですか?」

「ん?」

騒がしいことこのうえないが、それなりに微笑ましく見守っていたがくぽを覗きこんで、カイトが生真面目に訊く。

「羨ましいという顔をしています」

「…そうか?」

思わず顔を撫でながらつぶやくと、カイトは目を眇めた。

「無理ですからね」

「…ん?」

「あのテンションを俺に期待されても、応えられません。演技でも無理です」

がくぽは未だに大騒ぎをしている鏡音シリーズを見やり、もう一度カイトを見て、眉をひそめた。

「言っておくが、俺だとて無理だぞ」

「でも、言うことはできますよ」

「ん?」

会話が繋がらない。もはやこれは常態となりつつある。

首を傾げたがくぽに、カイトは蠱惑的な笑みを浮かべた。

「俺だけの旦那様でいてください。俺だけ好きでいて?」

「…」

しばし見惚れてから、がくぽは笑った。わずかに苦味の混じったそれで、肩を竦める。

「こちらこそだ。俺だけの妻でいてくれ。そしてできれば、俺を愛してくれ」