B.Y.L.M.-ExtraEdition
Melody-scene5
妻として娶って、数年――
がくぽはカイトに関して、不審を極めていた。否、極めた挙句、恐怖すら覚え始めていた。
つまりだ。
「が……」
がくぽを呼びかけて、カイトがはっと目を見開き、口ごもる。
口ごもって、もごもごと、言葉を転がすような間を挟み、しばらく。
「…っ」
くっと、意を決したように顔を上げ、カイトは再びがくぽを見た。
動きこそ決然としていたカイトだが、熱に潤む瞳は気弱に揺れ、これ以上ないほど赤く染めた顔はやはり、どこか縋るように頼りない表情を浮かべている。
戦慄くくちびるを懸命の様子で開き、カイトは吐息とともに熱を吐きこぼした。
「だ……んなさ、ま……」
――軽く、心の臓が止まりかけ、がくぽは咄嗟に応えられず、笑顔で固まった。
こうなることがわかっていたから、備えてはいたのだ。備えていたのだが、ほとんど役に立たなかった。ようやく心の臓を止めずに済んだと、その程度にしか。
いつも端然と佇み、はきはきと明瞭に話すカイトが、だ。
羞恥にいたたまれず身を撓ませ、どもりながら、か細い声で、がくぽを呼ぶのだ。
そう、『がくぽ』だ。同性同士ではあるが、カイトはがくぽの『妻』であり、がくぽはカイトの『夫』だ。
くり返そう、『夫』だ。
雑多あれ、『だんなさま』というのも、妻から夫へ呼びかける際の、呼称のひとつで間違いない。あなたは私の夫ですと、相手にも、自らにも認めればこそ使う、どちらかといえば尊称にも近い。
カイトの声はか細くとも甘く、熱かった。それこそ、夏季の盛りである今の、昼の暑さにすら勝るとも劣らずという。
否、南方の夏季の暑さは単に酷であるだけで、甘さはない。そういった意味ではカイトの圧勝であるし、むしろ比べるもおこがましいという――
言うならがくぽは、心の臓を止められかけたところだった。動揺も著しい。動揺著しいうえでの、思考だ。
おそらくカイトが聞いたなら、眉間に皺を寄せて『おまえというやつは』とぼやく――
否、否――違った。そうだ。『おまえというやつは』ではない。
少なくとも今日一日に関しては、カイトはいつものようにがくぽを呼ばない。そう、『がくぽ』と名で呼ぶこともなければ、『おまえ』と呼すこともない。
『だんなさま』だ。
『だんなさま』一択だ。
どうしよう。今日一日を通し、カイトはずっと、がくぽを『だんなさま』と呼ぶのだ。呼び続けているのだ。それも先のようにひどく恥じらいながら、甘さと熱とをこれでもかと盛って。
こんなものを、朝から晩まで、一日中――
どう考えてもがくぽには、最弱たる身の心の臓か、息の根かが途中で止まる予感しかしない。
実のところ、朝の起き抜けから今の時間まで、幾度となくこれに晒されてきたがくぽの限界は、すぐそこにまで迫っていた。次こそは、次こそはという、瀬戸際にあると言っても過言ではない。
自らの最弱たることは、がくぽにとってすでに諦念の域にあることだが、今は悔やまれた。自ら望んだことであるとはいえ、自ら望んだことであればこそ――
とはいえ、発端はカイトだ。
もとを辿れば最終的にがくぽへ還る気もするのだが、とにかく発端はカイトだ。
今日だ。
夏季も暑さの盛り、酷暑のさなかの今日が、がくぽの生まれ日だ。
祝いたいと言う。
カイトだ――祝いたいのだそうだ、がくぽの生まれ日を。
正直がくぽとしては、なんのゆえをもってという、不可解さしかない。自分など祝って、どうするのかという。
理解不能も極まるので適当に流していたら、どういうわけか、カイトはかえって発奮してしまった。
その結果が、これだ。
「だ…んな、さまっ」
焦れたように呼ばれ、がくぽは息が止まった。心の臓はなんとかもたせたが、息が続かなかった。
可憐が過ぎる。最弱たるがくぽの心身の処理限界を、今日のカイトは軽く超える。それも、何度もなんども――『がくぽ』を呼ぶたびにだ。
カイトを娶って、二年目からだった。
なんだかんだとあったため、初めての年はそういったことを取り沙汰している暇もなかった。
が、二年目となって生活も落ち着くと、カイトはがくぽの生まれ日がいつかということを気にしはじめた。
わからないと。
押し通しておけばよかったかもしれないと、がくぽはよく考えた。
実際がくぽはカイトに問われるまで、自らのそんなものについてはきれいさっぱり忘れていたのだ。
あまりに強請られるから押し負けて、さんざん苦労して調べたのだが――
こんなことに使われるとわかっていたなら、知らぬ存ぜぬを押し通すべきだったのではと。
悔やむがくぽだが、すぐに疑心がもたげる。
『いつだかわからない』と押し通したなら押し通したで、業を煮やしたカイトが適当な日に、適当に凄まじい理由をこしらえ、こうやってがくぽの心の臓を止めにかかってくるかもしれないではないかと。
もしかしたなら、素直に教えたからこそこういう、ぎりぎりで心の臓を止めずにおれるところで止まったのかもしれない。
知らぬ存ぜぬを押し通していたなら、今度こそ確かに、可憐さと歓喜としあわせとをこれでもかと詰め合わせた鈍器的なもので、きっぱりとどめを刺されていたのかもしれない――
つまり、だ。
婚姻生活も数年を経て、がくぽはすっかりカイトに対して不審を極めていた。
底が知れないという。果てはいったいどこなのかという――
カイトは実にあっさりと、ごく当然の顔をして、がくぽをしあわせにする。がくぽが歓喜せずにはおれないことを、さらりとやってのける。
それも、夫婦となったばかり、新婚当初であればまあ、致し方ない面はあった。相手のことなどほとんど知らないのだ。それは驚くことや、意想外なことが多発もするだろう。
しかしだ。
カイトは一年を経て、二年を経て、三年を――
いくら時を経ても、未だがくぽを驚かせた。意想外を突き、がくぽの心の臓を止めにかかってくる。
否、違う。カイトとしては、自ら根づく大地であり、最愛の夫たるがくぽをまさか、こんなことで弑するつもりはないだろう。
だが、がくぽだ――最弱の身だ。
不可能がないと言われた時代、前代神期の力を今に還す『王の花』たるカイトの、呼吸と同じほどに容易いわざが、がくぽには逐一、致命傷となる。
おかげで最弱たる身はもはや、しあわせで満身創痍だ。意味がわからない。
聞けばカイトも意味がわからないだろうが、がくぽだとて意味がわからない。
わからないがもう、満身創痍で死に態だ。しあわせが過ぎる。
カイトは少し、やり過ぎなのだ――がくぽをこんなにしあわせにして、カイトにいったいなんの得があるというのか。もう少しきつく、つらく当たってもいいのではないか。
――そう訴えると、カイトはほとほと呆れたという顔をする。
それでなぜか、がくぽをさらにもっとしあわせに漬けこんでくるから、もう、悪循環だ。つらい。
がくぽは毎日まいにちがつらくて、おそろしくて、仕方がない。
が、離れられない。
放せない。
戦々恐々として、次はなにをと怯えながらも、つい、欲してしまう。
それでわかっていたのに、今年も強請ってしまった。
がくぽの生まれ日たる今日、一日を通し、『だんなさま』と呼んでくれるようにと。
きっと一日中、カイトが可憐を極め、がくぽは死に態だ。どういうわけか、馴れて効果が減じるということがなく、むしろ衝撃が増す一方だから、今年こそいのちが持たないかもしれない。
そうとわかっていて、去年にさんざんに懲りたはずで、それでも欲しくてほしくて、強請ってしまった。完全に中毒だ。劇薬にもほどがある。
とはいえカイトからしても、これは一応、考え過ぎた挙句にこじれた類の結論だったらしい。ろくでもないものを蒸し返すなと、いい顔はしなかった。
毎年同じものではないかとも、詰られた。そんなに気に入ったなら、毎日呼んでやろうかとも――
そんなことをしたらカイトは来年、また新たに祝いを考えることだろう。
がくぽがもういりませんと言ったところで、どういうわけかこういったことに絡んでは、いっこうに要望を聞いてくれないカイトだ。きっと新しい祝いを考える。新しい祝いだ。新しい――未知の――………
なにをされるものか、がくぽにはまったく予測がつかない。しかしカイトは必ず、しおおせるだろう。なにかは知らないが、まるで予測もつかないが、なにか――
考え始めるともう、今から発狂するしかない。
それくらいなら意地を通し、今年もなんとか持たせきる。騎士として鍛えに鍛えた胆力を総動員し、来年の発狂を防ぐことにこそ、注力せねば――
「ぅうう……っ!だん、だ、だんなさまっ……っ」
「はい、カイト様」
三度目にしてようやくがくぽは、応えられた。カイトの声に涙が混じり始めたからだ。
ほとんど泣きが入っているカイトのもとへ素早く向かうと、がくぽは跪いた。ことさらに恭しく騎士の礼を取り、微笑んで見上げる。
カイトからは、恨みがましそうに見返された。然もありなんとは思え、がくぽは恨みのうちにも甘さを見抜く。
「おそい…」
ぼそりと吐きだされた恨み言も耳に甘く、おかげで反省しきれないがくぽはどうしても、笑ってしまう。
こうまで悦ばせられて、しあわせに漬けこまれて、それでしかつめらしい顔ができるほど、人間ができていない。
最弱のうえに、未熟だ。
幾年生きてという話だが、ある意味でもって、がくぽは『生まれたて』も同然だった。カイトを娶り、諸々あってそして、『生まれ直した』。
それであれば、こんな真夏の盛りより、あの日こそががくぽの生まれ日として、カイトに言祝がれるべきなのかもしれないが――
下手に言えばカイトはきっと、両方を祝おうとしてくるだろう。
強欲なと呆れて済ませてくれればいいが、どうにもこういった予測だけは外さなくなってきたがくぽだ。
だから言わないし、今、思いついたこともないものとして、厳重に封をし、押しこめておく。万が一にもカイトに勘付かれることのないようにと。
「すぐそこで、よく聞こえているだろうに何度も呼ばせて」
「ええ、何度呼ばれても飽きないものですね。堪能しました」
がくぽは誤魔化す気も芬々に、しらりと答えた。恨みがましげだったカイトの表情が緩み、呆れたという色を浮かべる。
「なにを言って……」
言いかけて、カイトはきゅっとくちびるを引き結んだ。瞳が惑い、熱に潤む。
まずい予感に、がくぽははっとした。至近距離だ。しかも束の間、気を抜いた。
どうしようと、動揺の極みに落ちて身動き取れなくなったがくぽを、カイトはちらりと見た。ぷすんと、わずかに子供っぽく膨れ、つぶやく。
「………だんなさま、の……………いじわる」
――今日という日が、あとどれほど残っているものなのか。
ほんとうに来年も同じものを強請って、自分は大丈夫なのか。
否、それ以前に、そもそも明日という日は自分に巡ってくるものだろうか。
いい加減、カイトの底なしさ加減が、がくぽはほんとうにこわい。
こわいのに、目も逸らせず、手も離せない――
身動きも取れず、跪いたまま笑顔で固まり、がくぽは今日、幾度めとも知れず白く弾ける思考とともに、自らの脆弱さを身に沁ませた。
ENDorTOBECONTINUED?