曲がりくねった道
第1部-第9話
撮影を終えてスタジオから帰って来るや、カイトは風呂に入った。
整髪料などの鼻につく香料を洗い流し、いつまでも肌になにかが触っているような感のまといつく化粧を落とし、気分を一新する。
仕上げにお気に入りのルームウェアである紬の甚平を着たカイトは、濡れそぼる頭をそのまま、タオルだけ被って居間に向かった。
「んっ」
居間に入ったところで、ソファに座るがくぽを見つけたカイトは立ち止まり、一度首を傾げた。そこで動きのすべてが止まる。
――ということに、数分して気がついたがくぽは、カイトの『再起動』をさらに少々待った。
そもそもがくぽ自身、なぜ数分も経ってカイトに気がついたのかといえば、考えごとにとらわれて周囲への反応が疎かになっていたせいだ。
カイトも同じ状態だろう。考えごとにとらわれた結果、動くことが疎かになっている。
しかしいったい唐突に、なにをそこまで悩むようなことができたというのか――がくぽのようにソファにくつろいでいたならともかく、カイトは歩く途中だ。
しばらく待ってみたがくぽだが、カイトはそれこそまるで、人形のように微動だにしない。
微動だにせず小首を傾げ、がくぽを見つめている。
「カイト」
「っんっ」
堪えきれなくなったがくぽが呼ぶと、カイトは大きく震え、瞳を瞬かせた。不思議そうに、軽く身を引く。状況を確認するように、視線が周囲をさまよった。
どうやら『戻って』きてくれたようだ。
イキモノの表情を取り戻したカイトに安堵しつつ、がくぽは微笑み、座ったまま手を伸べて揺らした。
「来い。髪を拭いてやる。せっかく着替えたものが、濡れて台無しになろう」
「んーっ」
誘うと、カイトは素直にがくぽの前までやって来た。ソファに座るがくぽの足元、床上に、崩れるように腰を下ろす。
腰の下ろし方ともあれ、足を崩してはいない。座り方は礼儀正しく節度ある、正座だ。
礼儀正しくがくぽと相対したカイトは、さらに礼儀正しくがくぽへと頭を下げる。
「んっ!」
――物は言いようというものだ。
そう表現するとカイトのしつけの良さ、『おねがい』感が窺えるが、実際はお辞儀をしたわけではない。バスタオルを被った自分の頭を、拭いてくれるというがくぽが作業しやすいよう、傾けただけの話だ。
『おねがい』もとい指示語の簡潔さといい、振る舞いも簡潔にして疑いがなく、それでがくぽが自分の面倒を見てくれると信頼しきっている。
「よしよし………」
そして実際、がくぽが不快になることはなく、むしろ上機嫌に笑いながら両手でタオルを取った。
すでに水気を含み、あまり感触がいいとは言えないタオルだ。
けれど含む水気は、カイトの体から拭き取られたものだ。他のだれかのなにかではない。
できる限りタオルの乾いた部分、水気の少ない場所を選び、がくぽはカイトの頭をやわらかに包んだ。両手で挟むと、繊細な指使いで頭皮を揉み、髪を梳き、撫で掻き回して水気を取る。
「ドライヤーを使えば、早いのだがな」
「いたい。から、や」
責めるわけではなく、間を埋めようと発したがくぽの言葉に返って来たのは、あからさまな拒絶を含んだ声だった。うつむいているので見えないが、浮かべる表情すらわかるような――
実のところこれは、すでに何度もくり返した会話だ。
風呂から上がるたび、がくぽはカイトの濡れそぼった髪を拭いてやる。そして毎回、同じ問答をくり返す。
カイトはドライヤーが嫌いだ。芸能特化型ロイドとして、音響に溢れるステージには平然と立ちながら、ドライヤーの音はうるさくて耳が痛いから嫌いだと言い放つ。
仕事で髪をセットするときにはさすがに使うが、そのときの表情はとても見ものだ――もちろん、そんなことを言っては情が薄いにもほどがあるが、とても見ものな表情で、カイトはドライヤーを当てている。もしくは、当てられている。
「静音機能を…」
「い、た、い、か、ら、い、やっ!」
「よしよし!」
同じ言葉を、癇癪を起こす寸前の子供のような口調でくり返され、がくぽは笑った。
ドライヤーを使えば楽なのは、カイトだ。がくぽではない。
カイトの短い髪を乾かすなら、がくぽの長いながい髪を乾かすよりずっと短い時間で済む。耳が痛いといっても、我慢の時間はそれほどではない。
けれど厭だという。嫌いだと言って、――自然乾燥と言えば聞こえはいいが、単に放り置くだけのそれをがくぽが、雫で床が濡れる、部屋着をまた着替える羽目になるぞとこぼしては、抱えこんで拭く。
なんだかんだと理屈を説きはするが、がくぽは単にカイトを構いたいだけだ。ふれあう理由、独占する理由が欲しいだけだ。
ドライヤーを使えば、楽なのはカイトだ。
使えば、こうして囲いこまれる時間が減る。なくなる。対して自由な時間が、それだけ増える。髪のダメージもさほど気にせず済むし――
ドライヤーを使えば、カイトが得るものは多い。
使われれば、大きなものを失って痛手を被るのは、がくぽだ。
「……よし。これであとは、自然乾燥でも問題ない」
「んー!」
タオルをソファ前の小卓に投げ、ようやく終了を宣言したがくぽに、カイトは解放感に溢れた声を上げた。機嫌のいいねこの顔で笑うと、腕を伸ばす。伸ばすのは腕だけではなく、体もだ。
膝立ちになると、カイトはがくぽの首にしがみついた。頬と頬を触れ合わせる。
「ありがと、がくぽ」
「ああ。なにほどのこともない」
応えながら、がくぽはカイトの腰を掬った。ソファの上、自分の膝の間に招き、落とす。
横抱きの姿勢に整えると、改めて抱えこみ、カイトの肩口に顔を埋めた。
風呂に入ったカイトは整髪料の臭いも落ち、ほとんど天然の香りだ。多少は石鹸が香るが、整髪料や化粧品ほどの、鼻を突く化学臭はない。
人間ほどの新陳代謝はないロイドだ。そもそも体臭というほどの強さはないが、やはり個人はほのかに香る。
カイトは甘い香りだ。やわらかに丸く、今は風呂上がりの湿気を含んで、わずかに重い。
なににしても、がくぽにとって不快なにおいではない。
好ましい。慕わしい。愛おしい――
「んーんっ、ぁく……がくぽっ」
「………ああ」
知らずまた、抱きしめる腕に力が入り過ぎた。痛いと訴えられて、がくぽは我に返る。我に返るが、離せない。
先には衣装――カイトはこれから仕事で、約束があるとわかっていたから、離せた。今は違う。カイトは仕事も終わり、このあとはオフだ。がくぽもオフだ。
他のだれかとこれ以上約束もなく、ことに急いで片づけたい私用もなく、いわば暇だ。
暇な時間を、暇人同士、共に過ごしてなにが悪いことがあるだろう。
なにしろがくぽとカイトは同居人だ。ひとつ屋根の下に暮らす相手だ。仲違いし、険悪なまま続ける同居でもなく、仲はすこぶるいい。親友と言っても差し支えない――
「ぼんやりした」
「ん」
がくぽは言い訳にならない言い訳をまた口にして、けれどカイトは受け入れてくれる。
だから言い訳にならない言い訳をいつまでもくり返してしまうと、狭く閉じた思考でカイトを責め、次の瞬間にはそんな自分への嫌悪感とカイトへの罪悪感が募り、駆動系が焼き切れそうになる。
ほとんど縋るようにカイトを抱きしめ、肩口に顔を埋めたまま、がくぽは戦慄くくちびるを開いた。
「今日の――仕事は、どうだった。無事に、終わったか」
「ん。終わった」
端的に答えてから、カイトは言葉を転がす間を挟んだ。がくぽはカイトに懐いたまま、次の言葉を待つ。
「おもしろ、かった」
「ああ。良かった」
「これから、編集。してね。次のライブ、間に合う」
「そうだな」
「ステージ。で、みんなと、ケッコンシキ。ライブ、三回……やるから、三回ケッコンシキ。いっぱい」
「………ああ」
がくぽは瞼を落とした。カイトの肩口に強く、額を擦りつける。
入念に拭いた髪は水滴を落とさないが、まだ湿気って冷たい。含む水気で固まってしまっているし、それでも先の整髪料で固めた感触よりはましだ。
ましだが、いつものねこのような感触が恋しい。乾いてやわらかい、陽だまりのねこの毛。
カイトがだれのものでもなく、がくぽの傍らにいるときの――
「で、ね。やっぱ、めーことルカルカ。ね、『こんな美人ぞろいのハーレム、滅多にないのよ。叶うに叶わないオトコの夢なんだから、もっと歓びなさい』って………」
カイトはだれのものでもない――がくぽのものでもない。
失ったのはたかが一定期間の記憶で、そのたかが一定期間にがくぽは恋人を得ていた。
がくぽがなにを気に入り、なにに惹かれ、なにを求めてカイトを恋人にしたのか。
カイトがなにを気に入り、なにに惹かれ、なにを求めてがくぽの恋人となったのか。
理由も経緯も含め、愛は失われた。
失われて、戻らない――記憶は。
記憶は戻らないまま。
がくぽの腕の中には元恋人がいて、がくぽは腕の中の元恋人を、離すことができない。