長く、ずいぶんと長く、沈黙が続いていたのだと気がついた。
気がついて、慌てて顔を上げたがくぽを、カイトは不思議そうに見ていた。不思議そうに――疑わしそうに。
曲がりくねった道
第1部-第10話
「すまん。ぼんやりとして」
「うん」
慌てて口走ったいつもの理由に、カイトはやはり頷いた。いつもとは、違う様子で。
「あの。さ、がくぽ……」
「ああ」
なんでもいいから、挽回するものはないか。
よすがを探すがくぽに、カイトは顔を歪めた。大嫌いなドライヤーを見せられた瞬間の顔に、似ている。
咽喉元に刃を突きつけられたような心地になって、がくぽはくちびるを引き結んだ。
カイトの腕はまだ、がくぽの首にかかっている。しがみつくという力の強さはないが、拒絶されたわけでもない。だから大丈夫――なにがどう大丈夫で、なにがどう大丈夫でないといけないのかまったくわからないが、大丈夫なはずだ。
思考を空転させ、混乱の極みに嵌まっていくがくぽへ、カイトはくちびるを戦慄かせた。言葉を懸命に転がしている間があり、表情はひたすら痛みに歪んでいく。
「カイト」
首を落とすなら、焦らさず早くしてくれと。
悲痛さを帯びたがくぽの声に、カイトは一度、視線を逃がした。逃がして、横目となって、がくぽを見る。
戦慄くくちびるが、ようやく開いた。
「あの。さ、がくぽ。ぐあい。………わるい?」
「………なに?」
訊かれたことが、あまりに意想外だった。
がくぽが咄嗟にうまく返せなかったのも、体を強張らせてしまったのも、まるで予想だにしていなかったことをカイトが言い出したからだ。
もちろんがくぽは、カイトが言い出すことを事前に予想して、当てられたことなどほとんどない。だからこれはいつものことで、いわば常態だ。
いつものことで常態だが、今回は振られた話題がまずかった。
具合が悪いのかと心配されて、体を強張らせた。咄嗟に応じきれなかった。
具合が悪いのだと肯定した、自白したも同じだ。
そう受け取られても、仕方がない反応だった。
「否、カイト……っ!」
「だってさ、がくぽっ!」
違うのだと慌てて声を上げたがくぽだが、カイトは下手な言い訳など聞きたくないとばかり、首を激しく横に振った。手はまだ、がくぽの首に回したままだ。だから大丈夫だと――
いい加減、なにが大丈夫の基準なのか、そもそもなにを大丈夫だと評しているのか、自分がなにを考えているのか。
まるでわからない。
「否っ………」
混乱が極みに達し、がくぽは口を噤まざるを得なくなった。
思考が言葉に直せない。言葉に直せない以上、しゃべる口は噤まざるを得ない。出るのは言葉にもならない、意味もない音だけだからだ。
いくらがくぽが情報処理に優れても、こうなると宝の持ち腐れだ。
混乱しては、まともな処理などできない。優秀さの発揮しようもない。混乱しているとはそういうことだからだ。
反論もできず、口を噤んだがくぽの様子に、カイトはさらに悲痛な表情となった。ただ、『具合が悪い』がくぽを気遣ってか、声はむしろ小さく、あえかにひそめられる。
「だって、がくぽ……いた、そうな顔。ずっと、してる。いつもしてる。いっぱいして………いたくて、くるしいって。顔。してる。のに、……おれに、なんにもいわないし。いわないで、笑って、おれの面倒、見るし。おれね、できる。んだよ。おれ、ちゃんと。できる。し、………がくぽが、いたくてくるしい。なら、困って、なら、頼っても、だいじょぶなのに。頼って、だいじょぶなのに、困って、なら、おれ」
「否、カイト」
カイトにしては口早に吐き出された言葉に、がくぽは首を横に振った。
思いやりはうれしいし、こころを懸けてくれることは素直に有難い。
だが、そもそもの前提条件が間違っている。
がくぽは『具合が悪い』わけではない。痛いといえばそうだし、苦しいといえばそうだが、正確にいって不調ではない。『病気』ではないのだ。
確かに一般に、語尾に『病』とつけたりもする心理様態ではあるが――
「大丈夫だ」
「がくぽ」
「大丈夫なのだ……お主が『できる』ことも知っていて、けれど面倒を見るのは俺の好きだ。手を出すのも、笑うのも、お主と在れば、俺には自然のことだからだ。無理などしておらぬし、お主が頼れぬと侮っておるわけでも――」
「………」
懸命に言葉を継ぐがくぽに、カイトの表情が晴れることはなかった。
それはそうだろう。
いくらカイトが旧型で機微に疎いといっても、今のがくぽの『懸命さ』はわかる。なにかを隠そうとして必死で、取りつくろうさまは。
どれだけがくぽが言い訳を連ね重ねても、カイトを納得させることはできない。表情が晴れることはなく、悲痛に歪んだまま――
わかっていても止められない言い訳が果てもなく続くうち、やがてカイトの表情は諦念に染まった。
自分では、この男を変えることができない。
そう見切ったのだろう。
諦念を受け入れたカイトは、静かに笑った。泣きそうにも見える笑みだった。笑みなのに、悲しく寂しい。
ようやく言葉を呑みこみ、凝然と見つめたがくぽの頬を両の手で挟み、カイトはくちびるを寄せた。ルージュを塗る必要もなく潤んで艶めくそれを、がくぽのこめかみにやわらかく押しつける。
「ちちんぷいぷーい、………いたいのいたいのー、とんでけー」
「……っ」
いったいいくつの子供だと思われているのか。
抗議したいことはあって、けれどがくぽは黙って容れた。
今の自分の態度が、そうされても仕方のない、子供の駄々に等しかったと、自覚がある。もはや自分にできることはこれくらいしかないと、カイトを失望させたのだと。
カイトを失望させた――カイトに失望されたと思うと、目の前が暗く閉じていく心地になったが、がくぽは奥歯を食いしばって堪えた。
これ以上言葉を尽くしたところで、挽回できる気がしない。今の自分に、それだけの余裕がないことはもう、わかる。
沈黙こそが今は、もっとも最良なのだと。
黙ってカイトのするに任せながら、がくぽは抱く腕にだけ、力をこめた。もっとと、強請るようでもある。
カイトは笑って――先の、諦めに満ちた悲しい笑みとは違い、これは多少、明るかった。
今のがくぽは子供のようにあやされるのが必要なのだと、カイトにあやされるのこそがうれしいのだと、思ったのだろう。
あながち間違いではないし、カイトの笑みに光が戻ることは、がくぽにとっても希望だ。
カイトは不器用に身じろぐと姿勢を変え、がくぽに抱かれたままソファに膝立ちとなった。接地面の少なさからくるバランスの悪さは、がくぽが腰を抱くことで支え、また、カイト自身もがくぽの頭を抱きこむ形で落ち着けた。
ソファに背を預けたがくぽが、カイトに半ば押し倒されるような形だ。
押し倒されるがくぽが上目にカイトを見ると、笑うくちびるがまた、近づいた。髪の生え際に落ちたくちびるは、すぐ離れ、またこめかみに、額にと、雨のように何度も降る。
「ちちんぷいぷい、いたいのいたいの、とんでけー♪おそらのかなたに、とんでいけー♪おやまのむこうに、とんでいけー♪うみのむこうに、とんでいけー♪」
キスの雨とともに、カイトはうたう。
自分が本当に小さな子供になったような気がして、がくぽは目を閉じた。さもなければ、泣きそうだ。
カイトはやさしい。不器用で、けれどとんでもなくやさしい。
記憶を失ったからと、関係の清算を求めた男を容れた。
怯えに駆られて一方的に切った男を、赦した。
挙句、こうだ。
潔い男っぷりに憧れるしかないし、対する自分の無様さといったら、ない。
賢しいばかりで保身だけに力を尽くし、やさしさの欠片もないことに、芯から失望する。
こんな男を、カイトは好きになるだろうか。
こんな男を、カイトは好きになったのだろうか――
失望しきりながら、がくぽは思考を空転させ、未だ結論へと至らせない。思い切れない。
ひたすら闇に堕ちていくがくぽの閉じた瞼にも、カイトのくちびるは触れた。
「いたいのいたいのー……おそらも、おやまも、うみも、だめならー♪おれのとこ、とんでこいー♪いたいのいたいの、おれのとこ、とんでこいー♪」