曲がりくねった道
第1部-第12話
長く、ずいぶんと長く、沈黙が続いた。
――と、がくぽの感覚は捉えた。
実際はそれほどでもない。短くはなかったが、『ずいぶんと』というほどでもなかった。いっても一分か二分といったところだ。
しかし告白したものにとっては永遠と同じほど長い沈黙を挟み、カイトは困惑した様子で首を傾げた。
「おれも。………まあ、がくぽ、………は、好き。だけど……」
「愛している」
即座に言い直したがくぽに、カイトは瞳を瞬かせた。訝しさは消えない。今度は逆側に、首を倒した。
「ぎゅう。する?」
「先に了承した」
――実際のところ先ほどは、意味もわからないまま勢いで頷いただけだったのだが。
今は思い出しているからおくびにも出さず、がくぽは即答した。
あれは最前、カイトが『恋人ではなくなったからしないこと、してもいいこと』を並べたときに、『しないこと』に類した事例だ。『もう恋人ではないから、しないこと』――
迷いもないがくぽの答えにも愁眉が晴れることはなく、カイトは首を起こし、また逆へと傾げた。
「キスする?アイサツ。じゃなくて、口に……」
「舌も入れたい」
欲望をあからさまに吐きこぼすと、カイトの目元が即座に染まった。大きな瞳が眇められ、がくぽから微妙に逸れる。
一度は緩めた腕に力を入れ直し、けれど痛みは与えないようにと気遣いながら、がくぽはカイトの背を撫でた。
「ん……っ」
吐息のような声とともに震え、カイトの体が落ちる。
うまく抱きとめてやりながら、がくぽはカイトの耳朶へとくちびるを寄せた。
「口だけでなく、お主の全身に触れたい。すべて隈なく愛撫し、蕩かして、――奥所に俺を刻みたい」
「んぅっ」
吹きこまれた言葉に、カイトは呻く。がくぽの肩口へ甘えるように、悶えるように額を擦りつけた。吐き出す声は熱っぽく、すでに蕩けている。
過敏とも言える反応だが、確かな救いがそこにある。
これは拒絶ではない。拒絶されていない。
「カイト」
「えっち、したい?オトコの、せーり?」
「違う」
溜まっているのかと訊かれて、がくぽは束の間憤激に駆られた。
捧げているのは真摯な想いだ。そんな安っぽく、いい加減な気持ちを慰めてくれと求めているのではない。
強く否定してから、しかしがくぽは首を振り、猛る自分を落ち着けた。
そう取られても、仕様がない――なにしろがくぽは今のところ、欲望しか口にしていないのだから。
「俺が滾るのは、お主だからだ。俺が俺を刻み、独占したいと望むのは、お主を愛すればこそだ、カイト。――恋人に成ってくれ。否、恋人に戻ってくれ。自儘勝手な言い分とはわかっておるが」
「んへっ!」
告白の途中で、カイトが笑った。妙な笑い声だった。得意そうではあるが。
カイトは顔を上げ、黙ったがくぽへと首を傾げてみせた。
「おこった。の?」
端的な言葉だ。どうとでも取れる。
カイトの言葉には、頻繁に主語や目的語がない。曖昧な物言いを理解することを苦手とするくせに、肝心の自分の発言が曖昧だ。
けれどがくぽは、曖昧な物言いを理解することが苦手ではない。あまりに繊細に組まれた精神プログラムは機微に敏く、曖昧を拾うことが得意だ。
とはいえカイト相手には、負けが込むことが多いが――
なぜといって、カイトはがくぽの理解の範疇を超えているからだ。飛び先が読めない。そもそも、出発点がわからない。
だからといって、怯懦に投げるわけにはいかない勝負がある。背を向けて逃げるわけにはいかない戦いが。
がくぽはだから、頷いた。
「ああ」
頷いて肯定してから、やはり違うと、首を横に振った。
「否、『怒った』などという言葉では、生温い。度し難く、到底赦し得ぬ阿呆さだ。いっそ己を縊り殺したい――」
以前、記憶を失ったから別れるなどと言い出す男に、なぜ怒らないのかとがくぽが訊いたときだ。
カイトは答えた。
――そうなったら、いちばん怒るのは、がくぽだもん。だから、おれまで怒る必要、ない。
あのときは、そうだろうなと思った。あり得る話だと、仮定の、仮想の話として、納得した。
そして、そうだった。
今、実感を持って、確信を抱いて、がくぽは怒る。憤る。
まさかなにあれ、恋人を忘れた自分に。
これほど愛する相手を忘れた、忘れることを赦した、自分自身に。
今、身の内を焼く怒りの強さは、以前の仮定とは比べものにもならない。
記憶は戻らない。戻ることはない。
以前の自分がどれほどカイトを愛し、求めたのか――カイトがどれほど『がくぽ』を愛し、求めたのか。
わからない。
わからないままだ。
わからなくてもいいと、思う。思った。
わからなくても、『今』のがくぽは『今』、カイトを愛している。
狂おしいほどに今、カイトを愛しているし、求めているのだから。
「だめ」
自分への怨嗟を吐き出すがくぽの首に手をかけ引っ張り、カイトが笑った。幸せに溢れ、眩しいほどに輝いて。
「ころしちゃ、だめ。だよ、がくぽ」
今、もっとも怒れる男を、カイトは甘く熱っぽい瞳で見つめ、笑う。
「ころしちゃ、だめだよ、がくぽ。おれの、コイビト……おれもう、コイビト。なくしたく、ないもん」
笑って言う、カイトの瞳から、涙がこぼれた。幸せに満ちて光り輝くように笑いながら、カイトの瞳からは滂沱と涙が溢れ、流れ落ちる。
ようやく泣くことができた『恋人』を、がくぽは抱きしめた。力の限り、抱き潰さんとばかりの力だ。それでも今度はカイトも、痛いと喚かない。むしろ縋りつき、しがみついてきた。
加減の利かない指が、がくぽの体に爪を立てる。どうせ服越しだ。痛みは多少で、傷もつかない。
傷つければいいと、がくぽは願った。傷つけてくれればいいのにと。
仕様のない事故の結果であれ、がくぽが傷つけた分だけ、カイトも傷をつけてくれればいい。より以上に、痛めつけてくれればいい。
同じほど、祈った。どうかわずかな腫れすら、つくことがないようにと。痕の残ることがないようにと。
もう二度と恋人を失いたくないと泣くカイトが、泣きじゃくるカイトが、泣き止んだあとに――
ようやく取り戻した恋人の体に、自分がつけた傷を見れば、また泣くだろう。泣かないまでも、痛みを覚えるだろう。
がくぽは、願い、祈る。
傷つけてくれと、傷つけないでくれと。
相反する願いで祈りはがくぽを苦しめたが、同時に幸福だった。これまでになく、これ以上なく、幸せだった。
腕の中、泣きじゃくる幸福の源をきつく抱きしめ、がくぽは笑った。恋人が泣いているというのに薄情なことだと思いながら、堪えきれなかった。
幸福だ。
しあわせだ。
記憶は戻らない。失われた。
愛は作れる。新たに、生める。望める。
戻らない記憶が割り切れたわけではない。割り切るには、まだ時間が必要だ。もしかしたら、割り切れないまま終わるかもしれない。
それでもいい。
ここにカイトがいて、腕の中に抱ける。抱いている。
今はそれでいい。
それでいい――
「愛している、カイト………愛している」
ささやくと、カイトが泣き腫らした顔を上げた。泣き腫らして憐れで、けれどやはり笑っている。
笑って、カイトは頷いた。瞳から、未だ止まらない雫が跳ねる。
「んっ!!おれ、も!がくぽ、だいすきっ!」
無邪気な言葉の、待ち侘びた響きに、堪えきれなかった。
がくぽは泣き笑うカイトのくちびるにくちびるを重ね、思うさま、貪った。