曲がりくねった道
第2部-第15話
「カイト」
やわらかな声が促す。優しく、穏やかに。声とともに腰も叩かれて、吐き出せと。
カイトはベッドについた手を握りしめ、固くきつく握りしめ、崩れる体の首をもたげた。
潤む瞳で揺らぐ視界のなか、それでも懸命にがくぽを映し、口を開く。
「しって、る。から」
潰れて掠れ、聞き取りにくい声だった。
かわいくないと、カイトは断じる。
『がくぽ』はカイトの声も、かわいいかわいいと好んでくれたのだ。声も話し方も、すべてが愛らしく、愛おしいと。
かわいくなくて、かわいくなくなってしまって、悲しい。
がくぽが愛おしんでくれたものをなくしてしまったことが、とても悲しい。
『がくぽ』が愛おしんだものを、がくぽにも上げられないことが――
「ぉ、れ………はじ、めて。じゃ、ない。から………」
「っ!」
それまで静かにカイトの言葉を待っていたがくぽの体が、大きく震えた。電気でも流されたかのようだ。
力むあまりにぶれる視界には取りにくいが、ひどく驚いた雰囲気は伝わる。
なにに驚いたのだろうと、カイトは兆し募る不安に口を噤んだ。驚いた内容によっては、泣くかもしれない。
泣いて情を乞うようなまねはしたくないのだが、堪えられる涙のような気もしないのだ。
黙って見つめるだけのカイトに、がくぽは驚いた様子のまま、口を開いた。
「そんなことは、疾うに知っておる。そも俺たちは――『俺』とお主とは、恋人だったのだろう。それも付き合いだして二日三日の、成り立てというでもなく………なればそれで、『俺』がお主になにひとつとしてやらかしておらなんだなら、それこそ故障だ。ラボ行き総解体のフル分析レベルで重大な破損が、いずれかに在る」
「………」
カイトは束の間苦しさを忘れ、至極まじめに言うがくぽへ再び、湿気た目を向けてしまった。
言うことは正しい。正しいというかつまり、カイトも異論があるわけではない。
ただしそれを、ご本人様が言ってしまうかという話だ。それも茶化す様子もなく、真っ向本気の真剣で。
自己分析がよくできておいででといえば、肯定的になるだろうか。
視線だけで天を仰いだカイトだが、おかげで持ち直せたという面もある。
こころ向きそのままに傾いでいた姿勢を戻し、先よりはリラックスしてがくぽの腰に跨り直した。
がくぽといえば、よほどに驚いているらしい。カイトの視線が一瞬だけ湿気たことにも、こころ向きとともに正された姿勢にも気がつかず、ひたすら思考を振り回し、困惑を深めている。
「初めにお主とて、『俺』がやらかした、はめ撮りの動画があると言って……ならばそれこそ、『初めて』のはずもない。わかりきっていたことで、だからそれがなんだ?それとも違うのか?そうではなく?『俺』以前に、だれぞと付き合うていたことがあるという………違う?『違う』のか?ああだから、『違う』のであろう?なればなにが『初めて』ではないと………否、待て。まさかと思うが、最前『俺』は初物趣味だとでもお主に言ったのか。明確に言わぬでも、そう匂わせでもした………のか!そうか!!ど畜生がっ!!」
「………っ」
高速で回転する思考が激しい罵倒で締められ、カイトは軽く仰け反った。
がくぽが吐きこぼす思考に、深く意識もしないまま反応するカイトの表情を読んだ結果だというのはわかるのだが、それにしても激しい。
驚きから緩んでいたがくぽの腕だが、カイトの逃げるようなそぶりに反応し、咄嗟に逃がすまいとまた力が入った。
腰の上に押さえつけて、がくぽはカイトを睨む。否、正確に言っておそらく、睨んでいるのは『カイト』ではない。
透かして、見ているのは『がくぽ』だ。
カイトの『初めて』の男。
恋人として、カイトにあれやこれやと教え、仕込んだ相手。
それはつまり、記憶を失う以前のがくぽ自身、がくぽそのものなのだが。
記憶を失うことでがくぽからは失われ、カイトの記憶の中にだけ存在する、過去の――
「ぁ、く………」
「うつけが――やはり縊り殺す。浮かれとんちきが口を滑らせおって、考えなしにも程が」
「が、くぽっ。めっ……!」
「っ」
『存在しない』過去の自分へ怨々と罵倒をこぼすがくぽのくちびるを、カイトは軽くついばむことで噤ませた。
倒れこみはしないまでもごく間近でがくぽの顔を覗きこみ、小さく首を振る。
「ころさ、ない。で……おれの、コイビト。だいすき、な、ひと……なの。わる、く、ぃわない。で」
「……………」
がくぽはひどい渋面で、カイトを見返した。睨みつけているにも近い。
ただし相手は『カイト』だ。
透かして見るだれか、もはや存在しない、過去の自分ではない。
そもそもがくぽは誤解していると、カイトはもどかしくくちびるを噛んだ。
『がくぽ』が最前、カイトに向かって、自分は初物趣味だと言ったことはないのだ。
ただ、あらゆることが『はじめて』で初心さを晒す自分に、ひどくうれしそうだったと――
カイトがそう、感じていたというだけの話なのだ。
――ふぅん?では、だれの手癖もないということか。ならば好都合………俺の型に嵌めて癖づけて、今後他のだれと付き合うも不自由してできぬよう、よしんば目移りすることのあっても、俺の元へ戻らざるを得ないよう……、徹底して、躾けてやろう。
性質の悪い含み笑いとともに、あるいは包容力に溢れた保護者の表情で、またときとしては、からかいに取り交ぜて。
カイトがだれのことも知らず、なにも経験したことがなく、新雪のごとくにまっさらであることを、がくぽは殊の外歓んでいたように思うのだ。
ただしくり返すが、それはカイトがそう受け取ったというだけの話だ。
所有欲と独占欲の強い男だった。
たとえ終わった話の過ぎた昔とはいえ、だれかとカイトを分かつという考えは耐え難いのだろう。『マスター』ですら、恋敵に認定する程度には理性の焼き切れた男だ。
絶対者ではない相手との、自由恋愛となれば――
それを初物趣味と言うならそうだろうし、いいか悪いかといえば、おそらく悪い。
こうしてカイトの心身を縛り、蝕んで、今、最愛の男との逢瀬に影を落としているのだから。
だとしても――
『がくぽ』はカイトの最愛の男だ。もっとも愛し、慈しむ恋人だ。
罵倒されるのは、我慢ならない。攻撃するなら、カイトは全力でもって『恋人』を庇う。
たとえばそれが、肝心の恋人本人の成すことだったとしてもだ。
『コイビト』を庇うカイトを、がくぽは表情を空白にしてしばし見つめた。
ややして空漠を吐き出すように、くちびるが開く。
「愚かだと思う」
――一聴、罵倒の続きのようにも聞こえるが、先とは語調が違う。声音も、表情もだ。
呆れを含んでつぶやき、がくぽは見つめるカイトからわずかに視線を逸らした。きつく瞼を閉じる。
「十全にわかっておる。お主がこれを懸念していたこともな。――だが赦せ」
苦渋とともに吐き出すと、がくぽは瞳を開いた。眦を裂いて見開き、未だ間近にあるカイトと正面から対する。
艶やかなくちびるから、烈火の言葉が噴き出した。
「妬くわ。妬くだろう!俺のことだとわかっておるが、紛れもない『俺』自身のことだが、お主にそこまで想われる『俺』が妬ましくて羨ましくて、妬かずにおれんわ!!」
「んっぐ………っ」
頑是なく喚かれて、カイトの感想はひと言に尽きた。
――わあ、がくぽだぁー………