カイト――KAITO、芸能特化型ロイド/VOKALOID:KAITOにとり、『キス』とは、とてもかるい。
とてもつごうのよいぼくらは、
はじまりのキスをする。
キスそのものもだが、持つ意味がまず、かるい。なにせ、デフォルトであいさつのキスの習慣が設定されている。
あいさつのキスだ。
おはようとか、おやすみとか、あるいは、ありがとうとか、大好きだとか――
つまり、日常だ。非日常の、なにか、わくわくしたり、逆に、ひどく悲愴となり得るような、そういったことにまるでかからない。
かれらが『キス』とくちにするとき、恋人としての、もしくは情人、愛人に行うようなキスは、ほぼいっさい、想定されていない。
それで済む国もある。問題とならない相手もいる。
が、KAITOのメイン産出国しかり、カイトの同居相手しかり、おおごとにならざるを得ないことも、案外、多い。
たとえば、今だ。
「せ、………くは、ら………っ?!」
キッチン、並んで立って、カイトとがくぽとで、食事の支度をしていた。より正確にいえば、カイトがメイン・シェフで、がくぽはその助手だ。
あまりキッチン作業の経験がないというがくぽは、機種としてはカイトより新しく、器用であったとしても、動きは覚束なかった。しかも、カイトがいちいちすべて指示してやらないと、自分からはなにも思いつかないし、できない。
そういう手際だから、実のところ、カイトひとりでやったほうが、たぶん、早かった。もしも立場が反対であれば、きっと、がくぽはそうそうにカイトに見切りをつけ、手伝いから引かせたことだろう。悪気はない。ただ、【がくぽ】とはそういう機種で、そしてKAITOはそうではないというだけの。
それで、だからKAITO、カイトだ。最初からさいごまで、声を荒げることもなく、ていねいにていねいに教えた。
が、それはそれの、これはこれと、やはりカイトは考えていた。
がくぽにとっても、決して楽な時間ではなかったはずだ。いっそ見切りをつけてやったほうが、親切だったかもしれないと。
けれどがくぽはさいごまで、音を上げることなく付きあいきった。
それがむしろ、はっきりいって邪魔でしかなかったとしてもだ、カイトにとって優先的に評価すべきは、まず『付きあいきった』ということ。
だから、そう、『評価』した。深く考えもせず、いつもの調子で、かるく。
結果、これだ。こうだ。
「って、せくは……っ、て。せっ…」
返されたことばをなぞるカイトの声は高く、後半にいくにつれ、徐々に裏返り、ひっくり返る。
そしてとうとう、ことばは失われた。
たかが四文字しかないのに、だ。
たかが、四文字しかない、四文字にまでつづめられた、それによって悪びれもせず、なんの気もなく、ことの重大さがうすめられてしまった、あわれなことば。
セクハラとは、カイトに設定された母語に直すと『性的嫌がらせ』だが、正式にはセクシュアル・ハラスメントという。
『セクハラ』が四文字であるのに対して、その三倍ほどの文字量を誇り、なにも知らない相手であれば、この単語から正式名称を導きだすことなど、決してできないだろう。
ことばを略すというのは、あるいは仇名するということは、ことばを歪めるということだ。元来のことばが持つ意味をも、省略し、矮小化し、あるいは歪曲する行為。
もちろん、当然のことだが、略称した手合いに悪意はない。悪気もなく、なんの気もなしに行っている。いや、ときに、その言動は善意であり、親切心からきて、正義に基づく。セクシュアル・ハラスメントの加害者とおなじように。
「いや、まっ、がく…っ、………っ!」
なんとか態勢を立て直し、叫ぼうとして、結局、カイトは黙った。
悪気などない。なんの気もなかった。ましてや、いやがらせしようだなんて、微塵も。
だからくり返すが、カイト――KAITOにとって『キス』とは、とてもかるいのだ。
とてもかるいが、この『キス』は実は、『セクハラ』とおなじだ。いや、『キス=セクハラ』と、短絡的に繋げるのではない。
先にも述べたとおり、セクハラとは=セクシュアル・ハラスメントの略称だ。
それでカイトの『キス』とは=あいさつのキスが省略されたものだ。
ここで、もともとのことばが持っていた意味までもがつづめられ、あるいは失われて、歪む。
対していたのは、がくぽ――芸能特化型ロイド/VOCALOID:がくぽ、あるいは神威がくぽ。
情報処理能力の高さとともに、最大の喧伝文句は『古式ゆかしいサムライ気質』。
古式ゆかしいナイトであるならまだしも、古式ゆかしいサムライだ。あいさつのキスなどということば以前に、概念から日常に存在しない。
キスと聞けばきっとまず、なにより、情事をこそイメージする。『キス』とだけ聞いたなら、なおのこと、絶対に。
同居して長ければ、それでも良かった。カイトも相手のことをわかってことばを選ぶが、相手だとて、カイトのことばの意味を、省略されようが短縮されようが、ある程度は正確に読み解いただろうから。
なにしろ相手は【がくぽ】だ。情報処理能力の高さを謳われる機種。
ますますもって、カイト以上に誤解なく、カイトのことばを読み解いただろうに――
焦りがあったのだと、カイトは自分を裁く。
焦りがあった。近々に同居を始めたばかりの相手に対して、はやく仲良くならなければという。はやく仲を詰めて、よくしなければと。
それで、つい、いってしまったのだ。
『おてつだい、最後までがんばったの、えらかったな。ごほうびに、キスやるよ』
軽口のつもりだったし、そんなケチくさいものいらないと、断られる前提でもあった。あるいは、そんなものが褒美となる年齢ではないぞと、――
どのみち、断られるのが前提の。
いや、もちろん、ほしいといわれたなら、ちゃんとやる気でもいた。
なにせこのキスは、『ごほうび』と銘打っていたとしても、そして与えるカイトの『年齢』を加味したとしても、性的な意味をまるで含まない。あいさつの域をいっさい、出ることはないものなのだから。
すくなくとも、カイトにとっては。
カイトにとってだけは。
だから、カイトがすべきは、釈明ではなかった。悪意はなかったとか、意味のかるさであるとか、そもそもジョークなんだからまともに受けるなと――
「………ごめん」
目を伏せ、うなだれて、こころの底から反省したようすでこぼしたカイトに、対していた相手、がくぽは最前から変わらず、凍りついた花色を表面すら溶かすことなく、うなずいた。
「はい、カイト」
声には感情がうすく、抑揚もない。『謝罪されたら容れなければならない』、社会的義務感からの返事。
カイトはますますもって、うなだれた。
【がくぽ】はきむずかしい。
なにせ、古式ゆかしいサムライ気質だ。あげく、情報処理能力の高さが仇して、おそろしいほどに、繊細。
一度こじれた感情を直すのは、なかなか骨が折れる。
なかなか骨が折れてとても大変なことなので、今度こそ、よく考えなければならない。
そうまでして仲直りしたい相手であるのかどうかということを。
――そうすると、ちょっとよく、わかんないんだよな。
というのが、実は、今のカイトの正直なところだった。
出会ったばかり、距離感すらはかりかね、未だ、すべてが手探りの時期。
たしかに、こじらせないにこしたことはない。
けれど、骨というほねというホネをばきぼきに折ってまで、どうしても、仲直りしておきたい相手かというと、それもまた、まだまだ手探りの。
相手のこともよくわからないが、相手をどう考えているのか、どう思いたいのか、自分の感情すらもはっきりしきっていない。
いや、ごく単純に考えれば、同居する相手なのだから、なかよくしなければならない。しておくに、こしたことはない。しておいたほうが、無難。
――でもそれって、おれの感情じゃなくって、イッパンロンの感情だからなあ。
「カイトは、がくぽが好きですか」
「ん?」
相変わらず、感情がうすく、抑揚もない声音で淡々と糾され、カイトは考えに沈んでいた目を上げた。
顔を上げて、たしかめても、おなじだ。声だけでなく、がくぽの表情にも感情はない。花色の瞳は、奥底に隠したかもしれない感情すら窺えないほど、かたく、深く凍りついて、微動だにしない。
「好きでもないのに、むやみとキスをすると」
「いや、あのさ。おれ、ってか、KAITOって、デフォであいさつのキスって、あるだろ?いや、えぇっと、あって、だからおれがいうときは、たいがい、そっちで」
「【がくぽ】には、『あいさつのキス』は存在しません」
おおいに誤解が進んでいく気配に、いくらどうでもとカイトが上げた声は、ぴしゃりと叩き落とされた。
感情が刷かれない、乗らない声はとりつく島もなく、ひたすら冷たい。これならきっと、マンモスの巨体だって瞬間冷凍できるだろう。そう、氷河期に特化した生態であるはずのマンモスがときおり、あえなく冷凍状態で見つかるのは、こういうわけだ――
カイトはまたもしゅんとして、目を伏せた。そうでなくともゆらゆら、揺らぐ湖面の瞳が、さらにゆらゆら、余計に揺れて、世界までゆらゆら、不安定に揺れる。
「しってる。てか、思い出した。忘れてた。だから、ごめんって」
「ですから、がくぽがカイトとキスをすれば、必然、口をあわせるのみならず、舌に唾液にと交合するものとなるでしょう。しかしカイトが意図したものがあいさつレベルだとすれば、それは、がくぽがカイトにセクハラを働いたということになります。いえ、セクハラ、性的嫌がらせどころか、性的強要、あるいは暴行と」
「ヤダまってッ!!」
自分が想定したものとまったく――でもないが、けっこう、ちがう方向へと話がすすみはじめ、カイトは脳天を突き抜けるような声を上げた。
それでとりあえず口を噤んでくれたものの、相変わらず極寒の、深くふかく、かたく凍りついて感情の揺らめかない花色まま見つめるがくぽを、こちらはおおいに揺らぎながら、見返す。
見返して、ふと、思い出した。
怒っているから、がくぽは『こう』なのではなかった。
おかしな、自分の常識の範囲にないことをカイトがいいだしたから、なにかがこじれて、がくぽの態度が『こう』なのでは。
がくぽはただ、『こう』なのだった。
【がくぽ】が、ではない。
がくぽが、だ。
カイトと同居をはじめたばかりの、カイトのあたらしい同居人たる、がくぽは。
――感情の表出機能もね、すこし、ふぐあいなんだ。受け取り機能をむりやり麻痺させた、その後遺症の、ひとつと考えられてるけど。
だから。
だから、がくぽは相手からの感情を受け取らないし、自分の感情も返さない。自分の感情を渡さないかわり、相手の感情も、容れない。
「………?」
カイトはひどくうろんな目となり、がくぽを見た。かたく深く凍りついて、わずかも溶けることのない、花色の瞳を。その奥のおく、また奥の、底のそこを。
「なに?がくぽ、おまえ…ごほうび、キスでいいのか。おれからっていうか、おれとキスするの、ごほうびになるんだ?それ、おまえこそどうなの。好きでもない相手と、しかもごほうびって名目で、そんな、デープ・スペクタクルなキスするとか」
カイトの口調はとにかく、ひたすらうろんだった。腑に落ちない、理解が及ばない。ゆえに、非難にも至らず、ただ、うろん。
そのカイトの、揺らぎに揺らぐ湖面の瞳を、まるで揺らぐことなくかたく、深く凍りついた花色は、ますぐに見据えた。
「がくぽはカイトだから、いっています」
それだけ。
あとはただ、マネキンより感情のないロイドがそこにいる。ロイドから人形に戻った、かたちばかりのロイドが。
「………そうか?」
つぶやいて、カイトはまた、首を傾げた。
「そうか?」
二回。
大事なこととしてくり返し、けれど三度目、真実とすべきそれは、出ない。
まだ、出せない。
なにせカイトとがくぽとは、出会ったばかりなのだ。がくぽのほうはどうか知らないが、カイトなど、まだ、自分の感情の整理すらできていない。この相手と仲良くなりたいのか、仲良くなりたいなら、いったいどこまでと望んでいるのか。
だから三度目は保留として、代わりににっこり、笑った。
「まあ、とにかく、がくぽ。おまえ、おれからのキスがごほうびになるんだってことは、わかったから。でも、あいさつのキスは知らない、と。じゃあ、まずは、お試しだな!それでさ、お互い、考えるってことで」
笑いながら、カイトはがくぽの頬に手を伸ばす。
この期に及んでも、ひたすら凍りつき、微動だにしないがくぽの瞳は、かがみとしてよくカイトを映した。
笑いながら近づくカイトを、カイトのくちびるを、いっそまばたきすらせずに――
「………おまえ、せめて、最中は、目を、閉じたら、どうだ」
長いながい『お試し』が終わって、呂律の回らない舌でそう詰ったカイトへ、この期に及んでも感情が刷かれることのないがくぽは、だというのにひどくすがすがしいようすで、答えた。
「次回からは、そうします」