がーーー、と。
静音タイプであっても、ドライヤはうるさい。
とてもつごうのよいぼくらは、
雨降って、未だ地ぬかるむとも、
ましてやまったく静音機能のない、この旧式のドライヤともなると、かけながらしゃべろうとすれば、怒鳴りあいとならざるを得ないほどの。
だから、がくぽもカイトも黙ったまま。
がーーーー、と。
がーーーーーーー、と。
がーーーーーーーーーーーーー、と。
かけているのは、がくぽの髪だ。
風呂に入り、髪を洗って、その最後のさいごの仕上げ。
かけているのは、カイトだ。
揺らぐ瞳の揺らぎすら止めて、がくぽの長く、長いながい手間ひまかかる髪に、ていねいにていねいに、ドライヤを当てていく。
ていねいに、ていねいに、ていねいに――
だとしても、いずれ髪は乾き、ドライヤの時間も終わる。
がぁ、と。
早過ぎもせず、遅過ぎもせず、そのときを読み誤ることなく、ぴったり正確に、カイトはドライヤのスイッチを切った。
スイッチは切って、けれど、くし代わりに当てていた手はまだがくぽの髪から離さず、一度、くしゃりと掻き撫でる。
掻き撫でられた髪が、ふわりと持ち上がり、とすんと落ちた。
「…はい。終わり」
ようやく、終了宣言。ドライヤの騒音の直後では、ため息にも近いほどの音量。
「はい、カイト」
受けて、がくぽはまえを向いたまま――カイトに背を向けたまま、従順に、まずは終了宣言が聞こえたと、返した。
それから、振り返る。ベッドに座るカイトへ、床から腰を上げることなく、けれどからだ全部をきちんと。
揺らぎを戻したカイトの瞳と見合って、がくぽの花色の瞳はそっと、伏せられた。野生のしぐさで恭順を示して、紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが開く。
開いて。
空白、一拍。
「ありがとうございました、カイト。ごめ――」
『んなさい』と。
おそらくきっと、そう、謝罪がつづくはずだったがくぽのくちびるは、カイトが伸ばした首の、当てたくちびるについばまれ、押し戻された。
伏せた目を上げたがくぽを迎えたのは、笑むカイトだ。ベッドに片方だけ上げた足を、もう片方のもものうえに組み、指を頬に当て、思索する仏像めいたかっこうの。
けれど自らのうちにこもるのではなく、カイトはその笑みをがくぽへ向ける。どこか苦く、どこか甘く、なにかが曖昧で、すべてが模糊とした。
「ごめん、がくぽ。さっき――いい過ぎた。おまえに悪気がないのはわかってるんだけど、どうしても、アタマに血がのぼることがあるんだ。ごめん」
謝罪に始まり、謝罪に終わる、念の入った謝罪。
ただじっと見つめていたがくぽの表情に、過る感情はない。浮かぶ思いもなく、だというのにどうしてか、戸惑うようにも映る。
かたく、深くふかくふかく凍りついた花色の瞳の、その奥底の底のそこのどこかで、ぴしりと、ひびが入ったような。
「…」
がくぽは片手を上げ、なにかがひび入ったようにも思えた、とはいえおもてにはなにも変化が兆さない瞳を、かるく、抑えた。
揺らぐ湖面の瞳と片目で見合い、紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるが、のっそり、開く。
「カイトはロイドですので、あたまに血がのぼることはありません」
「うん、がくぽ」
受けて、カイトはけららと笑った。こころの底からたのしげに、からりと。
「そういうとこな。そういうとこ――わかってるし、おもしろいと思うんだ、いつもは。うん、へーきなときは、ぜんっぜん、へーき。でもさっきは、へーきじゃなかった」
笑う、カイトの笑みにうそはなく、無理もない。声は明るく、かるい。
片目を抑えたままそのカイトを見て、がくぽの開いた片目は、わずかに伏せられた。野生の流儀で、恭順の意を示したわけではない。伏せた瞳は、伏せ方とおなじほどわずかのあいだに、また、カイトと目をあわせた。
目があって、カイトの笑みは輝く。
まばゆく、ほんとうに光を放つように。
――そう、見えるのだと。
がくぽは思う。
そう、見えるのだ。まばゆいと、まぶしいと、思う――
「でもな、がくぽ…だめなときでも、今でも、おれはいつだって、おまえが好きだよ。おまえのこと、いつでも好きだから、――いつもへーきで、いつもやさしいおれだと、いーんだけど」
「がくぽは」
笑みは輝くようでも、声は静かに伝えたカイトの、その語尾にかぶさるように、がくぽは口を開いた。
手を下ろして両目でカイトを見据え、紅を塗らずとも朱に濡れるくちびるを、開く。
「――がくぽは、これを悔いることはありません。取り戻すことを望むことも、新たに得たいと願うことも。ですが、カイト」
カイトを見据えるがくぽの瞳は感情を刷くことがなく、ひどく冷酷だ。
カイトに伝える声は感情がうすく、抑揚もなく、ひたすら冷徹に響く。
突き放しているかのような、事務的に話を進めるがくぽは、けれど同時に、はげしくもがくようにも見える。
もがき悶えて、足掻きに喘ぐように。
悔いることも、望むことも、願うことも、なにもないはずだというのに、カイトが――
情人を、まぶしいと感じるから。
目がいたむほど、まぶしいと。
「ですが、カイト――がくぽは、カイトにやさしくありたいと、思います。カイトに、やさしくしたいと…『カイトにやさしいがくぽ』がいいと」
淡々と、がくぽは告げた。淡々と、乗る感情がないために、上滑りな。
カイトはほんの一瞬、つかのま、わずかに、笑みを消した。きょとんとしたように、そう『思う』という男を、まるで思っているようには見えないまま、ことばだけを積み重ねる相手を、まじまじ、見た。
まじまじ、見る視線を、がくぽは平然と受けた。これは単に、過る感情がないからというだけのことで。
カイトはこころゆくまで、思う存分、好きなだけ、まじまじ、がくぽを見て――
破顔。
笑った。
「そか。うん。いかった。おれたち、ちゃんと、おたがいに良くしてやりたいって、思ってるんだな。おたがいに、相手に良くしてやりたいって………もういーやじゃなくって、まだまだ、もっともっとって」
「はい、カイト」
鷹揚な性質らしく、ゆったり、謳い上げるようにたしかめたカイトに、がくぽはこくりと頷いた。ようすは変わらない。表情にも声音にも刷かれる感情はなく、けれどまたしても、カイトの語尾にかぶるように、喰い気味に。
カイトは組んでいた片足を下ろし、手を伸ばした。上半身を倒し、床に座るがくぽへきゅうっと、抱きつく。抱きついて、ぽんぽん、あやすようにぽんぽん、その背を叩いた。
「おれはさ、そういう――おまえの、向上心つよいとこも、好きだ」
ぽつり、こぼすように耳に吹きこみ、カイトはがくぽからからだを離した。ただし首にかけた腕はそのままで、あけたのは、目を見合わせられる程度の距離だけ。
かたく、深くふかく凍りついた花色の瞳が、覗きこむカイトの笑みを映して返す。
カイトは瞼を閉じ、こつりと、がくぽと額をあわせた。
「だから今度、――なんかで、おまえがおれにやさしいの、足りてないなって。おれにもっと、やさしくしたいなって、………おまえがそう、思ったときはさ?まず自分に、やさしくしてやって。おれじゃなくって、まず、がくぽ自身に」
「がくぽに」
額をあわせ、瞼を落としたカイトを、間近になり過ぎて見えない相手を、それでもがくぽは瞳を閉じることなく、見ていた。
なにも浮かばない瞳に、映るのは祈りだ。情人が自分のために捧げる。
感情をうしなったがゆえに、祈りもなくしたがくぽに。
「………がくぽは、カイトに十分に、甘やかされていますから」
「うん、がくぽを甘やかすのは、おれの役目」
だから、自分まで自分にやさしくする必要はないのだと。
ひどく空虚な声で返したがくぽに、カイトはきっぱり返した。
きっぱり返す、瞼が開き、揺らぐ湖面の瞳が現れる。ごく間近、焦点をあわせることも難しい距離で、だというのに、がくぽはカイトの瞳のつよさがまぶしい。
まぶしいと、こうなってすら、思うから。
「がくぽは、おれが甘やかすから。おまえは、おまえにやさしくしてやって」
「…」
ある意味、いつでもカイトのことばは説明不足だ。旧型であり、物難いプログラムの傾向がつよいくせに、筋道を立てて話すということを、しない。できない。
がくぽは慎重に考える間を挟み、まぶしいばかりの情人の瞳をゆっくり、見返した。
まばゆいものを正視するせいで、かたく、深くふかくふかく凍りついた花色の瞳の、奥底のそこの底が痛む。軋んで、ぴしりと、ひびが
「――わかりました、カイト。がくぽは、がくぽにやさしい男を目指します。それから、――それから、がくぽにやさしくできるようになったなら、つぎは、カイトが甘えられる男を。そのつぎは…」
この、がくぽの返しに。
相変わらず、感情が乗らず、抑揚もない、淡々と連ねられることばに。
淡々と、あいだに割り入ることもできないつよさで、連ねられていく、それに。
カイトはまた、破顔した。
破顔して、離したからだを戻し、きゅうっと、がくぽに抱きついた。
「うん。両想いだ。うれしい」
「………はい」
がくぽの返事には、空白が一拍。
同時に、空漠をうめるように手が伸び、がくぽもまた、カイトを抱きしめた。きつく、ともすれば、すがるように。
背が痛むほどのちからでも気にせず、カイトはがくぽの肩口にすりりとなついた。